「アーカイブの墓で眠れ」バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡) 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
アーカイブの墓で眠れ
夢と現実の混淆と相即するように自意識が煮詰まっていくという構造から日本人の我々はまず『新世紀エヴァンゲリオン』を、あるいはウディ・アレンを、フェデリコ・フェリーニを、もう少しニッチな御仁ならチャーリー・カウフマンの『脳内ニューヨーク』を思い出す。あるいは時空をワンカットのうちに幾度も跨ぐテオ・アンゲロプロス。映画界の内幕モノという物語も同様だ。スタンリー・ドーネンの『雨に唄えば』に始まりビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』。フランソワ・トリュフォー『アメリカの夜』、そしてロバート・アルトマン『ザ・プレイヤー』。映像作品の歴史は思いのほか長い。参照点を探そうと思えばこのようにいくらでもタイトルが出てくる。
同じようなものを作ることそれ自体は悪いことではないし、むしろ反省を踏まえた跳躍こそが映画史に新たな文脈を生成する可能性を持つ。しかし本作がそうした無数の類似アーカイブからどのように跳躍、つまり差異を生み出そうとしたのか、その痕跡がどうにも見当たらない。映像は長回しや時空の歪曲といったとっつきやすいセンセーショナリズムに終始するばかりだし、物語はどこまでも狭隘で自己中心的な作家的自意識の範疇を出ない。全編擬似ワンカット!とか言われてもアレクサンドル・ソクーロフの『エルミタージュ幻想』という本物の全編ワンカット映画があるしなあ。
現代の映画界、あるいは客層に対する皮肉としても微妙で、Twitterとかマーベル映画の市場支配とか演劇界との対比とか、現代的表象でラッピングされただけのよくある批判意識が節操なく繰り返されるばかりでいまいち面白味に欠ける。あるある〜わかる〜以上の感慨がない。というかきょうび誰もがネットやら学校やら会社やらでアイデンティティ・クライシスなるものに直面している時代だというのに、それをさもクリエイター固有の痛みであるかのようにやたら事細かく神経症的に描き出すというのはやはり少し安易なんじゃないかと思う。それに自意識を語る映画の中で自意識に関係するワードを直接出すのは流石によくない。マジで言わなくていい。たった一言の発話でも意味だけは正確に伝わるようなところをギリギリまで口を閉ざして迂回して、逆に相手のほうから歩み寄るのを待つ、そうすることで「理解」の範疇を超えた感動が生まれる。それが視覚芸術たる映画の魅力なんじゃないのか。
仮に、この何とも手ぬるい出来栄えそのものが、つまりはこの映画そのものが一つの巨大な皮肉なのだ、などと言い張るのなら、私はもうお手上げだ。私は映画を見に来たのであって、その外側に漂うコノテーションの靄を集めに来たのではない。映画として世に出す以上は映画の中で面白いことをしてほしかった。というかスクリーンというフレームの外側に主戦場を移した時点で映画としては負けだと思う。ただ、あのラストシーン、娘のエマ・ストーンが如何とも形容しがたい表情で窓外の上方を見上げるあのシーンだけはよかった。
とりあえずレイモンド・カーヴァーでも読むか〜。