シーヴァス 王子さまになりたかった少年と負け犬だった闘犬の物語 : 映画評論・批評

2015年10月13日更新

2015年10月24日よりユーロスペースほかにてロードショー

主人公の少年の“存在力”が、観察の姿勢を貫く映画にスリルを内包させる

フランス映画の今を担う実力派アルノー・デプレシャン監督。新作「あの頃、エッフェル塔の下で」で抜擢した新人女優の魅力を彼は「カメラと拮抗し得る存在感の強さ」と述懐してみせた。トルコ東部アナトリア地方の寒村を背景にした新鋭カアン・ミュジデジ監督作「シーヴァス」――その主人公アスラン(と彼を体現する11歳の少年ドアン・イズジ)の眼差しがつきつけるのもまさにそんな噛みごたえある存在感に他ならない。

同級生の中で“お味噌扱い”のアスランは、それでも毅然と前を見すえ、生粋の闘志の塊のようなものをその眼差しに湛えている。理不尽な大人を前にしても決してへこたれない。“子供の日”の劇では王子さまを演じたかった。大好きな少女が白雪姫を演じるから。が、先生は村長の息子に大役を与えてしまう。収まらない気持ちで坂道を往く少年の背中を手持ちカメラが追う。心の揺れをすくいとる画面にふっと少年の眼差しが食い込む。黒い睫毛に縁取られたまっすぐな眼の力がありきたりのドラマに勝るドラマを生起させる。

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死んだと誰もが見捨てた闘犬シーヴァスと、その命を信じて傍らに居座るアスラン。暮れゆく荒れ野の木立のふもとで寒さに震える少年と闘犬を映画は迷いなく引きの画の中に並べる。余計な感傷に付け入る隙を与えぬまま、ただそこに在ることをする一人と一頭のそっけない親和の瞬間にみとれる。闘犬に向けたアスランの執着は、前段で廃馬を見捨てたことへの罪悪感と無縁ではないだろう。けれども映画はそんな因果関係を説明しようとはしない。感情のドラマを感傷的に謳うかわりに映画はどこまでも少年の眼差しの純度を物語りの牽引力とする。この子が次に何をしでかすのかと、ただそこにいる少年の“存在力”が、観察の姿勢を貫く映画にスリルを内包させる。闘犬で一儲けを企む大人たちに抗う少年が多分もう少しだけ男たちの力の仕組の中へと取り込まれていることも監督は厳しくみつめ切る。そうやって少年の眼差しに拮抗する映画の眼差しを世界に向けている。

川口敦子

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