「強烈な毒にあてられて、悪酔いする。」セッション とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)
強烈な毒にあてられて、悪酔いする。
JAZZは詳しくないが、好きだ。
『ケルンコンサート』でキース・ジャレット氏を知って、トリオの来日公演に行った。この世に、こんな演奏があるのかと、震えた。
コロナ前まで開催されていた、近所のフェスで、Sr.Edmar Castanedaのセッションや、もう解散しちゃったけれど、フライドプライドのセッションにも酔った。いつか、ブルーノート東京やコットンクラブにも行ってみたい。それまでは、『死刑台のエレベーター』『ハスラー』『ブリット』や、CDに酔いしれて、と、この程度だが。
他の方が指摘されているように、JAZZの映画としてこの映画を見てはいけないのだろう。
演奏は見事だが、酔えない。技巧は称賛に値するものなのだろうが。
描かれている物語のせい?
『死刑台のエレベーター』も登場人物は倫理にはずれる人々だったが、それでも、ジャンヌ・モローさんの演技もあって、切なく、揺さぶられるものがあった。
『ハスラー』のエディも人生のどん底に落ちて…。『ブリット』もしてやられてからの巻き返し。
そんな、物語をより際立たせてくれていたJAZZ。
この映画では、JAZZは劇伴として使われていない。映画で描きたいものを描くための道具だ。
コンクール前の練習・コンクール、スカウトに目を止めてもらうことを期待したフェスでの演奏がほとんど。だからか、”正確””テクニック”が重視された音楽として演出され、演奏されているように聞こえて、そこに”心”が感じられない。お店でのライブ演奏も、曲は良いものなのだが、浸れない。
演奏のせいか、そこに起こっている物語にあてられて、私がJAZZを楽しむゆとりがないからなのか。
ショービジネスの厳しさ。
コンクールに勝ち残るためには、相当の鍛錬が必要なのだろう。『シャイン』でも、かなり追い詰められていた。『ファーストポジション』での、少年少女たちに課されるもの。
演劇界でも、実際に蜷川氏は灰皿を投げたと聞くし、井上ひさし氏も、一時期はDVが問題になっていた。ワイラー監督のような、驚異的なテイクの多さが語り継がれる監督もいる。
最高のものを作り上げる。自分を、演者を追い込み、高みに飛翔する。産みの苦しみ。
ドラムのリズムがずれていたら、まずいだろう。特に、コンクールでは。
ここまで高みを目指すようなものでなくとも、技能を上げるためには、「頑張った、よくやった」とアンドリューの父が言うような適当なことを言われるよりは、はっきりと指摘してくれた方が、伸びる。
学校の”先生”ではなくて、”師”につく難しさ。”学校の先生”は、世間が求めるある最低ラインの技能・学力を身につけさせることがその責務だが、”師”は違う。”師”のイメージしている世界にいかに近づくか。自分の代わりなんでいくらでもいる。”師”とて他にもたくさんいるが、自分が求めたその”師”に認められるかは別問題。
オーディションの厳しさ。スカウトの目に留まるチャンス。
映画でも、イメージが違う他で交代する配役。『イヴの総て』等、そのことを題材にしてきた映画はあまたある。
努力なしにはつかめないが、努力したからと言って掴めるものではない。
遅刻は、社会人としてのマナーの問題。まだ19歳、でも、もう成人した19歳。交通機関の事故とは言え、報連相は当然必須。
演奏場所。ホームを持たない、渡り鳥なら、チャンスを求めて、やりくりしているのだろうな。どんなプロも。
と、考えれば、フレッチャーが、特に無理難題を押し付けているわけではないのだが…。
自己中な二人。似た者同士。
才能があると過信したい中二病的なニーマン。
己の理屈を押し付けるフレッチャー。
皆と”音楽”を作ろうという発想はない。
頭と心を占めるのは、己のことのみ。
その怪我で、登壇したって、演奏できないだろうと小学生だってわかりそうなものなのに、しがみつくニーマン。怪我したのは自分のせいなのに。トラックも巻き添いをくらい、他のバンドメンバーのチャンスをつぶす。それなのに、さらに…。
「天才を作る」という主張の元、メンバーの心をもてあそぶ、フレッチャー。あのトロンボーン奏者との会話はなんなんだ。ドラマーを3人。競わせるまではまだ許容範囲だが、そこでの鼓舞の仕方はなんなんだ。己が、この世界の神であることを自分自身が確かめるために、トロンボーン奏者をなぶり、ドラマーに圧をかける。そうすることによって、他のメンバーを支配する。反社会的勢力のリンチと同じ。俺に逆らえば、お前もこうなるぞと。だから、その演奏に伸びやかさがない。軽やかさがない。遊びがない。きっちりしているけれど。
「音楽をやる理由がある」ニーマン。だが、それは、自分を認めさせる手段。故郷で、一緒にディナーする家族の鼻を明かしたいから。それゆえ、ここから外されてしまってはとしがみつく。視野狭窄。他の可能性には目を閉ざす。そこに、JAZZへの愛は感じられない。
フレッチャーも同じ。フェスでの仕打ち。ニーマンへの腹いせまでは理解する。けれど、元々のこのバンドのドラマーや自分が指揮するバンドメンバー、お金を払って、すてきな音楽を聴きに来たフェスの観客のことは全く考えていない。己の欲が満たされれば、それでよい。そこにJAZZへの愛は感じられない。
そんな演奏を聞きたいと思う人がいるのだろうか。
作中、フレッチャーがJAZZが衰退した理由をもっともらしく語るけれど、私からしたら、そんなふうに、JAZZを手段としてしか考えないあなた方が衰退させたのだと言いたい。
ラスト。
映画が始まった当初は、猫背で上目使いでおどおどしていた少年が、終盤、真正面から相手を見据えて立ち向かっていく。
いつも逃げ場所を用意してくれるが、故郷のディナーでのように肝心なところでは庇ってくれない、肯定しているふりして否定してくる、成長を止める真綿のような父を振り切って。
そこを、ニーマンの成長譚と言えば、そうなのだろう。
けれど、
自己中×自己中、自己満と自己満のぶつかり合い。
そこは、全く変わっていない。自分たちの求めるものの為なら、他者なんて存在しない。
ニーマンとフレッチャーにとっては至福の世界なのだろうが…。
二人の毒がまき散らされて、悪酔いする。
そんな音楽なんて聴きたくない。楽しめない。
『ラ・ラ・ランド』の開設で「監督のJAZZへの愛が~」という文を読んだけれど、
監督は、本当にJAZZを愛しているのだろうか?その教育課程で愛憎まみえたものと化しているのか。
二人の男の絡み合い。
この先も業火に焼き続けられるのだろう。周りに毒を振りまきながら。
世間の片隅で。でも、本人たちは世の中を支配できるんだと思い続けるのだろう。
☆ ☆ ☆
映画自体は、私にとって不愉快なものだった。
でも、フレッチャーを演じられたシモンズ氏の怪演と、
ドラム演奏を披露してくれたテラー氏、ストウェル氏、ラング氏、
酔えなかったけれど、すてきな演奏を当ててくれたJAZZマンに、
☆2つ。