「愛憎を見下ろす高層建築」グリーンフィッシュ 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
愛憎を見下ろす高層建築
韓国の巨匠イ・チャンドンのデビュー作。
貧相な郊外に暮らすマクトンはひょんなことからナイトクラブで働く歌手のミエに惹かれる。しかし彼女は野心ある実業家(要するにヤクザ)ペ・テゴンの愛人だった。紆余曲折を経てペ・テゴンの部下となったマクトンは、ミエへの思慕とペ・テゴンへの忠誠心の間で苦しい二律背反に苛まれる。いや、彼だけではない。ミエも男性支配から逃れたい一方で男を欲しているし、ペ・テゴンも暴力による支配の快楽の代償として暴力による被支配の苦痛に喘いでいる。さらにいえばマクトンは家族一緒に暮らしたいというささやかな夢を叶えるために、ヤクザ稼業という団欒からは最もほど遠い仕事に精を出さなければならないという矛盾に苦しむ。
時折鏡やガラスに印象的に映り込む彼らの姿は、二律背反に苦しむ彼らの分裂した自我であるかのようだ。しかし虚像は虚像でしかなく、むしろ現実のままならなさがいっそう強調される。暴力の応酬とひりついた夜のあわいに時には連帯と許容の炎が萌すこともあったが、明け方には嘘のように雲散霧消している。地平線の向こうにくっきりと浮かび上がる小綺麗な新興住宅地があまりにも不気味だ。その此岸に留まり続けようとするマクトンと彼岸への跳躍を野望するペ・テゴン。どれだけ仁義の約束を交わそうと、2人がわかりあうことはそもそも不可能なのだ。そんな水と油のような2人を無意識に接近させてしまうミエのファム・ファタールぶり。それら全てを遠くから睥睨する無機質な高層建築。本当に歯向かうべき敵は彼らの目に映らない。
物語の結末は目を覆いたくなるくらい悲惨だ。マクトンを殺したペ・テゴンは闇社会で順当に成り上がる。ミエに自身の子を孕ませ、マクトンの貧相な実家から見える新興住宅街に居を構える。彼らはマクトンの家族がマクトンの死後にオープンした小さな料理屋をふと訪れ、そこで食事を摂る。マクトンの家族たちはマクトンの命を奪ったのが目の前にいるぺ・テゴンだとはつゆ知らず彼らを歓待する。当然ペ・テゴンも彼らがマクトンの家族であることを知らない。このときの地鶏屠殺パフォーマンスのシークエンスは彼らを取り巻く状況のグロテスクさを視覚的に倍加する。マクトンの兄弟たちが食事を終えたペ・テゴンたちにヘコヘコと頭を下げて挨拶するシーンなどは残酷すぎて正視に耐えない。
戦後の日本映画や第6世代以降の中国映画の中には、急激な経済発展の功罪をごく個人的な物語を通じてアクチュアルに描き出す作品が散見される(あるいはアメリカ黄金時代のフィッツジェラルドの諸作品なんかも)。本作もその例に漏れず、朴正煕政権以降の韓国経済の急激な発展に振り回される人々の姿が描かれる。
イ・チャンドンは社会の速度に取り残された人々に照準を絞り続けてきた。『オアシス』では障害者が、『ペパーミント・キャンディー』では民主化デモの余波に揺れる人々がそれぞれ丹念に描かれたわけだが、本作の場合はペ・テゴン率いる反社会的組織がそういった「弱者」として俎上に載せられている。
「反社」という表象を巡っては、60年代の任侠映画や、40~50年代のフィルム・ノワール、あるいはそれの影響を受けた台湾や韓国のノワールがそうであるように、彼らを単なる犯罪者ではなく、「仁義」や「破滅」といった美学の体現者として崇拝する向きがある。
しかし本作はそうしたフィクショナルな「反社」像に惑わされず、截然と彼らを「弱者」として描き切る。そこには美しい外連味に彩られた「仁義」も「破滅」も存在しない。マクトンがほとんど何も見えない真っ暗闇の中で銃撃されたことや、死に際の彼がフロントガラスに張り付いて福笑いのような滑稽な相好になったことは、映画史を貫く「『反社』の美学」からの意図的な逃走を意味しているように思う。
「反社」を特権化しないという点において本作は北野武のヤクザ映画と共通しているようにも思えるが、北野武が「反社」への憧憬どころか人間性そのものさえも画面から一掃してしまっている一方で、イ・チャンドンは擦り切れた作品世界の終点に回復へのかすかな道筋を敷設する。
食事を終えたミエは料理屋の外に聳える柳の木を見て何かを思い出す。彼女のカバンの中からかつてマクトンから貰った一枚の写真が出てくる。そこには大きな柳の木が映し出されている。全てを理解した彼女が流す涙は、劇中に堆積した不条理の汚泥を洗い流していく。その程度で清算できるような痛みではないことは誰もが承知しているが、それでもすべてがダメになってしまったわけではないことが受け手に強く印象付けられる。そして映画はマクトンの家族たちが庭をめいめいに動き回るところで幕を閉じる。この望遠ショットが本当によかった。
注意深く観察に徹しながらも根本的な部分で人間性なるものを信頼している(あるいはその存在を祈っている)という点においてイ・チャンドンは小説家的な映画作家だと改めて思った。元々は小説家だったというのも宜なるかなという気持ちだ。