きみはいい子のレビュー・感想・評価
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こどもがテーマ
小学生の担任高良健吾のはなし
僕も小学生を何十人もみた経験があるから、こどもがうるさくなった収集できなくなる様はすごくわかった。大変なんだよな。こどもをみるって。
高良健吾は好きな俳優です。高橋和也もジャニーズの人だったのに本当にいい俳優になったとこの映画でも感じた。
親の虐待やネグレクトがあっても教員ができる範囲は限られてると劇中であるんだが、声にならない声をひろわないといけないんだよ、こどもを救う方法がもっと整えばと考えさせられる。
尾野真千子の虐待のはなし
池脇千鶴に尾野真千子は救われた。
虐待を受けたこどもは不思議と虐待を
する。現代の深い問題。
障害を持つこどもと母親のはなし
おばあちゃんとのやりとりで、
富田靖子は救われた。
障害を持つ親の心のケアだって
必要な課題だなと思った。
こどもをテーマに考えさせられる
映画でした。
良かったです。
いい子でなくても良いとも思う
友達に勧められて鑑賞しました。
偶然にも1本前に見た映画が「ここのみにて光輝く」で同じ呉監督!ご縁を感じました。
ストーリーは3つのそれぞれ違った主人公がおり、交わる事なく最後まで進みます。
ただ全てに共通するのは"子供"。
現在、私自身が子育て真っ最中で、まさにドンピシャの世代が描かれていた娘を虐待してしまうお母さんの話は、観ていて胸が痛くなりました。
映画ではこのお母さんも虐待の被害者であると言うことでしたが、私自身は酷くはないもののかなり厳しく、また親が感情的なタイプだったので、子供の頃はそれこそ"いい子"でいようと頑張っていました。
そんな私が母となり、2児を必死で育てる今、正直いうと感情的になって、子供に手をあげたり、大きな声で叱りつけたりする事があります。決してそんな事をしている私は良い母親とは言えません。ただ、今はまだ日常的にそれを繰り返しはしていませんが、いつ、どんな事をきっかけに私たち母親は虐待をしてしまうかは誰にもわかりません。そのくらい、子育てに没頭してついつい我を見失いかけて、自信をなくしては子供に当たっている弱い自分です。
子供に手をあげることは必要でないとは思います。
それはもちろん分かってはいるつもりでしたが、その姿を映像で見た時に恐ろしくなりました。
私もこんな顔してるのかな、こんな怖い目に子供を合わせているのか、、、など、心をえぐられるようでしたが、実際に母親から怒鳴られたり、叩かれたりしている我が子のことを思うと、言葉になりません。
映画のワンシーンで、疲労困憊、自信喪失している小学校教諭に甥っ子が膝に乗って、「頑張れ、頑張れ」と言いながらポンポンっと体に触れるシーンは涙が止まりませんでした。その後の、姉からの言葉。
「息子に優しくすれば、それを息子が真似する。つまり、息子に優しくなれば、世界は平和になる」
本当にその通りだなと思いました。
昔、自身の母親に言われた台詞を思い出しました。
もともと子供がそんなに好きではない私が、
「私は自分の子供は可愛いけど、よその子は全然可愛いとは思わないのよなー」
と言ったことに対して母は、
「それで十分や。世の中のお母さんがみんな自分の子供を可愛いと思ってたらそれだけで十分。そしたら虐待なんか無くなるわ」
と言いました。
その言葉を聞いてから、自信を持って私は他人の子に良い意味で興味がなくなりました笑
誰と比べていい子になるのか、と言うことではなく、あなたはいい子だ。ということを伝えるストーリーなんですが、なんとなくそこは違和感を持ちました。
いい子でなくてもよい。ただあなたがあなたでいればそれでよい。あなたが大好き。とその気持ちだけ伝えられれば、その気持ちさへ子供にちゃんと伝えられれば良いかなと思いました。
いろんな場面で涙が溢れてしまいましたが、時々思い出したように鑑賞したくなる映画でした。
ついつい、自分の感情のままに振る舞う私ですが、そんなめちゃくちゃな私を全力で好きだと伝えてくれる我が子達をもっともっと大切にしなければと思いました。
よい映画に出会えて良かったです。
レビュー
大人も子供もない。
・人間全員が「いい子」であり、それに気づかせてくれる存在がいたか、いなかったかだけの違いなんだなぁ
・「だから、ハグしてみませんか?」というシンプルで明快なメッセージ
・人間には、食欲・性欲・睡眠欲のほかにも、抱きしめられたい欲があることを知る
・池脇千鶴が素晴らしすぎる
・「ウチの子になる?」の真意が泣けちゃう
・いまの日本に必要な栄養補給ができる映画
・「子供を愛すると世界が変わる」とは、親と子供だけに限らず、「他人になにかを与える人間になることで自分の世界が変わる」ということなのだと解釈
・世界が変わる瞬間、ほんわりオレンジの光を当てる照明効果で思い切った表現をしている(尾野真千子が抱きしめられるシーン)
・主人公が変わるシーンへジャンプする瞬間の繋ぎ方が美しい(涙からの水たまりぽちゃんとか)
・人間が主人公(特に新人教師)でもあるけど、ひとつの街を主人公として扱っている
・冒頭でクラスの生徒たちのクッソガキぶりをみせてから、ハグの感想をリアルなトーンで述べるシーンで、良い奴らじゃんって思わせる魅せ方がいい
隠れた名作
という見出しにすると、
もしかしたら失礼にあたるかもしれない。
ただ、本作を一言で表現するならこのワードに尽きる。
3つの短編エピソードを一つに纏め上げたことは鑑賞後に知ったことだが、
私は本当に正解だったと思う。
学級崩壊、虐待、認知症
字面を見ただけだとパンチが効きすぎているし、
もしかしたら観る人を選ぶ作品なのかもしれない。
ただ、どれも世界中が抱えている問題で、
今では避けて通れないテーマだ。
その3つを映画というツールで1つに凝縮して描き、
スクリーンで訴えかけた監督・キャストはすごい。
そのすごさの理由は、鑑賞後に絶対分かるはず。
エンドロールに切り替わるラストシーンにも
恐らく伝えたかったことが込められているのではないだろうか。
どういう気持ちの時におススメしたら良いかは難しいが、ぜひ機会があれば観て欲しい。
抱きしめ、抱きしめられたくなる
素晴らしい。
子役の演出がどこまで演技で、
どこまでアドリブなのか分からないけど、
前半のクラス崩壊までは行かないけど、
まとまらない生徒たちにはかなりムカつきます。
もう最後まで見てられるのか?
と言うくらいのストレスです。
このストレスこそ先生のストレスなんだなと、
これが小学生のときの自分かと思うと反省しきりで、
学校の先生に頭が上がりません。
大きく3つの話で構成されてるのだけど、
尾野真千子さんの演技はリアルで見ててとても辛く、
バッドエンディングを創造させます。
そしていつタガが外れるか分からない状況での尾野真千子を
止められるのは池脇千鶴さんしかおりません。
素晴らしいキャスティングだと思いました。
障害を持った子とおばあちゃんの話は、
はじまりこそ事件の匂いがしましたが、
この映画の中で唯一の優しい世界と言うか
ほっこり出来ました。
そして、もう一つの高良健吾と生徒たち、
高良健吾さんのストレスフルな日常が
手に取るように分かり、先生自身もやる気がなく、
逃げ出したい気持ちにとても感情移入出来るのだけど、
終盤のインタビュー形式の演出で、
役柄と共に本当の先生になって行く高良健吾と、
リアルな生徒たちの答えに涙が出ました。
どの話も着地点が素晴らしくとても良い映画だったなと
満足出来ました。
辛くて見ていられない
私が子どもを育て始めたのは、一人目が22 二人目が25。
貧乏で 一つ年下の夫も働くのに必死で 夫の側が子どもの面倒見るなんて雰囲気は 今ほど世の中にもなくて
休みの日は朝からパチンコで「俺はいないと思え」とまで言っていた。
それから ん十年。
あの頃の事は 全然覚えておりません と言う風に目尻下げておじいさんをしてるけども。
そんなだから 私は 夫がいなくても一人でなんでも出来る女になっていた。
もちろん 夫は仕事はちゃんとしてたので 貧しいながらもまあまあ普通にやって来れてたわけだけど。
でも 子どもが幼い頃の私は ほんとに余裕がなかった。
若さに任せて 許さないものは許しません といった育て方をした。
だから いわゆる 良い子に育っているんだけれど
この尾野真千子を見てるのが辛くて 見ていられない。
私は虐待されて育ったわけじゃないから
自分が嫌いとか タバコの火を押し付けるとか そんな事はもちろんしてもされてもないけど
厳し目に育てたなあと
思い返すと そう思う。
だから 娘たちの子育てには 出来る限り協力して
気持ちの余裕を与えてあげたいと思って日々暮らしている。
かなりのおばあちゃんっ子になっちゃったのを見て
どうしたものかと思う事もある訳だけど
こういう映像を見るのが辛過ぎる。
尾野真千子の あの愛情のない視線が もう耐えられない。
最後に どのストーリーにもあたたかみが残されてたのは救い。
この 呉美保監督の作品は
今後は 世の中がこんなに不安でいっぱいの頃などでなく
気持ちも明るめで気分も良いときに見よう
(現在 新型コロナで 世界まるごとで 大変な最中です)
では、悪い子は誰??
進んだ社会に住む大衆ほど、社会がより完璧であることを望む。しかし、社会がどんなに完璧に近づいても、決して完璧は訪れない。民主主義によって大多数は救われる世の中になったが、民主主義に選ばれなかった少数者は常に存在する。ネットの発達によって、苦しむ少数者の声は以前より拡散されるようになり、そんな人を無視する行政に対して外野から批判する活動家の声も大きくなった。
しかし、「迷惑をかけてはいけない」という意識が深く根付いている日本社会では、少数の大きな声「ノイジー・マイノリティ」のために必要性が疑われる行政対応がなされる場合がある。
本作にもその気配がある。「花びらを掃除するのが大変だ」という理由で学校の桜の木を切ることを求める近所の声に仕方なく従ってしまう学校。行き過ぎた男女平等意識から児童をみんな「さん」で呼ばないといけないルール。などだ。
もちろん市民の声が漏れなく掬い上げられることが悪いと言いたいわけではないし、少数者は諦めろと言っているわけでもない。むしろ、少数者の問題の中には無視できない重要なものも多い。
ただ、どうでもいい少数意見には従うのに、本当に苦しんでいる少数に対して行政が上手く立ち回れないことはあまりにも多い。虐待やいじめ問題などはその槍玉に挙がる典型だ。マスコミもネットも、虐待を見逃した児童相談所、いじめ隠蔽に走った学校を見つけては、強い口調でセンセーショナルに報道し炎上を引き起こす。
行政が分け隔てなく機能して欲しいのは確かだ。しかし我々はどこまで期待すればいいのだろうか。皆がコレ欲しいアレ欲しいと言うことが全て満たされる世の中などあり得るわけがない。ある問題を解決するために別の問題が生まれたりする。どんな名医も患部に傷を残さずにメスを入れることはできないのだ。
「きみはいい子」はそんな問題に板挟みされる現代社会と、それを構成する多様な人々を描く。
本作の登場人物のキャラ設定はある意味分かりやすい。...発達障害を持って授業中に時々発狂してしまう子とその母。知らないうちに万引きしてしまう認知症の老婆。虐待を繰り返す母と、帰ってこない父。虐待する父と、帰ってこない母。持病があって授業中にお漏らししてからかわれる子。いじめられる子。いじめる子。そんな我が子を愛する親たち。…などだ。
「壮絶で陰湿ないじめ」や「残酷な虐待」というホラーでドラマチックなものではなく、本当にありそうな程度の事例を映像にしているため嫌なほどリアルに感じられる。それらを掻き集めて一本の映画にしているから極端に見えるかもしれないが、これと相似する物語はどんな町を舞台にしても現実として起こっているだろう。
主人公の一人である小学校教師である岡野(高良健吾)も小学校を中心に起こる問題対応に奮闘する若手教師だ。
さて、小学校は大変だ。閉じた環境は必然的にいじめを作り出し、いじめ以外にも様々な問題が起きる。そして子供に何かあれば親は学校を責める。教師たちは肝心の勉強よりも各方面から来るノイズキャンセリングと調整が業務の大部分を占めている。岡野がそんな学校に疲れて姉の家に愚痴を言いに行った際、姉の5歳くらいの息子が岡野を「よしよし」と抱きしめる場面がある。それに感銘を受けた岡野は後日「家の人に抱きしめられて来る」という宿題を児童たちに出す。次の日、いじめる側の児童、いじめられる側の児童、目立つ子、目立たない子も恥ずかしながら宿題をやってきた報告をする。そんな子供たちの罪のない純粋な表情が、小学校の主人公は子供であることを思い出させてくれる。
もう一人の主人公である水木(尾野真千子)は虐待をする側の母親として描かれる。水木自身が過去に虐待を受けており、その恐ろしさを知っていながら、我が子には同じように虐待をしてしまう。ある日の些細な出来事から、水木が娘に虐待していることをママ友である大宮(池脇千鶴)は気付く。優しい母として育児をこなす大宮も実は子供の頃虐待を受けていた。虐待をしてしまう水木の心の危うさは大宮に理解され、やはり大宮に抱きしめられると言う形で水木は愛の温もりを思い出す。
心理学の研究で「幼少時代にストレスが多かった子供はストレスに弱く育つ。」というものがある。多くのストレスに晒されれば鍛えられて耐性が付くという根性論はデータに否定されている。しかもストレスでDNAが書き換わりその弊害は遺伝するとも言われる。
虐待する親も心の闇を抱えていて、それは外部の人間が強引に解決できるものではない。
要所要所で描かれる抱きしめるシーンは愛に期待しなくなった現代社会に愛の力を思い出させてくれる。行政の不行き届きの問題も、最後は当事者同士の愛で補いなさいというメッセージを伝えているようにも感じた。愛で世界は救えるというのは絵空言葉かもしれないが、愛は自分くらいなら変えてくれるかもしれない。
三番目の主人公である認知症の単身老婆もあるテーマを物語っていた。自分が万引きしたことを覚えていない、発達障害の他人の子を家に上げてお菓子をあげては、彼の発達障害に気づいてもいない、ありもしない桜の花びらを綺麗だと言うなど、彼女の目に写る日常はズレている。もちろんそれは彼女が認知症を患えているからである。それ以外の理屈で彼女の見る世界を肯定するのはなかなか難しい。しかし、理屈で切り込みづらい問題が、理屈外の力でなんとなく良い方向へ運ばれる例を彼女は体現していた。
最後、父から虐待されている神田さんが、岡野が例の宿題を出した次の日から学校に来なくなってしまった。もちろん彼の問題は愛で解決できる類のものでないことは岡野自身も予想していたはずだ。親子関係から見れば岡野は部外者である。しかし岡野は意を決し、幻の桜の花びらが舞い散る道を駆け抜けて彼の家へ向かう。そして、ドアをノックするところで物語は終わる。
神田さんの父はどうして虐待しているのか。それを深掘っていくことも彼の救済劇の顛末も描かれなかった。そのため、映画の鑑賞後にはモヤモヤとした感覚が残る。しかし、もしスッキリする終わり方をしてしまえば観客である我々はこの問題を映画の中で終わりにしてしまう。そうしてしまうと誰かからノックされることを待っている現実世界の神田さんは救われないのだ。
きみはいい子だとしたら、悪い子は誰なのだろう。本作品は悪役を名指しするようなことはしていない。むしろ、複数の視点から悪い子にも実は罪がないことをしきりにほのめかしている。
だからと言って、この物語に出てくる人々を一括りにして「きみ”たち"は誰も悪くない」と言うことは違う。なぜなら、自分たちは悪くないと錯覚した集団は、その外に「悪い子」を探すようになるからだ。
そうではなく、「きみはいい子」だと慰め合える個人の関係を皆がこっそりと築くことが大事なのだ。そして、その一対一の関係を愛と呼ぶのではなかろうか。
なんとなくドラマ「夜行観覧車」のエンディング曲だったAIの「Voice」を思い出した。世の中、愛が足りてませんな。
愛は世界を救う?かもしれない
多くの方に見てもらいたい映画
名作
人を殺して血の抜き方を教える映画だったり、人が人を食う映画だったり、と、最近ちょっとやそっとの恐怖表現の映画は慣れっこだと思ってましたが、最大の恐怖表現を忘れてました。
子供への虐待=社会的弱者への暴力
韓国映画「トガニ」で怒りに打ち震えた体験はありましたが、あれは映像で虐待を見せたり説明してたりしてたのですが、この映画の中の(総じて)虐待は、その表面に見える事実の裏にはものすごく深い闇があることを容易に想像させ、その観客の想像こそ最大の恐怖という、ヒューマンドラマに見えて実はホラーという、たちの悪い映画でした。
話の展開も斬新で、3つの話がほぼ絡むことなく始まり終わる。いやあれとあれはたぶん絡んでる。ヒントはこの呉監督の「そこのみにて光り輝く」に隠されている、いや配役にもこんな妙があるのか、この監督只者ではない!
しかし自分はもっと最悪な展開を予想していたので、それより救いがあってホッとしました。
(ちょっと認知症のおばあちゃんと自閉症の子の話)
池脇千鶴の行動には見事に裏切られ、憎さ100倍だった尾野真千子も救われてホントにホッとした。
なんだかんだで大好きな作品です。
「自分の子どもに優しくすると世界が平和になる」
名言だと思います。
呼び鈴を押して逃げる小学生を咎めることもしない独り暮らしの老人あきこ。
沢山の人に観てほしい映画
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