「擬似的親子物語」フューリー ロロ・トマシさんの映画レビュー(感想・評価)
擬似的親子物語
所謂、戦争映画のカタチを借りた、「戦場で擬似的に発生した“父と息子”の物語」と例えれば分かり易いかもしれません。
ミリタリー好きが狂喜乱舞!ミリタリーファン垂涎!という方向での観方も勿論出来るんですけども(この映画の目玉として話題になっているティガー戦車然りね)、ただ、そこにやたら比重を置き過ぎてもいないというか、そこで終わりにしていないというかね。残虐こそが普通だった現実、これが戦争だ!戦場に身を投じるとはこういうことだ!という方でのメッセージ性も強く感じました。ブラピがこの企画に惚れ込んだ本当の要因はそこにあるような気もしましたね。
で、何故これが擬似的な“父と息子”の物語なのかというと、ブラピ演じるウォーダディーはフューリーと名付けられた戦車の頭で、そのチームに戦争経験0の新兵ノーマン君が加入する所から話は動き出すんですが、要は熟練のウォーダディーとトーシロのノーマン君の関係性が劇中で親子のようになっていくということですね。
非人間的な行いが平然と行われる、残虐極まりない現場にポンと放り込まれたノーマン君の心はずっと穏やかではいられないのですよ。激しい拒絶反応を示すんです。泣き叫んで、ゲロも吐く。全然気持ちの良い場所ではないし、所業は鬼畜の如し。そんな彼をウォーダディーがとことん追い込むんですね。甘やかさない。殴るし蹴る。許しを乞う敵兵を撃ち殺せと指示する。イヤがれば無理やりに殺させる。そうやって敵兵を殺すことのみ徹底的に教え込むんです。それが戦争だから、と。
戦場じゃあ倫理観や道徳心はひとつも通用しないので。最も捨てるべきは敵への情けだから。此処では「人間らしさ」を手放さなければならない訳です。ウォーダディーはそれをノーマンに執拗に教える。もう教育ですよね。大量虐殺なんて、そりゃ善行かどうかなんて問うまでもなく、善である訳がないってのはフューリーのチーム全員、戦場の人間、敵味方関係なく地球上の誰しも知っていることでしょう(ヒトラーとかは除きますけど)。しかし、今は戦争で此処は戦場だ、と。ヒューマニティーは必要ないし存在しない、と。
だけど、ウォーダディーはただ厳しいんじゃなくて、ノーマンにメッセージもちゃんと伝えます。「理想は平和だが戦争は残酷だ」と。行動でも伝えます。敵国の市街住民には一切手を出しませんから。此処では何が必要で、どんな行いが為されるべきか、ということ。やがてノーマンも彼の意識に感化されていく。その人間性に惹き付けられていく。まさに“父と息子”の関係になっていくんですよ。フューリーという名の家に住まう家族ですね。
そういった、こう、人間関係が、より映画にリアリティを持たせていたように思います。激しい戦闘シーンも勿論必見です。が、その手放さなければならない「人間らしさ」を、手放してしまった男達の苦悩、それが一番の見所だと思っています。