「神々しいだけじゃない、リアルで生々しい人間の物語」悼む人 Chisaさんの映画レビュー(感想・評価)
神々しいだけじゃない、リアルで生々しい人間の物語
ううう、こんなに感想を書くことに対して緊張する映画は稀だ。
見終わってからしばらく時間が経ったけれど、どんな言葉で書けば良いか、どこから書き始めればいいかわからないままでいた。
映画館を出たとき、昨日途中まで見た別の映画を見る気にも、Twitterで「悼む人なう」とか気安く呟く気にも、あるいは、「景色がすごい綺麗な映画だったー」「井浦様のドSっぷりと濡れ場やばい」とか適当なテンションで感想を書く気にもならなかった。
崇高というか、畏れ多いというか。
レビューするなら、しっかりこの作品のことだけを考えて責任を持って言葉を選んで書かなければいけない、というよくわからない義務感に飲み込まれてしまった。
まず、この映画を観るに至ったのは、何よりも井浦様が出演していたから。
モデル出身だけれど物静かでマニアック、日本美術と縄文文化と京都を愛して止まない。
過去に主演作の映画で三島由紀夫の役を演じた際に、その役のためだけに芸名をARATAから本名に戻したというその真摯さは、バラエティーに出演したときも一切ブレない。
「空気人形」「ピンポン」「同窓生」のような凄まじいまでの草食男子から、「実録・あさま山荘事件」のようなバイオレントな共産主義者まで、あらゆる人物を違和感なく演じてきた。
もうそろそろ人間国宝に制定したらいいんじゃないかと思うんだけれど。
とにかくそんな彼が、甲水朔也という「亡霊」をどんふうに演じるのか、すごく楽しみだった。
実際に観てみたら、ただ一言、狂気!
冒頭の「これから殺しまーす」の台詞と目付き、模倣犯が現れそうなほど鬼気迫っていたしサイキックだった。
パンフレットに載っていたインタビューに、役に没入するあまり、多くの作品で共演して親交のある高良健吾とは互いに一度も目を合わせることなく撮影に臨んだと話していた。
どこまで真っ直ぐで一生懸命なんだろう、いやもしかしたら俳優なら誰もがそうかもしれないけれど、俳優以外の彼の顔も思い出すとそのあまりの真摯さにひれ伏したくなる。
井浦様以外で最も印象に残ったのは、静人の「ブレなさ」だ。
いろんなタイミングで「悼む」ことを辞めようと思うことはあったはずなのに、何があっても自分を貫いた。
倖世と別れるとき、旅を辞めて一緒にいられたらとほんの少しでも願っただろうか。
名残惜しそうな表情をしながら、互いに依存せず、済し崩し的に楽な方へ流れず、別々の道を歩む決断をした二人の強さ。
洞窟でのシーンは、賛否両論かも知れないけれど私はすごくいいなと思った。
常に冷静で感情を表に出さない仙人のような静人の中に、辛うじてまだ消えずに残っていた生々しい人間味があそこでついに現れて、静人もやっぱり人間なのだとハッとした。
神々しいだけじゃない、泥臭くリアルに生きている静人と倖世もちゃんと撮ることでこの映画の現実味がぐっと増したと思う。
少し残念だったのが、橋から落ちそうになった幸世を静人が抱き止めるところ。
「生きていたら、あの人の中に残れない」という台詞は幸世の心の声のはずなのに、それが聞こえていたかのように「そんなことをしなくても・・・」と静人が言うのは、やや違和感だった。
せっかくだからもう少し言い合いというか、普段は押し殺している二人の感情のぶつけ合いがあってもよかったなぁ〜と個人的には感じた。
さてここからは原作についてと、自省。
原作を読み終えたときは、感動というよりも「こんなことができる人はすごいな」という驚きの方が大きかった。
同時に、なんだかどうしてもまっすぐに感動することができなくて、心のどこかで「偽善者っぽいな」とちらりと思ってしまった。
どうしてこう、穿った見方しかできないんだろう。
この作品に限らず、泣けると評判の映画を観ても素直に感動できないことが多い。
「感動するとかダサい」とか深層心理的に思っているんだろうか。
もっと若いときは、その捻くれ加減が逆に良く思えて今まで放置してきたけれど、もうそろそろ一般的に良いとされるものを普通に良いと思いたい、という気分になってきた。
そういうわけで、原作を読み終えて何ヶ月も経って、映画を観て、帰宅して、布団に入るまでずっと考えていた。
なぜ「偽善的だ」という感想に逃げるのか。
最終的に浮かんだ一つの答えが、
「もし自分が同じ行為をしたら、それは偽善的でしかないから」
だった。
私には、まず間違いなく静人のような旅をすることはできない。
最初こそ新鮮味があって、人々との出会いが楽しくて、「なんだかよくわからないけれどいいことをしている」という気持ちになって心地よいかもしれないけれど、結局すぐに飽きて、他に興味深いものを見つけて、あるいは他人からの言葉や評価に心折れて、辞めてしまう。
まず、いいことをしよう、というモチベーションの発端がそもそも間違っている。
評価されたい、見て欲しい、がんばっているでしょ私、的なそのエゴが、どんな素晴らしい行為であってもただの偽善的行為に変えてしまうし、私は今までの経験上、そのエゴを完全に封印することはできなかった。
でも、世の中には自分と全く違う考え方や思考回路をしている人もいて、というかそういう人が殆どで、たとえ全く同じ行動を取ったとしても、その感じ方はまるで違う。
「偽善的だ」とは感じない、あるいはそう感じていたとしても「それでもいい」と飲み込んで行為を続けられる強くてまっすぐな人もいるのだと、少し前まで私は知らなかった。
だから、こういう映画を観ると決まって「偽善的だ」と吐き捨てて、そこで終わらせてきた。
この映画について、そこで終わらせずに「なぜだ」と考えるに至ったのは、井浦様が出ていたということに負けないくらい高良健吾の演技が良かったことと、監督や出演者他大勢の製作陣の原作への尊敬というか、丁寧な関わり方がにじみ出ていたからだと思う。
(ドラマ「Nのために」が好きだった理由についても同じようなことを思った)
「愛」「家族」「命」「死」という重いテーマを扱いながら、音楽も、景色も、表情も、台詞も、カメラワークも、わざとらしさや押し付けがましさがなくて、ただ純粋に、謙虚に、その尊さを、それについて考えることの大切さを投げかけてくるような感じ。
勝手な理解ではあるけれど、私なりにその問いかけを受け止めて、適当な感想文は書くまいと決意した結果、こーーーんなに長くなった次第。2109文字だってここまで。論文か笑
いやーーーー
とは言いつつ言わせてもらいますけど、スーツ姿で山中に佇む井浦様、サイコっぽい表情でアヒャヒャと笑いながら倖世をけしかける井浦様、どれもほんと神がかってた!!!!
大満足。賛否両論あろうがなかろうがあたしゃこの映画が大好きだよ!