「ただ生きている。だとしても人生は尊い」ショート・ターム つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
ただ生きている。だとしても人生は尊い
自己肯定感に支えられているヤツはカッコいい。冒頭、メイソンがショートタームの新入り・ネイトに披露するエピソードはめちゃくちゃカッコ悪い話だ。出来ればみんなの頭の中から永遠に消し去ってしまいたいような、恥ずかしさMAXレベルの武勇伝(?)だけども、メイソン本人がネイトに語って聞かせている。
オレは散々な目にあったけども、結果がハッピーだったなら安いもんさ。
語るメイソンが伝えようとしているのは、「しんどいことも沢山あるよ」「それで子どもたちが良い方向に進んでくれればしんどさなんて吹っ飛ぶよね」という心構えの話だ。
そしてその為に身を切れるメイソンはカッコいいし、自分の存在に肯定感を持っている。
そんな話も佳境に差し掛かったその時、入所者の少年・サミーが出口を目指して疾走する。興奮状態だ。鳴り響くサイレン、追いかけるメイソンとグレイス。
取り押さえられ、両脇を挟まれ、落ち着くまでの様子を目の当たりに呆然とするネイト。
さっきの話の続きだけど、とネイトは事が収まった後に切り出す。実際はどうだったのか。
メイソンの話に登場する少年は遺体で発見され、「現実は甘くない」とグレイスは呟く。
大学を休学し「良い経験」を積むためにショートタームで働くことにしたネイトにとっては、衝撃的な幕開けだったことだろう。勿論、観ているこちらもだ。
以降、ストーリーはブリー・ラーソン演じるグレイスと、彼女が自分を重ねる入所者のジェイデンを中心に進んでいくが、このキャラクターの立ち位置がよく出来ている。
興奮状態で脱走を試みたサミー、母親との問題を抱えるマーカス、性的虐待が疑われるジェイデン、彼女と似た境遇から施設で働くようになったグレイス、施設出身で里親に恵まれたメイソン、福祉意識の高い大学生のネイト。
「愛し、愛される」ということについて、彼ら自身がそれぞれの方向性を持って描かれることで、生きるということの難しさと素晴らしさ、そしてその拠り所となる「愛」についてを伝えてくれる。
グレイスは「愛し、愛される」ということにとても不器用で、メイソンと付き合ってはいるものの「愛せない」かもしれない自分に怯えている。
スタートは「愛されない」子どもだったかもしれないメイソンが、自分を愛してくれる存在に出会ったことで、カッコ悪い武勇伝を披露するに至るのとは正反対だ。
ジェイデンの創作童話「タコのニーナ」は、「愛してもらおうと自分を差し出してしまう」痛々しいまでの飢えを感じさせる。
妹同然の人形を取り上げられ完全に殻に閉じ籠ってしまったサミーに、偶然見つけた彼の人形をそっと返しに行くネイトは、彼自身がそうすべきだと感じた「小さな愛情の行為」を踏み出す。
どんな人生が幸せか、なんて一律に決められるはずがない。でも自分を愛し、幸せを感じるためには、「愛」の存在を知らなければならない。
他人から愛されて、愛を知ることもあるだろう。自分が何かを愛することで、愛を知ることもあるだろう。
誰かを愛し、誰かから愛され、愛を知って初めて自分自身を「愛している」と実感できる。自分自身を「捨てたもんじゃない」と思うことが出来る。
映画のラスト、冒頭と同じようにメイソンが繰り広げるトークは、マーカスの話だ。
本当の話だぜ、グレイスが証人だ。
マーカスが施設を出て働いていること、施設で出会った年上の女の子と付き合っていること。彼がとても幸せそうだったこと。
「愛し、愛される」ことに成功したマーカスの話を語るメイソンも、聞いているグレイスもネイトもみんな幸せそうな顔で、そんな中またサミーが疾走する。
冒頭のシーンとほとんど同じで、追うグレイスの表情は険しく真剣そのものだが、サミーの顔は晴れやかだ。星条旗のマントを羽織り、光に向かって走るサミーは否定の気持ちから走り出した訳じゃない。
「愛し、愛される」ことに資格なんていらない。理由なんていらない。不完全で良い。自分自身を精一杯肯定して生きていく。
一見全く同じなのに、全く違う印象のラストシーンが、今生きている自分に勇気をくれる。