ハーモニーのレビュー・感想・評価
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無理難題への挑戦…
夭折の作家・伊藤計劃氏の作品をアニメ化する「Project Itoh」シリーズの1作。
私は原作小説のファンである。衝撃的な展開と、冒頭から仕込まれていた緻密な伏線に心を奪われ、それを機にアニメ版も鑑賞する事にした。
「大災禍」と呼ばれる混乱を経て、過剰なまでに優しく健康的な監視社会が築かれた世界。WHOの査察官・霧慧トァンは、その社会の息苦しさから逃れるため、自殺未遂を起こした過去を持つ。世界中で同時多発的に自殺が起きるという事件の調査に乗り出した彼女は、その中で彼女を自死へと誘った少女・御冷ミァハの影を見る…。
作画クオリティ、ふんだんに使われたCG、独創的なデザインなど、評価すべき点は様々ある。だがしかし…手放しで絶賛出来るか、と言われればそうではない。
……そもそもの話だが、原作小説を映像化するのは極めて無理がある。SF小説としての凄まじい情報量、重く難解なシナリオやメッセージ性、そして何よりも「小説だからこそ」成立する伏線とトリック。アニメに限らず、映像化する事そのものに全く向いていない。無理難題と言っても良いだろう。そんな作品をそれでもアニメ化しようとした制作陣の勇気には敬意を表する。
あの原作を2時間弱に纏める事が出来た時点でかなり頑張っているとは思うのだが、私が個人的に気になったのはシナリオの改変や映像化に当たっての展開である。
冒頭の時点で、小説に仕込まれていた伏線の答えが明示される。完全初見ならば何のことやら分からないだろうが、原作読者は一瞬でその意味に気付いてしまうだろう。読者としては、映画開始早々に興醒めだった。
そしてラストの改変。全てに決着を付ける際のセリフやトァンの心情に、GL、百合的な要素がかなり盛られている。……正直「ハーモニー」という作品にそんなものは求めていない。原作の冷たくも物悲しい雰囲気を期待していただけに残念だ。事を終わらせた後の下りもカットされており、「見たいものを見られなかった」感は否めない。
原作ファンとしては少々ストーリーにおいて残念な点が目立つ印象だが、それ以外は先述したように中々良い出来だ。
声優陣は豪華で実力派揃い。特にミァハ役の上田麗奈女史の演技は凄まじい。ミァハの設定にピッタリな、儚げながらもどこか無機質で恐ろしい声。この演技を聞けた事はこの映画の最大の評価点と言っていい。この芝居で当時弱冠20歳と言うのだから恐れ入る。
万人にオススメできる内容ではない上に専門用語も多く、初見で観るにはかなり難しい映画である。物語を知りたいなら、原作を読む事を強く勧める。
その上で声優陣の演技や、戦闘シーンといった映像ならではの美点を味わう、というのが、この映画の楽しみ方だろう。
これまた原作の世界観か?アニメの世界観か?
自分にとっては解釈違いが甚だしく、正直つらい作品だった。 伊藤計劃...
自分にとっては解釈違いが甚だしく、正直つらい作品だった。
伊藤計劃は既に亡くなっているため、本作の描写が、彼の脳内にあったイメージと一致していたのかは永遠にわからない。だが少なくとも私にとっては、原作を読んだときの印象とかけ離れており、最後まで観るのが厳しかった。
特に気になったのは二点。
一点目はミァハとトァンのデザインである。原作では登場人物の外見描写は一切といってよいほど書かれていないため、ミァハの見た目は読者の想像に委ねられている。しかし、それでも〈外国人だとわからないほど日本人に馴染んだ〉と明記されている以上、ミァハを銀髪の“いかにも外国人”風の容貌にするのは不自然ではないか。数少ない明示的な外見情報が無視されている点が気になった。
同様に、トァンの髪色が赤いことも引っかかった。公共との調和が最優先される社会において、彼女があのように派手な外見を選ぶとは考えにくい。
次に、ミァハとトァンの同性愛をほのめかす描写である。そもそも本作の漫画化企画でも百合作品としての方向性が検討されたと聞くが、原作を読了し、この映画を観るまで、二人がレズビアンだとはまったく思わなかった。むしろ、安易な百合的解釈は原作のテーマを陳腐化させているように思えてならない。前作『虐殺器官』に見られる冷徹で現実的な筆致を踏まえても、伊藤計劃が『ハーモニー』を意図的に百合小説へと仕上げたとは、私には思えない。
繰り返しになるが、作者は既に亡くなっており、真相は闇の中だ。だがそれゆえ、原作を読み込んだ読者の感性もまた、軽んじるべきではない。本作は、原作を先に読んだ私にとって、あまりにもイメージから乖離していた。
結局のところ、私は本作を、原作準拠の完成度が高い映画版『虐殺器官』と比較してしまう。『虐殺器官』の地に足の着いたSFに比べると、本作は足が地についておらず、完成度でも見劣りする。ゆえに私の評価は下がらざるを得ないのだ。
原作を読んでから改めての視聴
あほは生きる力にしみじみ
原作未読。
虐殺器官に続き鑑賞。
好みで言えばこちらの方が良かった。
映像的にはザッツ4℃を感じる。
虐殺の、真面目につきつめるほどナルシスト感がマシマシな雰囲気にちょっとヤバさを感じていたが、こちらを見てますますナイーブさを噛みしめる。
ただし原作を読んで同じ印象を受けるかどうかは虐殺同様謎だろう。
究極に平和でヘルシーな世界とは欲望の葛藤がなく、ゆえに意識も個も存在しない世界だというなら、イメージ出来た像は世界総赤ん坊化だった。
確かにアリだが生理的に受け付けないものがあるはずで、それが物語の葛藤部分であり、力点、テンション、盛り上がりだと感じているが、葛藤するだけのアンチ勢力なりが汲み取り切れずスルリ、と結末へ突入した次第。そういう意味で論点がボンヤリしたようで自身の理解力なのか、物語のツクリへなのか、どちらもなのか? やや物足りなさを感じた。
これまた原作はどうなのだろう。
なぜ百合要素が必要なのか、最後で納得する。
ディストピアはかしこすぎるににあう。
テキトーにあほだと、ディストピアにもならんだろう、とつくづく思えば、あほは生きる力かもしれないとしみじみする。
タイトルなし(ネタバレ)
ストーリーは国家による生命の管理を『悪し』と考えている。(あれ?)しかし、それは生きる為の管理。そして、その影響で自ら死を選ぶ権利すら奪われているとしている。(あれれ?)つまり、曲解すれば、死を他者に決めて貰いたい。って事になるが。それで良いのだろうか?
彼の作品で良いのは『映画のレビュー集』かなぁ。
このアニメはCG丸出しで、良い所はあるのかなぁ?
まぁ、『おもてなしのお国』なので、全部『裏』と言う事。つまり、裏を返せば、スカスカの出鱈目社会と日本を予測している。そんなふうに思う。そんな解釈をしなけりゃいけないのかなぁ?
しかし、
アニメは制作会社の思惑がいっぱい詰まった映画になっている。趣旨はアニメと原作は同じなのかもしれないが、原作には死を前にした思いが、文章に込められていたのかもしれない。しかし、残念ながら、感動までは至らなかった。そして、まだ、生きている僕には、その当時の気持ちは今でも維持されている。
たとえ、世界がどうにかなっちまっても、自分は生きていたいと思っている。死ぬまで思い続けるだろう。
原作の世界観が全く出せていない
原作はすごく良かったです。
ただ映画は…
映画だけしか見てない人でも途中からラストが
【はい、でしょうね】となる結末は分かると思うんですが、途中から分かっているにも関わらず、原作で感じたヒリヒリと刺さるような感覚も全く無く、ただただ延々と単調に無駄な描写も含めて平坦なストーリーが続いていただけでした。
ハッキリ言ってつまらない。
原作を時間内に表現するのはもちろん難しいとは思いますが、原作リスペクトが全く感じませんでした。
映画制作サイドの
【俺の表現、感性すごいだろ】
みたいな圧が描写の節々に出てしまっている感じがして、苦痛でした。
夜中に見たらたぶん途中で寝てしまうぐらいずっと平坦で盛り上がりもほぼ無い一本道作品。
原作が素晴らしいだけにかなり残念な作品でした。
入り込んでしまう映画でした
彼女が最後に選んだものは
「管理社会」というのは,SFというジャンルにおいて定番とも言えるテーマだ.
人々はその一挙手一投足を何者かの目の下に晒され,行動は,その行動を司る「意識」は,自ずと抑圧される.
『ハーモニー』が描くのは,「健康であること」が究極の善とされ,それを維持するために隅々まで管理の行き届いた世界である.
その「社会」に反発し,自死を試みた3人の少女がいた.舞台はそれから13年後.
3人の少女,もとい「同志」のうち,ひとりは自死を遂げ,ひとりは「社会」に順応し,そして主人公である霧慧トァンは,自らの時を止めたかのように,小さな反発と逃避を繰り返す日々を送っていた.
あるとき,ちょっとした切欠から,トァンはかつての同志,零下堂キアンと再会する.
しかし,再会は平和裏に終わらず,二人が食事をともにした日,キアンはトァンの目の前で自らの命を断ってしまう.それは,同時に数千人が自死を遂げた,「健康」を揺るがす事件の一部であった.
トァンは「管理社会」の主幹のひとつ,WHOの「螺旋監察官」として,この事件の捜査に当たっていた.主犯者からの「隣人を殺せ」というメッセージが全世界に配信されたことにより,世界は混沌を深める中,トァンはかつて姿を消した自身の父,霧慧ヌァザと,亡くなったはずの「同志」,御冷ミァハが事件に深く関与している可能性に行き着く.
父とミァハは,ヒトの「意識」を制御するプログラム,「ハーモニー」を巡って対立関係にあった.
「管理社会」技術の生みの親である冴紀教授によれば,「意識」とは,様々な欲求が利己的に振舞う中,脳の報酬系と強く結びついた行動を選び取る仕組みなのだという.それが「わたし」を「わたし」たらしめているのだという.
父のグループが開発し,そして半ば凍結していた,意識を制御することの副作用としてヒトの「意識」を失わせるプログラム,「ハーモニー」を,ミァハは起動させるべく動いているのだった.
トァンは困惑する.ミァハはかつて,「管理」の下で自分を失うことを憎悪し,自死を図ったのではないか.そんな彼女が,「意識」を消失した社会を望むのだろうか,と.
トァンはミァハに接触すべく,「管理」の届かない地域へと足を延ばす.
ミァハはトァンの接触を予期していたかのように,トァンに山奥のある施設に単身で来るよう指示を出していた.
トァンは遂に,ミァハと接触する.
ミァハはかつて共に自死を願ったそのままの姿で,自身の壮絶な過去を告げ,そして,全人類が「意識」を失うことを望んでいことを,彼女は否定しなかった.
トァンは選んだ.ただ,かつて彼女が愛したミァハが「わたし」を失うことを.
「わたし」を失うことなく,その生涯を閉じることを.
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『虐殺器官』の劇場版をみた次に,この映画を見た.
本当に,これだけの作家が早くに亡くなったことは,個人的な感情として耐えがたいものがある.
『1984年』から30年以上の時を経た今,私には「管理社会」はフィクションのものだけと言い切る自信がない.事細かな行動から身体の成長まで,集権的な「何か」に掌握された社会で,私たちはどうして「わたし」を保つことができるというのか.「わたし」の意思決定には,常に監視の目が介入してくる.監視の存在を意識せずに,「意識」を保つことなど不可能になる.
……あれ? いまの社会って,本当に「わたし」を保つ自由を保証してくれてなどいるのだろうか.
集権的な「何か」でないにしても,私たちの「意識」は少なからず,それどころか,かなりの部分が他者の目の支配を受けているのではないか?
ごくごく近い某国では,「信用スコア」なる,管理指標が現実のものとなりつつあるのではないか?
著者は明確に,「意識」とは何かという問いを読者(視聴者)に投げかけている.
「わたし」が「わたし」であることを善とするのは,言うまでもなく,自由主義のイデオロギーを持つ者の価値観である.歴史を遡れば,家族主義が善とされた社会の残滓はごく身近に感じられるし,国家主義が善とされた社会も確かに存在していて,それは相対的なものに過ぎない.
それでも私が自由を愛するのは,自由であるからこそ自由を疑う作品を楽しむことができ,そして,自由を疑うものすら愛することができることである.
自由主義社会は,それを疑う者すら受け入れる懐の深さを備えているというただ一点において,それが仮に何らかの意味で非効率であったとしても,尊重する価値があるものだと私は信じている.
マイナス1点しているのは,原作小説をちらっと見た限り,削られているやりとりが相当にあること,そして,肝心の彼女の最後の行動が,映画とは違う動機に根差している可能性があることである.
原作主義者ではないし,映画は映画で違和感なく見ることができたのでおおむね満足はしているものの,原作から入った場合には違う印象を抱いた可能性がある.特に,結末が少なからず曲がっている可能性を感じてしまったので,1点マイナスとした.
テーマが好きなら気にいること間違いなし
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