インヒアレント・ヴァイスのレビュー・感想・評価
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全ては波打ち際で見た一瞬の夢のように
過去にも幾つかのトマス・ピンチョン作品を映画化しようと試行錯誤してきたポール・トーマス・アンダーソン監督。そのいずれも断念したところ、急遽売りに出されたのが本作の映画化権だったという。PTAがこれに飛びついたのは当然としても、映像不可能と言われるピンチョン作品をよくぞこれほどの内容へ築き上げたものだと感心させられる。
魅力的なキャラクター達が不気味にうごめき、幻想的な靄の向こうには「黄金の牙」がそびえ立つ。ジョシュ・ブローリンの理不尽な暴力に耐えながら、美貌の彼女の肢体に酔いしれながら、私達にできることといえば、ここで這いつくばって犯人探しをするでもなく、ただただ謎を深めていく筋書きに身を委ねるのみ。全ては波打ち際で見た束の間の夢のように、あるいは指の隙間からこぼれる砂のように儚い。観る者を選ぶ映画ではあるが、観るたびに陶酔が増していく。これは後からジワジワと浸食が進んで行く危険な映画だ。
長い、つまらない、わからない 三冠王の最低作
だめ、合わない。
もっとパナケイコウ!
ついに映画化されたピンチョン
すっかり遅まきながらようやく放送で観ました。原作はピンチョンの「LAヴァイス」。「ピンチョンにしては」軽いハードボイルドもの笑。60年代のマリファナ漬けでグダグダなヒッピー風私立探偵が事件を解決する話です。
ピンチョン!! いやあ映画化されるとは思わなかったなあ。しかもPTA(P.T. アンダーソン)で。大好きな作家です、って言いたいところだけど3冊くらいしか読んでないし積読が棚に3本くらいあるし....だって読むのに凄く時間がかかるんだもの。「重力の虹」には昔から映画化の話はあったみたいだけど頓挫してるみたい。
素晴らしい大傑作です。PTAの濃密さとピンチョンの濃密さがあいまってねっとりしています。しかも長尺。しかもたくさん登場人物の関係が込み入ってる。情報量の多さがハンパない。消化不良を起こす人が出てもおかしくないですね。じっくり人間関係を整理しながら観ないとストーリーを見失いそうです。
原作と監督を考えたらもっと幻想的な話かと思いきや、探偵小説としては意外とちゃんとしたストーリーで腑に落ちました。終りもさわやか、というかよかったよかった、となります。PTAらしいちょっと皮肉なユーモアがたくさん入っていて、すごくおいしいです。原作からしてそうなので、相性がいいんでしょうね。
キャスティングも抜群。J. フェニックスもJ. ブローリンもB. デル・トロも素晴らしかった。胸焼けしそうなメンツですけど笑
私としてはPTAで一番好きな作品になりました。
最初はロバート・ダウニーJrがドックを演じる予定だったらしいですね(アイアンマンで忙しくてスケジュール調整できなかったらしい)。それをきいたらダウニーJrのをすごく観たくなりました。小説のドックは軽薄なヤツなのでJ.フェニックスよりダウニーJrのほうがあってる気がします。それと、ドックはたまにドレスアップしてハイソなところに出没するんですが、その時のスーツ姿はダウニーJrのほうがサマになってると思うんです。いつもは軽薄なヒッピーだが、いざという時にはキメる感じ。ハードボイルドには彼のほうが似合ってたかもしれません。
ナレーターの声がうざい、うざすぎる
地続きの悪夢
「悪夢(のような)」という形容詞で表現されるような不条理なできごとが現実世界にはある。無数にある。殺人、レイプ、大震災、その他諸々。
なぜそのような形容詞が用いられるかといえば、それらのできごとを「悪夢」としてフィクショナルな位相に棚上げでもしない限り、我々は「平穏な現実」というスタブルな足場を失ってしまうからだ。「悪夢のような」という形容詞を用いるとき、我々は意識的にであれ無意識的にであれその対象を現実ならざる異物として処理しようとしている。
しかし一方で「平穏な現実」なるものが実のところ数々の矛盾を孕んだ欺瞞であることにもまた我々は薄々気が付いている。
我々がいくら「悪夢のような」という形容詞によって不都合な部位を切除し、「平穏な現実」の神聖/真正さを守ろうとしたところで、そもそも守られる現実そのものが内在的な瑕疵を抱えている。たとえば一見して安穏なロサンゼルスの街並みにもさまざまな異民族やマイノリティの血と涙が染み込んでいるように。
この映画には実際に起きたできごとと幻覚の境目がない。いや、厳密にはあるのかもしれない。しかしその境目が意図的に描かれていないことだけは確かだと思う。
どこまでが客観的事実で、どこまでが薬物中毒の症状なのか。それを明示する手がかりは何もない。「わけがわからない」という素朴きわまるレビューは何も間違ってはいない。私もそう思うし。
思うに、PTAは実際に起きたできごとと幻覚(あるいは悪夢)を地続きの現実として描き出そうとしている。
すべてを並列可能なものとして、平等に、つまり「悪夢のような」といった留保を用いることなく横一列に並べていくことで、それらはすべてが現実なのだと言ってのける。
不条理なできごとをフィクションとして切り離すことで成立する「平穏な現実」もまたフィクションに過ぎず、そこに社会あるいは人心を抉ることできるようなリアリティなどはない。
この映画は混沌だ。混沌そのものだ。合理性もなければ一貫性もない。何もかもが宙ぶらりんで気味が悪い。
それでもこの映画に心を動かされてしまうのは、不条理の連続にもかかわらず目を奪われてしまうのは、この映画が他ならぬ本物の現実を捉えようとしているからに他ならない。
現実は平穏でも神聖でも真正でもない。そこには不条理が、混沌が、内在的な瑕疵が、すなわち"Inherent Vice"がある。
実力派揃い踏みで送る悪夢のようなハイスピードムービー
元カノのシャスタから不動産王と謳われるミッキーウルフマンに迫る危機から彼を救って欲しいとの依頼を受けた私立探偵のラリードックスポーテッロ。
1970年代のロサンゼルスを舞台に様々な人物とトラブルに巻き込まれていくドックの姿を描いた作品。
髭なのかもみあげなのかわからないほど毛深い姿が印象的なホアキンフェニックスを主演に、ジョシュブローリンやベニチオデルトロなどの豪華俳優陣を社会派ヒューマンドラマの第一人者、ポールトーマスアンダーソンが監督した今作は、主人公のドックが様々な人物と出会い、事件の真相へ深く深く潜り込んでいく様をユーモラスかつシリアスに描いているのだが、ハイテンポに登場する新たな依頼人とその関係者など登場人物があまりにも多く、本筋を見失ってしまうカオスな構造を持った作品であった。
そんな中でもビッグフット警部補の存在感が強烈で作中のドックとの敵とも味方ともいえる関係性が非常に面白く、魅力的なキャラクターを名優ジョシュブローリンが演じているのが印象的だった。
謎に日本人が経営しているパンケーキ屋ではちゃめちゃな日本語と声量でもっとパンケーキをくれと注文したり、マリファナを葉ごと貪り食うなど主にモノを食べるシーンと低く凄味のある声が渋く印象的だった。
作品紹介にあるような70年代当時のポップカルチャーをフィーチャーした表現も多く、そのあたり知識があるとより楽しめるかもしれない。
とりあえずいろいろな意味でヘビーな作品なので楽しんでもらいたい笑。
ジョーカー対サノスの構図が面白いだけ
数々の賞を獲っているポール・トーマス・アンダーソン。個人的になぜだか好きになれない作品も多い。これもその一つ。会話にはウンチクもあり、笑いもあるのだけど、その緩い笑いに騙されてプロットは置いてけぼり。登場人物がどんどん増える割にはヤク中のためか話も見えなくなる。唯一の救いは語り部ともなっているリース・ウィザースプーンのみ。
インヒアレント・ヴァイスは海上保険用語で「避けられない危険」という意味らしいが、黒幕以外にもそれぞれ当てはまるところは面白い。ただ、刑事や私立探偵の物語を期待するよりは、みんなラリってるところを楽しむだけだったかなぁ。
LAPDの闇の部分や政治的・人種的なシニカルな発言も、ストーリー同様あちこちにぶっ飛んでいるし、犯人?いや「黄金の牙」探し?一体何を見つけたかったのだろう。ビッグフットのトラウマも解消されてないみたいだし、最もハッピーエンディングなのはオーウェン・ウィルソンだけだった気もする。
タイトルなし
パンケーキ下さい!
PTA祭その4
ヒッピー探偵に引き回される楽しさ
内在する良心
ノーベル文学賞を何度も辞退している謎の覆面作家トマス・ピンチョンによる「LAヴァイス」が原作。何せ名誉とか栄誉とか目立つことには一切興味のない作家さんだそうだが、今回初めてお墨付き与えた映画になんとピンチョン自らカメオ出演しているという噂も。
ヒッピー文化への言及が多い原作は、ピンチョン著作の中でも最もわかり易い部類に属するらしいが、映画を見る限り登場人物や団体名を覚えるだけでも一苦労、サイケカラーの?マークがいくつも浮かぶカオス感満載の内容だ。
70年生まれのPTAにとっては、ベトナム戦争が泥沼化した70年はリアルに青春期を過ごした時代ではなかったはずだが、当時のポップ・カルチャーを再現した数々の意匠はマニア心を結構くすぐるらしい。
フィリップ・マーロウ主人公の探偵小説にオマージュを捧げた映画冒頭シーンにはじまり、知らない人が見たらウルヴァリンにしかみえないドク(ホアキン・フェニックス)の髭は、ニール・ヤングなどの歌手が当時たくわえていたマトンチョップスと呼ばれる代物だという。
坂本九のSUKIYAKIはお約束としても、サイケ風からミニー・リパートンやチャック・ジャクソンのクラシック・ソウルまで、使われていた楽曲は、曲を聴いたことのない人でもラブ&ピースな70年を連想させる選曲だ。
しかし映画は同時に、そんなアメリカン・ポップカルチャー衰退の起点となったチャールズ・マンソン 事件や、土地開発のためインディオを追い出したLAの暗い過去、歯医者や精神科医、麻薬カルテルにFBIそしてLAPDまで、巨悪に加担する白人支配層をシニカルに描き出す。
昔の恋人から依頼された愛人失踪事件調査のはずが、いく先々で聴取人から別の依頼を受けて、マリファナ中毒のドクの頭の中同様、観客の皆さんをひたすら混乱の渦に巻き込んでいくストーリーは、木を見て森を見ないシネフィルの皆さんが見たら、確実に置いてけぼりを食ってしまうことだろう。
原作には登場するヴェガスのくだりを省き、精神病院における“再生プログラム”を受ける人々をラストのオチに持ってきたPTAの真意は一体何だったのだろう。
「無賃住宅」の建設構想を夢見る不動産王、FBIの雇われ潜入捜査員を辞めたがっているコーイ(オーウェン・ウィルソン)やLAPDに飼われている殺し屋の子分、そしてその殺し屋に相棒を殺されたトラウマに悩むビッグフット(ジョシュ・ブローリン)もまた、インヒアレント・ヴァイス(内在する瑕疵)から発せられる声なき声のせいで精神を病んでいたのではないか。
悪徳がはびこるLAをアメリカ固有の瑕疵ととらえた原作者同様、「ビッグ・リボウスキ」のコーエン兄弟が徹頭徹尾性悪説に則っている映画監督だとすれば、PTAは“敷石の下はビーチ”であることを信じている数少ない監督のうちの1人だと思うのだがどうだろう。
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