「【とどのつまりはトリック】」グレート・ビューティー 追憶のローマ ワンコさんの映画レビュー(感想・評価)
【とどのつまりはトリック】
映画は総合芸術だ...なんて言う人は、昔はそれなりにいて、なかなかうっとおしいなと思っていたが、今、映画のレビューを読むと、映画は娯楽だとか、伏線回収だとか単純化されたところに重きを置く人が結構いて、伏線を認(したた)めずに脚本云々する人が相当数いることに驚く。脚本家を志している人が多いのだろうか笑
この「グレート・ビューティー」は、こうしたところに楔(くさび)を打つと同時に、映画とは(実は、僕たちの生きる世界も)、愛情を示しながらも、実は、こんな程度のものじゃないかと、シニカルにも表現しているように感じる作品だ。
この作品の映像は絵画的で、会話は詩的で示唆的、時にシニカルで、物語は、ゆっくりだがリズミカルな歌や小説のように流れ、静謐な一方、実は滑稽だったりする。
映像、会話。
一瞬たりとも目が離せない感じだ。
明るい屋外での影。
暗い夜や室内の中での灯り。
明暗の割合を調節、配したような映像は、時にカラヴァッジョの絵のように感じるし、時に谷崎の陰翳礼讃を彷彿とさせる。
イタリアの都市の中で、ローマほど聖と俗が混在する都市はないだろう。
いや、世界のどこを見ても、これほど、聖と俗が混在する都市は見当たらない。
僕は、この作品はコントラストが重要な要素だと思う。
聖と俗は当然、映像の光と影、陰影、社会の裏表、人の外面と内面、現在と過去、静謐と喧騒、礼賛と皮肉。
「大いなる美を求めたが見つからなかった」と言うジェップに対して、
「草の根を食べる理由は、根が大事だから」と言うシスター。
これも、対比だ。
小説を書こうかというジェップに対し、上っ面の美を求めるより、オリジンを見つめ直すべきじゃないのかと言っているのではないのか。
「旅は有益だ 想像力を誘う あとは幻滅と疲労のみ 生から死 人間 獣 町 もの すべて見せかけ つまり小説 作り話 辞書にもそうある しかも目を瞑れば 誰でもできる」‐ 夜の果ての旅(セリーヌ)
冒頭の詩だが、映画もそうなのではないのか。
「幕切れは決まって死である だが それまで生があった あれやこれやに隠されて すべては駄弁と雑音の下に埋没する 静けさと情緒 感動と怖れ 美しさの わずかで不規則なほとしばり それから理不尽なおぞましさと哀れな人間 すべては生きるという 困惑のもとに埋葬される かくかくしかじか 彼岸が存在するが 私は彼岸には関わらない こうして この小説ははじまる とどのつまり ただのトリックだ そう ただのトリックなのだ」
最後のジェップの詩だ。
とどのつまり、僕たちの世界も、ただのトリックなのかもしれない。
この作品が撮られた時期は、ヨーロッパが、南欧を中心に経済危機に瀕していた。
イタリアは、ギリシャやスペイン、ポルトガルと同様、”放漫財政の南欧周辺国”と一括りにされ、経済危機の元凶とされていた。
その財政立て直しは過酷で、社会福祉は削られ、コロナ禍で、イタリアが他の欧州諸国より、感染者や死者が多く、苦しんだのは、こうした影響もあると考えられている。
この作品は、ローマを題材にしているが、これは僕たちの世界そのものだと思う。
この作品の終盤のシスターとの会話で示唆されるようにパオロ・ソレンティーノは、次の作品で、自分のオリジンを見つめることになる。