「尻上がりに面白い」ゴーン・ガール 踊る猫さんの映画レビュー(感想・評価)
尻上がりに面白い
ニック・ダンと妻のエイミーの結婚五周年目。その日エイミーは失踪する。部屋には荒らされた跡と血痕が残っていた。警察が捜査を始める。マスメディアでも話題になり、ニックは一躍有名人となってしまう。その挙動に警察もマスメディアも不信感を抱くようになる。ここからネタを徐々に割ることになるのだけれど、実はニックは浮気相手が居たというのだ。そしてエイミーの血痕や残した日記が決め手となり、ニックは窮地に陥る。なんとか解決すべく弁護士に依頼するが、ニックの悪名は高まるばかり。しかし実はエイミーは生きていたことが明らかになるあたりから状況は次第に怪しくなって行く。これがこの映画のプロットである。
デヴィッド・フィンチャー監督の映画はそんなに好きというわけではないのだけれど、一応(『エイリアン3』を除いて)ひと通り観て来たのだった。それで、『ファイト・クラブ』までのデヴィッド・フィンチャー作品は、それが『ゲーム』のような世間的には評価の低い作品であってもそれなりに楽しめたのだけれど、『パニック・ルーム』あたりからついて行けなくなって来た。映像が洗練されて凄味を増していることは理解出来るのだけれど(なんならキューブリックの名を引き合いに出しても良いのではないか?)、その引き換えにスジは退屈なように感じられたのだ。『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』を数少ない例外として、楽しめた作品はなかった。
そういうわけで、鑑賞時間が二時間半あるこの映画に関してもそんなに期待はしていなかったというのが初見時の考えだった。この映画を観るのは二度目になるのだけれど、もちろんオチを知っているからその分楽しさは薄れてはいたものの、それでもなお面白い。それはギリアン・フリンが脚本を担当していることにも由来しているのだろうか。良い意味で人を裏切る映画、そして裏切った果てに二転三転してプロットが読めない見事な映画足り得ていると考えさせられたのだ。ネタを何処まで割って良いのか分からないが、サスペンスとしても俗に言うイヤミスとしても上出来ではないかと思う。
ネタを割らない部分の方角から攻めれば、アメリカ……いや日本においてもそうなのだろうと思うのだけれど、マスメディアの持つ怖さが印象に残る。瞬く間に(いや、ネットでもニックの笑顔がこともあろうに拡散されてしまうので、ネットも怖いのだけれど)ニックの挙動が報道され、扇情的なニュースとして流れてしまう。そのメディアを如何にして味方につけるかを凄腕の弁護士がアドヴァイスする場面があるのだが、こうした心理戦とでも言うのか、そのあたりのプレッシャーに脆い私としては「これはなかなか耐えられないだろうな……」と思ってしまった。弁護士を演じたタイラー・ペリーの名は覚えておく必要があるようだ。
さて、ネタを割る方向から攻めると全てはエイミーの偽装だったことが明らかになるあたりからこの映画は尻上がりに面白くなって行く。先述したがデヴィッド・フィンチャーの映画を私が楽しめないのはやっぱり個人的な体質として映像美ではなく「スジ」にしか反応出来ないからなのだろうと思うのだけれど、今回の映画は『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』と同じくスジに起伏があるせいか、『ゾディアック』や『ドラゴン・タトゥーの女』のような退屈さは感じられなかった。これは勝利なのかどうなのか。そのあたりデヴィッド・フィンチャーのファンの意見を知りたいところだ。
エイミーの偽装の手の込みよう、そして途中からカネを奪われてしまい元カレ(ストーキングが原因で別れるのだが)のところに転がり込むあたり、強かなものを感じさせられる。もちろんニックの側にも浮気をしていたという弱みがあるわけだが、それを差し引いても「女性の怖さ」というものを(紋切り型、かつ差別的な言い方になるが)見事に描いていることには感服させられる。それをデヴィッド・フィンチャー特有のクールとしか言いようのない映像で撮るのである。冷ややかな世界に更に繰り返しになるが映像美が相俟って、これは傑作だと確信した次第である。
冒頭のシーン、ニックのひとり語りが観直してみると印象的に映る。本当なら気の置けないはずのパートナーの内面がどういうものなのかが分からないというのは本当に怖いことだと思う。不勉強にしてギリアン・フリンの原作は読んでいないのだけれど、同じサスペンスでももう少し削れるだろうと思った『ドラゴン・タトゥーの女』のような冗長さがない……同じことを手を変え品を変え言っているが、エイミーを演じるロザムンド・パイクの凄味もまた印象的だ。悪女として、あるいはサイコパスとして強烈に印象に残る演技を見せている。いや、凄い俳優が揃ったものだと感服させられた。