「私の中に在る少女、マーニー」思い出のマーニー ユキト@アマミヤさんの映画レビュー(感想・評価)
私の中に在る少女、マーニー
ジブリ作品はどれも自然の描写が美しい。
まるで映画館で、森林浴のマイナスイオンを全身に浴びているような清々しさだ。
本作では、その自然描写に加え、古びた洋館など、舞台背景の描き方にも注目だ。特別に招いた美術監督、種田陽平氏が監修した、美術装置、建築物、その細部にまでこだわったオシャレなデザイン、雰囲気をスクリーンで心ゆくまで味わいたい。
主人公の少女、杏奈は、自分が養女である事に気づいた。その頃から心を閉ざすようになる。家族は彼女に優しい。だが、杏奈は家族にも笑顔ひとつ見せる事はない。
医者の勧めもあり、家族は杏奈を、田舎の親戚の家で療養させる事にした。都会暮らしから、一転、緑豊かな海辺の村で暮らす事になった杏奈。親戚のおじさんは木工をやっている。手作りで家具などを作っている。おばさんは庭の畑で、色鮮やかなトマトなどの野菜づくりに励んでいる。
ある日、杏奈は近くの湿原にひっそりと建つ、古い洋館をみつける。
そこに住んでいたのは金髪の美しい少女だった。
彼女の名前はマーニー。
誰にも心を開く事のなかった杏奈だが、やがてマーニーと会う事が楽しみになってくる。
古びた洋館に住む、ちょっと不思議な少女マーニーとは、一体何者なのか?
やがて杏奈は、マーニーと自分との、意外な関係を知る事になるのだった。
私事で恐縮だが、僕の友人が過疎の集落で小さな家を手作りしている。僕もお手伝いで、何回もその作業を手伝っている。そのためか、本作を観ている最中でも、親戚のおじさんの家、その鎧ばりの外壁や、部屋の中の木質感に、とても親しみを持ってしまった。
もちろん、マーニーが住む、大正から昭和初期を思わせるモダニズム建築の洋館。これは是非本当に、一度でいいから実物を観てみたい、とさえ思った。
本作「思い出のマーニー」は、おもに杏奈の微妙な心の揺れ動き、その心象風景を描こうと挑んだ作品である。
予想に反し、僕が意外に感じたのは
「絵に、ちゃんと動きがある」ということだった。
何を当たり前の事を、と思われるかもしれない。
人間の心理を描写する事は、どの作家も苦労する。
難しい事を難しく、複雑に表現する事は、実は作家が楽をしている事の証明である。
ムツカシイ心理描写を「こどもでもわかる」優しいアニメーションにするのは、実に「しんどいこと」なのである。
たとえば、夏目漱石の「坊ちゃん」
これはアクションシーンがかなりある。映画になりやすいだろう、と誰でも思う。
ところが同じ漱石でも「それから」と言う作品には、動きがまるでない。それを映画作品として昇華させたのは、森田芳光監督という際立った才能を持つ映画人であった。
森田監督は「それから」と言う作品の中にある、主人公「代助」の心象風景を、抽象的な表現や、前衛芸術を思わせる寓意を用いて表現した。そこにあえて分かりやすさを求めなかった。
本作「思い出のマーニー」での米林宏昌監督は、森田監督のようなアプローチを選んでいない。
米林監督の選んだ手法は、原作の中の「動き」のシーンを丁寧に拾いだし、観客に飽きさせない工夫をしたことである。
たとえばマーニーが住む洋館での、舞踏会のシーンの華やかさ。マーニーをしつける「婆や」のコミカルな動き。
夜の神秘的な湿原、そこ浮かぶ杏奈とマーニーを載せたボート。
どれもが「動いている」ことにこだわっている。
安易な表現主義、監督の自己満足はそこにはない。あくまでも観客を楽しませよう、そして、杏奈の心の風景のなかへ観客を連れてゆこう。
そんな作り手の思いが伝わってくる。それはこの作品が、単なる児童文学の映画化だけで満足していない事の証明なのだ。
その方向性を選んだ、そして作品として完成させた米林監督は、日本を代表する、アニメーション映画作家の仲間入りを果たしたのだ、と僕は思う。