郊遊 ピクニック : 映画評論・批評
2014年8月25日更新
2014年9月6日よりシアター・イメージフォーラムほかにてロードショー
観客に媚びず、忍耐を強いることで真実を伝える監督の最終作
せっかく見るのだから、はらはらどきどきさせて欲しい。爆笑の渦に巻き込まれたい。気持ちよく泣かせて欲しい。観客が映画に求めるそんな要素に目もくれず、自分の世界を死守してみせる作り手――近頃ではめっきり減った気がする。絶滅危惧種ともいうべきそうした問題児のひとりが、台湾映画界で孤高の足跡を刻んできた監督ツァイ・ミンリャンだ。
昨年、ベネチア国際映画祭で審査員大賞に輝きながらこれが最後の長編といきなりの引退宣言もきめてしまったツァイ(短編や舞台作品はその後も発表されている)。彼のこの新たな“怪作”もみごとに観客への媚びを退けて、独自の時空を実らせている。
富の偏在化が進む台北。そこでシングルファザーとまだ幼いふたりの子は、空家を転々としながら日々をやりすごす。父は超高層マンション販売の立て看板を掲げて街路に立ち、僅かな金を稼ぐ。子供たちはスーパーマーケットでもらい食いする。野良犬にエサをやる女、子供たちを父から引き剥がす女。コンクリートの部屋で母のように兄妹の勉強をみてやる女がいる。女とふたりの子供が父に誕生日の歌を贈る――。
こう書き出してみると案外、感傷的な家族の物語ともなり得る筋が、説明も脈絡もなく静かな距離を保って並べられる。索漠とした世界が浮上する。3人の異なる女優がひとりの女らしい誰かを演じている。夢なのか。思い出なのか。亡霊なのか。観客の胸に頭に満ちてくる“?”にも“?!”にもお構いなしに映画はわが道を往く。雨。水。長回し。いつもながらのモチーフを伴って、忍耐の限界に挑むペースを突きつけてくるツァイの映画は、その耐え難さを味わうことでこそ、前世紀末以来みつめてきた今を生きる都市と人のひりひりとした孤独や苛立ちや虚しさを観客に真に伝えられるのだと信じ切っているようだ。
苦しい映画が観客につきつける真実の噛みごたえ。体験してみなくては何も始まらない。
(川口敦子)