「「あの目を知っている」」花咲くころ Momokoさんの映画レビュー(感想・評価)
「あの目を知っている」
土曜日の朝九時。ベローチェでコーヒーを飲んでいた。退屈を紛らわせるために「映画」という万人共通の「余暇検索ワード」で調べて1992年のジョージア(グルジア)映画で十四歳の少女二人の友情物語「花咲くころ」を見に行くことにした。「内戦」「配給」「結婚の強要」というワードだけでもうハッピーエンドではない解説だったけれども、チェコ映画の「ひなぎく」を思い出して、名前も知らない国の女の子二人が出てくる映画が面白かったジンクスを信じた。
この映画を一言で言い表すと
「この子たちのこの目の意味を知っている」
というところに尽きる。国と時間を超えて、彼女たちの瞳の中に「私が十四歳だった頃にしていた目」を見てしまったからだ。「ものはハッキリ言わないと気が済まない」勝気なナティアと、「できればいろんなことをやりすごしたい」いじめられっ子のエカという少女二人が登場する。
彼女たちの置かれている環境は冒頭で触れたとおり「超最悪」の状況で、ナティアとエカは環境の変化でお互いの関係が逆転する。
それが、誘拐の果ての恐喝結婚式のシーン。「あの男愛してるの?」とエカが聞いて「たぶん」とナティアが答える。「その目はうれしくないの?」と今度はナティアがきいて「結婚おめでとう」とエカがいう。誰も幸せそうじゃない。狂ってるのが当たり前だからもうなんとも思わない。楽しいことがあればそれでいい。そんな気持ちでエカが一口もものを食べず、お酒を一杯くいっと飲んで、踊りを披露するところは胸を打つ。それは「シャラホ」という男性商人の踊りで、彼女は一言も口をきかず、身体で「反抗」を表現する。
あの睨むことしかできない、あの目を知っていた。強い力に押さえつけられて、自由が一つもなく、感情表現が叫ぶことしかできない。その行き場を失った感情の破片が、とてもよく晴れた町や森の小道の暖かそうな画から、くっきりと影のように鋭利な影を浮き彫りにする。ひとつもまるくて優しいものがない、強くて、尖ってギザギザとした中に、確かな「美しさ」が光を放っていた。
忘れていた気持ちが全部ぶちまけられてテーブルに乗った気持ちになって、見終わった後、しばらく動けず、泣きすぎて顔が痛かった。
十四歳で「中二病」というワードがネガティブワードとして認知されているけれども、ものを作り出す、生み出す人たちの心の奥底にはそういう「狂気」が多かれ少なかれあって、吐くように泣きわめいたり、のたうち回ったりする醜い姿こそが「何かを産み出す衝動」にまっすぐ繋がっていることも、「行き場のない思いや感情」を何とか形にしていうこうする思いが、背中から立ち上る「生きる力」として全身を駆け巡る赤い血の一雫となって生命をきらめかせている、という事実をこの映画の中に見つけてしまった。