トム・アット・ザ・ファーム : 映画評論・批評
2014年10月21日更新
2014年10月25日より新宿シネマカリテ、ヒューマントラストシネマ有楽町、アップリンクほかにてロードショー
「私とは誰か?」という問いへの答えを求め、自分の幽霊を追って
グザビエ・ドラン監督にとって今回初めて他人の戯曲を基に映画化した作品であるが、彼の世界観はその物語性のユニークさはさることながら、その描き方や映像の肌質にこそ宿るといえる。だからたとえ他人の戯曲であろうとドランの世界観が芳香を放っていれば、気になるところではない。
トムが、交通事故で死んだ元同僚で同性の恋人ギョームの葬儀に出席するため、ケベックの田舎町にやってくるところから物語は幕を開ける。そこではギョームの母親アガットと兄のフランシスが農場を営んでいた。ギョームはゲイであることを母親に隠し、サラという別のガールフレンドがいるという嘘をついていたため、フランシスは口裏を合わせるようトムに強制する。さらに、母親を傷つけたくないという理由で、フランシスは次第にトムに対し暴力性を露にし、エスカレートさせていく。逃げる機会があっても逃げることができず、トムの精神構造の歯車は次第に狂っていく……。
三島由紀夫の「サド侯爵婦人」やフランソワ・オゾンによって映画化された「8人の女たち」と同様、中心不在のまま物語は進んでいく。
アンドレ・ブルトンの私小説「ナジャ」のなかに「Qui suis-je? (私とは誰か?)」という台詞が出てくる。これは同時に「私は誰を追っているのか?」という意味。それは恋人との関係のなかに、既に「私は誰か?」という自己同一性の問題が含まれていて、自分自身を問うことは他人を追うことであり、「他人の私」を追うことでもある。人とつき合う=haunterは、幽霊などがつきまとう、取り憑くという意味。つまり私がつきまとっている「他人の私」は、現実のなかでは分裂した私の幽霊ともいえる。
まさにトムは取り憑いた自分自身の幽霊を探すために、この農場にやってくる。これは恋愛の本質、愛の亡霊そのものを現出させた怪作である。
(ヴィヴィアン佐藤)