「自らの渇きにピリオドを打つために」渇き。 せんころさんの映画レビュー(感想・評価)
自らの渇きにピリオドを打つために
毎回、とんでもない映画を見せてくれる中島監督ですが、この映画もまたとんでもない出来上がりでした。
前回の『告白』以上に賛否両論あって、観る人を選ぶ映画になっています。
冒頭のポップなタイトルバックにだまされてはいけません。
まさに劇薬。
毒になるか薬になるかはあなた次第。
血まみれ加減が園子温監督の『地獄でなぜ悪い』よりも控え目ですが、園監督の作品は作り物の血まみれ感が満載でしたが、こちらの『渇き。』は、リアルな感じが強くて苦手な人は観るに堪えないかもしれません。
それにしても、この映画で描かれる狂気は何なのでしょう。
(中谷美紀さんにもひどい仕打ちです)
登場人物一人ひとりがそれぞれ狂っていて、役所さん演じるヤメデカの父親の狂気が薄まるような感覚を感じました。
この父親の狂気は、愛し方、愛され方を学ばないままに歳を食った男が、何かを取り戻そうあがくことによるのでしょう。
壊すこと、殴ることでしか愛情を表現できない未熟さの狂気ともいえるかもしれません。
そして、もう一人の主人公である娘、加奈子。
行方不明となるこの娘を探すことが映画の推進力なのですが、父親の暴走振りは子供探しを通しての自分探しというテーマをじょじょに置き去りにしていき、最後に残るのは純化された『愛と憎しみ』でしかありません。
娘の心情は、映画のなかであまり語られず、それ故に登場人物からプロモーションに至るまで「バケモノ」扱いされているのですが、「バケモノ」になるにはそれだけの由来がある訳で、原作の理屈をあえて省略した監督の意図はどこにあるのでしょうか。
現実世界では、どんな事件でも本来の心情や真実は、残された人間たちの解釈でしかありません。
犯人は嘘を語り、あるいは嘘を真実だと思いこみ、真実は裁判所の解釈でしか存在しえないのかもしれません。
ときに被害者や体制側も同じように嘘を語り、あるいは嘘を真実だと思いこもうとするのですから。
たとえ「バケモノ」であってもそれも人間のひとつの姿なのでしょう。
そして、もう一つの重大な省略。
原作での父親と娘の関係性における重要なファクターが、単なる肉体的な暴力に置き換わったのは何故でしょうか。
この操作もまた、父親の狂気の説明を拒否して、純粋にその狂気を描こうとした監督の意図なのでしょうか。
ほんとうに愛するためには、愛しすぎてはいけないのかもしれません。
親の盲目的な愛が、赤ん坊を人間へと育てていくことは間違いありません。
それでも、相手をただ愛情の対象として、愛し過ぎることは不幸を招くのかもしれません。
多分、そういった愛情は常に見返りを求めてしまいますから。
誰だって、そうでしょう。
「これだけ愛しているのに」
「こんなにつくしているのに」
ぼくたちは自らの愛情行為に、常に見返りを求めがちです。
でも、ほんとうの愛は、決して見返りを求めない。
だけど、そんな愛を実現することは難しい。
唯一、「愛しすぎないこと」がそこへと至る道のように思えてなりません。
さて
『渇き。』
愛情に渇ききったぼくたちが、その渇きにピリオドを打つために、何をどうなすべきなのか。
この映画の題名が、原作どおりの『果てしなき渇き』ではなく、そしてまた『渇き』でもない意味をそんな風に感じました。
ぼくたちは自分たちの渇きに、自ら句点を打つしかない。
そうでなければ、ぼくたちは永遠の渇きに苦しむこととなる。
まるでイーストウッドが『許されざる者』で描いた瀕死のカウボーイのように。
流したおびただしい血の分だけ、灼熱の渇きを訴えるその姿のように。