わたしはロランス : 映画評論・批評
2013年9月4日更新
2013年9月7日より新宿シネマカリテほかにてロードショー
アバンギャルドにして古典派の風格。24歳の天才監督が描く奇妙な愛の時間
映画史には時おり、不敵なまでの若さを誇示する恐るべき才能が現われるが、カナダの仏語圏出身、24歳のグザビエ・ドランは間違いなくその一人だろう。
作家を目指す国語教師ロランス(メルビル・プポー)は、ある日、突然、恋人のフレッド(スザンヌ・クレマン)に「女になりたい」と告げる。最初、フレッドは困惑しつつも、女装して通勤するロランスを徐々に受け入れ、愛し続けようとする。母親のジュリエンヌ(ナタリー・バイ)は達観の境地だ。しかし、周囲の偏見と冷淡な視線にさらされ、次第にふたりのあいだにも避けがたい葛藤と亀裂が広がり出す。
ロランスの主観ショットの多用と、絶えず揺れ動き、疾走するキャメラは、暴発寸前のふたりの痛ましいほどの感情の軋みをそのまま体現しているかのようだ。
突然、大時代なベートーベンが鳴り響き、居間のソファーの上に豪雨が降り注ぐかと思えば、空からカラフルな衣服が落ちてくる、一見意表を突くシーンも、奇をてらったものではなく、周到で綿密に計算された華麗なオペラ演出をみているような視覚的愉悦をもたらすのだ。
映画は1989年から10年にわたって別れと逢瀬を繰り返すふたりの奇妙な〈愛の時間〉を繊細かつ大胆に描き出す。この映画の大河小説のページをめくるような独特の悠久な時間感覚は、冒頭でロランスが引用するプルーストにきわめて似ている。
作家として成功したロランスがインタビューを受けていると、夢想したかのようにある光景が浮かび上がってくる。映画は、まさに〈見出された時〉ともいうべき初々しさで、その円環を閉じる。アバンギャルドにして古典派の風格。やはり、グザビエ・ドランは端倪(たんげい)すべからざる才能である。
(高崎俊夫)