かぐや姫の物語のレビュー・感想・評価
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冬の厳しさを知らない者の自然賛歌
初手から縁起でもない事を書きますが、はっきり言って高畑作品の「見納め」だと思って行きました。
なにしろご高齢でいらっしゃるもので。
よくも悪くも高畑作品です。
物語が進むにつれ、深みのない自然賛歌に泣けてきます(感動という意味ではなく)。
かぐや姫は生と死が共存する下界を愛しているという設定なのに、作品からは死と隣り合って生きていく者の厳しさが伝わらない。
瓜を盗られた畑の持ち主は何故怒らない?
山の暮らしの厳しさが描けてないから、翁が単なる拝金主義にしか見えない。
自然の中で生きるのは大変なことだ。綺麗ごとでは済まない。
だからこそ翁は都で物質的に豊かな暮らしが、かぐや姫にとっての幸せだと思ったのではないか?
都の暮らしに馴染めないかぐや姫は炭焼きの男との会話で初めて冬が過ぎれば春の芽吹きがあることを知る。
つまり彼女は山での冬の暮らしを体感していないのだ。
そんな彼女の自然賛歌に重みがないのは当然である。
まるで彼女が庭に作った借り物の山の風景のように。
分からないものならいっそ分からないことを掘り下げる手もあるんじゃないかと思うのだが、結局分かった「つもり」で留まってしまったのが非常に残念でした。
もう下界にいる時間は少ないというのに。
音楽はとても素敵でした。
特に月からのお迎えの時の音楽。気持ちよさと気持ち悪さのミックス加減が絶妙で凄い。
それにしても捨丸の勢いだけの駆け落ち宣言だって、彼の人生が厳しく短いものであることがもっと分かるエピソードがあれば説得力があっただろうになー。
あとナレーション兼ねてるからかもしれないけど嫗が上品過ぎて不自然な感じ。
ずっと山で暮らしてる人なんだから、もう少し田舎者っぽくてもよかったのでは。
俳優さんがたの演技は良かったのになー。もったいなやもったいなや。
かぐや姫の物語
親の気持ちが伝わってくる
アニメ映画の最高峰
絶対に劇場で見た方がいいです。
テレビの小さい画面でみるものではないです。
というのも、数年の歳月をかけて作られた、手で描いた線があの大きな画面で動くと、そこに生命が宿っていような躍動感があります。
映画館でアニメを見るということを強く意識して作られているのでしょう。
内容に関してですが、周囲では男性と女性で感想がわかれてます。
女性はどうしても、かぐや姫が「少女」から「女」として成長する部分に目が言っちゃうのでしょうか。
もちろん、その部分も素敵です。
都会より自然がいい!という、エコノミストな高畑監督のメッセージも好きです。
「風立ち」にも言えますが、その映画を鑑賞した自分がどのような背景を持って、どのような考えでいて、そういった物を抱えたということを前提にどうやって作品を見るのかというところで考えさせられる映画です。
それが悪いと言うことではなく、常に考えさせられることで、見る度に映画への印象が更新されていくというように考えると、永遠に見ることができる映画とも捉えられます。
「かぐや姫」はそういう類いの映画なので、その可能性についてまだ判断がつかない部分での-0.5です。
竹取物語に安いメッセージがこもってた
レビューがそれほど高くないのがわかる気がしました。
原作の方がよっぽどスケールが大きくて素敵。
「生きる喜び」「生きとし生けるものへの賛歌」といったテーマが直球過ぎて、なんだか安っぽい。別にそんなの竹取物語にわざわざ絡めなくても…と思いました。
絵は素敵だけど、セリフが陳腐。
おまけに、「野山を忘れられない姫」「あたたかく理解のある母(媼)」「憧れの幼馴染(捨丸)」といったキャラクター設定も、あまりにあるある。
姫の考え方を幼く感じてしまい、最後まで共感できなかった。
自分自分と我を通さず、与えられた環境の中でうまくやるのが大人だろうが!偉そうに罪とか罰とか言ってんじゃない!と、近くにいたら説教してしまいそう。
クライマックスの捨丸と空を飛びまわるシーンも目新しいものではなく、「お約束またか」という感じでした。あれは意味があったのでしょうか?
お迎えにくる使者たち、仏姿なのはなぜ??
絵本のような映像美が温もりや切なさをストレートに伝える秀作
映画館で鑑賞しました。
もともと他の映画を見ていた時に予告編が気になり公開されたら絶対に映画館で見ようと思っていました。
ストーリーは誰もが知っている古典文学の竹取物語。竹の中から子を授かり、美女に育ち、5人の貴族に求婚されるも無理難題を課して、そのうち2人は命を落としてしまう。その後、時の天皇にも寵愛されるも月からの迎えが来て帰ってしまう…と、誰もが知っている日本文学です。
「今は昔、竹取の翁といふものありけり。野山にまじりて、竹をとりつつ、萬のことにつかひけり。名をば…」のナレーションから、「もと光る竹」に出会い、その竹になたを入れるオープニングのシーンからファンタジー満載の映像美。かぐや姫の美しさ、手のひらサイズのお姫様の不思議な光景は、その後の映像を期待させるに十分なオープニングでした。
その後、すくすくと育つ過程で捨丸という山の少年と行動を共にし、お兄ちゃんとして慕って伸びやかに暮らしていくが、翁が竹から美しい衣や金を見つけ、翁はかぐや姫を「高貴な姫」として育てることを天命と思い、田舎をすてお金で官職を買い(わからないけど、田舎の翁が突然京に屋敷を立てたってことはそういうことなのかな?)、京に家を立て、お目付役も付けて、かぐや姫を高貴の姫として育てる。
そんなかぐやが成人を迎え、三日三晩、かぐやの成人を祝う宴がもよおされる。
ここでかぐやは、何一つ自分の好きにできず、何一つ感情を露わにできない「高貴の姫」になることに深い憤りを感じ、屋敷を抜け出し、捨丸のもとに…
このシーンの京を抜け出す疾走感と、姫の心を表す陰鬱な映像がそれまでの京の煌びやかさや、京でのしとやかな生活、宴の騒乱と一線を画して、さらに見入ってしまいました。
そのあとの捨丸がさってしまった事をしり、白い雪の中に一人倒れるかぐやのシーンもその白い雪の美しさがとても印象的でした。
その後の展開は、何にせよ、かぐやは「高貴の姫」として求愛され、かぐやはそれを頑ななまでに拒む。翁は翁の望む「高貴の姫」にするべく奮戦をしてきて、ようやく幸せをつかめるというのに、ことごとく反故にするかぐやをみて、不満と疑問をつのらせる。かぐやはかぐやで、自由に暮らしていた時代に思いを馳せ、不自由な今に不満を思いながらも、育ててくれた翁と婆の期待になんとか応えようと葛藤する。
その心の葛藤を美しい映像で表現する。そんな映画でした。
印象的だったのは、塞ぐかぐやが仕えの物と婆と花見に行くシーン。満開の花の中で回るかぐやのシーンは特に美しかったです。
ただ、直後に貧しい母とのやりとりが現実を伝えている気がして胸が痛くなるのはやはりこの映画って感じでしょうか?
ストーリー的には誰もがしったお話ですし、映像美は非常に楽しめる秀作ですが…個人的にはラストがなんとも…
捨丸と空を飛び回るシーンも、月からのお迎え(仏陀じゃねーか)のシーンもファンタジーを通り過ぎて不思議…、わかりませんでした。
かなり雑文になりましたが、まとめると
映像美が非常に素敵、しかもかぐやの心中を慮る映像展開がとても秀逸でした。
かぐやの心の葛藤が切ない、かぐやを幸せにしたい翁と翁の思う幸せを幸せと思わないかぐや、でも育ての親への感謝も捨てられないかぐやの心の葛藤がとても切ない
というおはなしでした。
絵はすごい。
2013年はスタジオジブリ宮崎駿、高畑勲そろい踏みの年で、両作のクオリティに注目していた。
「竹取物語」はよく知られた話で、これをあえて映画にしようとした高畑勲の勇気に敬意を表する。
絵のタッチが、クレヨン画のような繊細なもので、実はセリフなんてなくても成り立つのではないか、というくらい胸を打つものがあった。
ということは、セリフが映画のクオリティを若干下げている部分もある。
さらにいうと、この声は誰の声だろうと考えることが多かった。
ジブリの声優は、俳優を使うことが多くて、そのことがときに映画に対する集中力をそぐことにもなっている。
ここはやはり一考の余地がある。
うまくすればすごい映画になったかもしれないが、あとひと息であった。
かぐや姫の物語
技術的なすごさは素人の私にもよくわかりました。しかし決定的に残念なところ。それは、原作の方がはるかにスケールがでかいということでしょうか。鳥、虫、獣… それらに命の意味をこめようとしたのかもしれませんが、かぐや姫が、田舎を恋しがるハイジみたいになってしまいました。ペーターみたいな新キャラ(唯一の架空キャラ)まで作ってまで、そこを強調する必要があったのでしょうか?原作では、山が恋しいというテーマは一切ありません。むしろ、姫の器量は田舎に収まらず、京へ、公達の目へ、そして帝に、と華やかに盛り上がっていくのです。それに姫も帝のことがまんざらではなかったはず。でも訳ありの身、原作のかぐや姫にはそういう苦悩もありました。そして数年が流れ、いよいよお迎えがくるとき、「地球」の威信をかけて姫を守ろうとするのは帝だったはず。ここは月対地球の決戦前のようであって欲しかった。映画の帝はあまりにもチャラ過ぎます。原作で姫が最後にとる行動は、親にではなく帝に手紙を書くことです。それは帝へのお詫びと親愛の情をこめた歌でした。そして不老不死の薬を帝に献上するのですが、帝はそれらを富士山の上で燃やすのです。姫のいない不老不死に意味はないとしてね。このスケールをどうしてわざわざハイジ級に落としめる必要があったのでしょうか。残念です。原作に忠実という方も結構いますが、日本人としてもう一度原作に触れてみて下さい。
「この地で生きていくことが罪と罰」
もし願いが叶うならば、
自分が子供の頃に観たかった。
もし子供の頃の感性でこの映画を観ていたら、どんなに衝撃が強かったことだろうか。
内容はおそらく解らなくとも、この映像美と色彩と音と声優の演技力は幼い子供の感性に何かしら強く焼き付けたはずである。
そして成長したらどんな大人になったであろうか。
今の自分よりも汚れていない、まともな大人になれたであろうか…
アニメ映画をガッツリ2時間観たのは大人になって初めてかも
しれない。
40を過ぎた私にはこの2時間はとても懐かしい感覚に浸れて子供の頃の気持ちで最後までスクリーンから目が離せられなかった。
大人になってしまった自分の感性に、あの頃から変わってしまった自分自身に罪を感じ、これからの自分の残りの人生が罰なのでは…
なんて考えてしまいました。
観てよかったです。
大人な映画でした。(u_u)
傑作
作品のメッセージは・・・
私は高畑勲のファンである。「火垂るの墓」もそうだが、何よりTVシリーズ「赤毛のアン」がこよなく好きだ。そんな巨匠の14年ぶりの作品、しかも製作期間8年、製作費50億という超大作と聞いては、いやが上にも期待は高まる。
しかし正直大きな感動はなかった。決して凡作ではない。作画一つとっても他のアニメとは違うことは私にもはっきりと分かる。ただこの作品をどう評価するのが正しいのか、私にそんな理解力があるのか確信が持てないのが正直なところだ。
CMやチラシでは「姫のおかした罪と罰」が強調されているが、それがはたして作品の中でどれほどのインパクトを持っているのだろうか。私の単純な頭ではこの作品の月世界は天上界の象徴のようで(最初に姫が筍から現れた時に蓮座にいたことからも)、その静謐で平穏な世界に生まれながら喧噪と欲望にまみれ穢れた地球(地上界)に憧れたことが罪で、その罰として「一度体験してこい」とばかりに落とされたことが罰という理解しかできない。もっともその後に黄金や着物を送ってきたところをみると、流刑にした訳ではなく常に見守っているとみるべきなのだろう(何しろ仏様だから)
そして幼いころは自由を満喫するだけでよかった竹の子が、成長して「なよ竹のかぐや姫」になって次第に自分を自由にさせてくれない翁の愛情が重荷になり、最終的に欲にまみれた御門の抱擁を受けて思わず「月に帰りたい」と念じたことで罰は解かれ、天上界からの迎えが(文字通り)鳴り物入りでやって来る。彼らは争いをしない平穏な世界の住民らしく、迎え撃たれた矢を草花に変え、兵士を眠らせ、一滴の血を流すことなく目的を達して去っていく。
「自由に生きたい」という姫の願いは単純なようでいて、実際には不可能に近い。何故ならそれを突き詰めれば「他を不幸にする自由」をも認めることになるからである。
この作品の翁と媼の間には子がいないようで、自分の子ではないが「天からの授かりもの」として姫を託された翁は、それこそ全身全霊で姫を愛し自分の信じる幸せのありかたの最高を求める。それは翁の信じる愛であり自由である。かぐや姫の「自由に生きたい」という気持ちを突き詰めるなら、その翁の愛と自由を否定し、更に捨丸の妻と子供を不幸にすることをも認めることになってしまう(余談だが、かぐや姫の誘惑に負けて何の躊躇もなく妻子を捨てようとする捨丸は、男として最低である)。
しかしこの作品は声優陣が素晴らしい。作画にとらわれないプレスコ方式のためもあるのだろうが、特に翁を演じた地井武男は大熱演賞ものである。また媼を演じた宮本信子はもちろん、相模を演じた高畑淳子もまさに適役であった。その他のキャラの中では、妙に出番の多いパタリロに似た猫顔の女童が印象に残った。
この作品のメッセージは「庇護者から罰を与えられようと自由を求めるべき」なのか、「過度に自由を追求すると利害の衝突が起こり、人々に幸せをもたらさない」なのか、或いはまた別のものなのか迷うばかりである。
素晴らしい。
こっちも「生きろ」
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