風立ちぬのレビュー・感想・評価
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自然と涙が溢れ出てくる作品。
正直、「面白い」作品ではない。けれど、なぜか、涙がぼろぼろと流れ出る。登場人物が、全員、本当に人間らしくて、魅力的。
決して偽善ではないのだが、善とも言い難い。矛盾だらけだが、人間とはそういうものなのだ。主人公と、ナホコの愛、そして主人公の飛行機にかける情熱は、本当に純粋で、ただただ、美しい。
ジブリとしてのファンタジーさには少し無理やり感があったが、わたしは好きだった。賛否両論あるのも頷ける。子どもは絶対に退屈するだろう。間違いなく大人向けの映画だ。
私にとっては心の琴線にふれる映画だった。とてつもなく切なく、澄んだ感情、そして一日を大切に生きていこうと思える、素敵な作品だった。観て、本当によかった。
宮崎駿という芸術家
一度しか観ていませんが、とても素晴らしい映画だと思いました。
自分が芸術に関わっているからでしょうか、カプローニが語る言葉がとても心に残ります。
「想像的人生の持ち時間は10年だ。
芸術家も設計家も同じだ。君の10年を力を尽くして生きなさい」
宮崎駿という偉大な芸術家は、一番これを理解しているのでしょう。
彼がこれまでに何度も引退をほのめかしています。
「君の10年はどうだったかね。」
この言葉を聞いた時に何故か涙がでました。
ああ、これで宮崎駿は芸術の世界を去ってしまうんだな。
本当に最後と決めていたのでしょう。
映画が全体を通して哀愁に満ちていて、今までになく抽象的です。
そんなに万人にウケるように作ってもいないし、高評価を得ようともしていないし、ストーリーを重視してもいない。
ただ、自分の思うままに、美しく人間を描いた、宮崎駿という1人の芸術家の遺書、そんな作品だと思います。
映像としての美しさ
レビューを見ているとストーリーや声優について述べたものが多いようだが、ジブリ映画の真骨頂といえばやはりあのなんとも言えない美しい映像ではないだろうか。
ナウシカしかりもののけ姫しかり、ストーリーをあまり覚えていなくても、一度その映像を観れば何かしらのイメージが脳裏に焼き付けられる。すごいことである。
大ヒットした今作でもそうだ。
妄想の中でプロペラ機を飛ばすシーン、ファンタジー描写のシーン、大震災が起きて地面が激しく揺れるシーン。映画を見て少し経った今でも鮮やかに覚えている。
メッセージ性の強い映画だからこそ、ジブリとしてそういった映像の美しさへのこだわりを見せた今作は見事な作品だった。
大傑作
ものすごく感動して号泣したのだけど、気に入らなかった人は一体何が問題だったのか?
物語も、登場人物の心情も、とても分かりやすかったと思うのですが。
自らの「mission」にどこまでも忠実に生きようとした堀越二郎の誠実さと、堀辰雄が謳った「幸福」「無償の愛」が見事に融合してた。
「それは愛ではなく、お前のエゴイズムじゃないのか」
という黒川の問いへの二郎の答え、それが全てでしょう。
ハァァァ?(´゜∀゜`)
びっくりです。
駄作です。
宮崎監督もこんなの作るんですね。
ガッカリだ…
なんだよこれ、映画じゃねーよ。
テンポ悪い。時間経過がわかりにくい。庵野がヒドい。脚本も…
とまぁ
ヒドいです。
予想してたよりも泣けない…
もうちょっと良くできたはずですよ監督。
コンセプトは悪くなかったのに。
監督は飛行機が大好きだそうですね。
今回はちょっとやりすぎましたね…
ガッカリ。
以上。
美しい映画でした
とても美しい映画だったなぁと思いました。
見終わって、思い起こせば、
二郎の見る夢はとても色鮮やかで、夢にみちあふれ、
現実は現実で、ドイツの飛行機の精密さ、二郎の実現した零の軽やかさ、
菜穂子と二郎が青空の下で交わす口づけや、結婚式の凛とした空気、
最後の二郎の夢の中、笑顔で駆ける菜穂子と、帰らぬ機体の戦列、
淡々と、美しい世界ばかりが思い起こされました。
けれど、これって、よく考えれば本当に、悲しいことなんですね。
この映画には、幾つもの矛盾が出てきましたが、(飛行機をつくることが、戦争への加担につながったり、仕事をするために結婚したり、人を愛するために命を縮めたり…)だからといって、登場人物たちが間違っているとかは思えませんでした。
(特にこの映画が戦争賛歌や、煙草推奨とは到底思えません)
皆が皆、自分の信念のために、ただただ真っ直ぐ生きただけ、だったように思います。
命は生まれた瞬間から死に向かって歩みを進めるという、大きな矛盾を抱えていると思います。
だからこそ、こうして生きること、生きていくこと、生きようとすることは、美しいのかなぁと思いました。
ただストーリーは、零戦製造とラブストーリー、どっち付かずな感じでどちらかひとつに絞るかもっと掘り下げるかしてほしかったなぁ、と思いました。
個人的に、黒川さんが墜落した機体を雨のなかじっと見つめるシーン、三菱の研究者たちが二郎の元、自主的研究会みたいなので、目をキラキラさせているところ、カプローニが最後の飛行で女の子にまみれながら機体を案内し、貧乏子沢山な発言をするところが好きでした。
そして私が菜穂子なら…絶対治って二郎と添い遂げてやる!って感じかな。
だって、結婚の申し込みを受けて、絶対治しますから、って言ったもんね。
約束は守りたいなぁ。守れないなら守れないまま1人で死んでやる!笑
ひど過ぎる。(内容の質)
以下、その理由を書く。
1.二郎が何を考えているのか分からない。
二郎は様々な所で人助けをする。そこから正義感や思いやりがあることは伝わってくる。
しかしそこには矛盾点がある。
戦闘機という多くの罪のない人々やパイロットを殺すものを作る葛藤や、不景気、貧しい人々や飢えている子供がいる中で、膨大な金が使われる戦闘機への葛藤が、殆ど伝わってこなかった。少しはあったが、そんなに思いやりや正義感のある人間なら、そんな仕事が本当に出来るのか?他のやり方を考えることを試みたり、他の方向にいくこともできたのではないか?たとえその仕事をやらねばならなかったとしても、その葛藤がもっと描かれていいはずだ。その姿を見せてほしかった。
サバの骨を見ながら『美しい』などと言って、『美しい飛行機作り』にひたすら邁進する姿は本人なりに『力の限り生きて』はいるが、『非人間性』すら感じる。本人の人間としての信念や考え方、価値観が伝わってこなかった。
個人的な話になるが、熱中するほど好きな夢を自分も持っている。しかし自分はもしその究極の夢を実現することが、二郎のように多くの罪のない命を奪う事に繋がるのならどうするかと考えた。自分は加担しないで叶える方法を出来る限り探し、違う道を探すと考えた。強制的に加担せざるおえないと立場にあったとすれば、とても平静ではいられないと思う。しかし二郎にはそれが殆ど描かれなかった。
ただ『夢を追う姿』を純粋に描いたと言われても、すんなり何もかも無表情で受け入れる二郎に納得出来ないものがあった。
『力の限り生きれば』なんでもいいのか?『どう生きるか』が大事なのではないのか?ただ『美しい』飛行機を求め戦闘機を設計する二郎の生き方や姿勢には『狂気』すら感じた。
2.国際社会への認識の欠如。
宮崎アニメは世界的に有名だ。
宮崎アニメファンだった他国の人が、この作品を観てどう思うか?
右傾化していると思われないか?
これは本当に危険なことだ。何も今このタイミング(近隣諸国と色々ある中、また何度か政治家の発言が問題になった後)
で戦争映画を、しかも真っ向から反戦と言っていない、肯定しているようにも、美化されているようにも受け取れる作品を作るべきではなかった。
宮崎駿は自分の影響力について分かっているのか?
日本人はそもそも海外の目を意識していなさ過ぎる。(自分は長く海外に在住し、様々な文化圏の人々と関わった経験があるので、そう感じるのかもしれない)グローバル化する今、一国の思い込みでは国は生きてはいけない。海外の目を意識しなければただの変な国と思われ、孤立するだけだ。
男尊女卑な国だと思われないか?
もともと日本は世界からそういうイメージで見られている。時代で仕方ない部分もあろうがジェンダーの視点から観た時、気になる細かい箇所が多数あった。(二郎の親友の見合いに対する発言など)
外人を馬鹿にしていると思われないか?
山盛りのクレソンを無心に食うドイツ人の滑稽な描写や不気味な感じ、その他、外国人の描写の仕方が気になった。
3.煙草の場面が多過ぎる。
特にドイツ人と煙草を交換する場面はいらない。煙草=カッコイイという安直な理由で使ってるとしか思えない。
4.絵の技術の低下。
(自分は絵をやっているから特に感じたのかもしない)今迄感じなかった人物の表情、顔の輪郭、群衆の顔が気になって現実に引き戻されることがあった。主な登場人物の表情が生き生きとしていないと感じた箇所が何度かあった。下手であったり、同じであったり、不自然であったり。更に二郎の顔自体(表情ではなく骨格など)が場面によって変わったと感じた箇所が何度かあった。やたらイケメンに描かれたり、少しエラがはったり、普通だったりした。
5.本当に『生きねば』を伝えたいなら、もっと苦しんだ人達を描くべき。
一握りの金持ちのインテリのエリートばかり出てきて、特に二郎とその親友には本当の人の痛みが分かっていないように見受けられた。戦時下、苦しんだ人は沢山いたはずだ。防空壕も、兵士の悲惨さも、根っこを食べるひもじさも、何ひとつ伝わってこなかった。その中で必死に生きた人がいたはずだ。一方二郎は裕福で、有名大学に行き、避暑地で休み、、、恵まれた環境で、葛藤も殆どなく生きていた。個人的に海軍と話している時、彼らの話を殆ど聞いていなかった二郎にその人間性が出ていると感じた。自分達は特別、そんな意識すら感じた。
気になった点が多過ぎて収集がつかず全ては書ききれない。
6.個人的見解の結論とその他気になったこと。
結局個人的な結論としては宮崎駿は『飛行機が描きたかっただけ』『自分の趣味を描きたかっただけ』と感じた。紅の豚に通じるものがある。(紅の豚は徹底して趣味を貫いているからまだ良い)そこにメッセージとして『力の限り生きる』というテーマをなんとか入れようとしたが、様々な矛盾点を結局収集できずに終わり、後はつぎはぎや、つけたしと、言い訳、他者の目を意識して直した結果、なんだかよく分からない『中途半端』なものが出来た。
上映終了後、菜穂子の死で悲しくなった。しかし死を通して感動させるやり方も好きではなかった。死を描いても良いが、それなら曖昧に抽象的に綺麗に終わらせるのではなく、もっと丁寧に、真剣に向き合って描いて欲しかった。そこに宮崎駿のずるさを感じた。菜穂子の描写や設定は現実味がなく、安っぽく感じた。最後に一番残ったのは、なんとも言えない『微妙』で『もやもやした』感情だった。
スポンサーや他国の目を気にして、こうなってしまったのか。 宮崎駿自身が色んなことを気にして自由に描けない葛藤を表しているのだろうかと深読みもした。真相は分からないが宮崎駿の全力がこの作品だったとは信じたくないほどひどい内容だった。
宮崎駿に本気で正直に突っ込める人間が周りにいないのではないだろうか。(NHKの特集番組でのスタッフとのやり取りを見ても感じた)奥さん位ではないのか。鈴木プロデューサーはそうだろうが、個人的に鈴木プロデューサーの助言はむしろ宮崎駿を変な方向に走らせているように思える。地位の高い者が気を付けなければ起こる悲劇、裸の王様だ。
『無知の知』(勉強し続ける姿勢)
『謙虚さ』(人の意見に耳を傾ける)
を忘れては良い作品は作り続けられない。周りのスタッフも本当に宮崎駿を思うなら、正直に本音でぶつかってほしいと思う。宮崎駿がある意味哀れにすら見える。そして宮崎駿も今迄の賞賛や実績に対する傲慢さを一度横に起き、意見を謙虚に受け止め、考えて欲しい。
もう一つ気になったのは、ウケやオブラートに包むような仕掛けが意識的か無意識的にか、されていると感じたことだ。
ウケは菜穂子(個人的に綾波レイと少し被った)の綺麗、お嬢様、病弱、健気、一途、従順、全て受け入れる姿勢、といった設定や、二郎のたまにあるイケメンな顔の描き方、どんな非常時も冷静で人を助けるといった描写(アシタカやハク的な。しかしよく観察すると、それらとは全く違い、性格に矛盾を抱えている。1.を参照)、親友もイケメン。
オブラートはイタリア人の出て来る夢という言い訳で色々なことを曖昧に丸く収めさせるところ。フランス語や本の引用や『風』を多用してそれとなくカッコ良く、インテリっぽく、意味あり気で深そうにしたところ。関東大震災が入いることでなんとなく災害の大変さを伝えたいのかなと思わせたところ。しかし、本当にそれを伝えたいのなら、もっとしっかりその大変さを入れるべきだ。意外にサクッと終わった気がしたのは自分だけか?
あとは音楽や昔の綺麗な日本の風景でそれとなく『良い映画』な気がしてくる。しかし、実質は違う。誤摩化されてはいけない。騙されてはいかない。よくよくその映画の本質を見ないといけない。それをワザとやっているような気がして、嫌だった。
また『良い青年だ』『感動した』など、登場人物の言葉でまるで無理矢理そう感じろと観客に投げるやり方も好きではなかった。本当は丁寧な人物描写で自然とそう思わせるべきではないのか?
宣伝をやたらしていたのは自信の無さの裏返しと感じた。
宮崎駿は『ファンタジーを作っている場合ではない』と言うが、こういう時だからこそ作れるファンタジーや児童向けの作品もあるはずだ。一方で震災直後ならそう感じるのも、分からなくはなかった。しかしそれならば、リアルを描くならそれも良いが、それならちゃんと向き合い、やり切って欲しかった。この作品は中途半端過ぎる。
7.今後のジブリ
個人的な予想では次回作は今回のことを反省して、昔のトトロのような作品か子供も楽しめるファンタジーになると考えている。またそう希望している。本当に良いものは大人も子供も楽しめるはずだ。男だけ、女だけ、老人だけ、子供だけが面白いと思う作品は、個人的にはその程度の力しかないと感じている。
古き「ジブリ作品」をイメージすると痛い目に
近年のワクワクドキドキ、ハラハラしながらハッピーエンドの「子ども向けジブリ作品」をイメージして見に行くと「うーん」と首をかしげる。
また逆に、原作の「風立ちぬ」をそのまま想像するとそこもまた首をかしげる。
まぁCMなどを見て「ん?」と、何気なしに疑問を感じる部分があったので、出来るだけフラットな状態で観賞しにいったつもりであったが、タイトルからして文学に嵌った時期に何度も読んだ原作をどうしても想像せざるを得ない。
これは原作もののリメイクや映像化にどうしても付きまとう問題であるとも思うのだが…
大人のアニメであることを前面に押し出すべきだったと思う。
子連れが数組来ていたが、やはり退屈して映画館の中を走り回っていた。それは嘘でも誇張でもない。観賞に向いた年齢であるか、作品の奥を理解する精神年齢であるか、違いだろう。
加えていえば、趣味嗜好の問題もあると思う。
機械や飛行機などについて興味がない人間であれば、正直何度見ても夢も希望も感じない、わくわく感も感じないだろう。
風立ちぬをモチーフにした、違う話として発表すればきっと違う印象だったのかもしれない。
だが、私がジブリに求めるのは、おそらくこの作品の形ではなかったと思う。
無碍に「この作品を見るべき」「見るべき価値はない」などと、個人的な価値観で他人に話すことは無いが、これだけは言っておきたいと思う。
「ジブリアニメだからって子ども向けと思っていてはだめだよ」
「原作の風立ちぬは頭から振り払っていきなさい」
と。
私は少なくとも向いていない。
ところどころ泣けたり、心は動かされた所はあった。
どうやら派手で勧善懲悪なハリウッド映画に、完全に毒されてしまったようで、エンターテイメント性を求めるつまらない人間になってしまったようだ。
創造的人生は10年限り・・・なのか?
実際の堀越二郎には色々毀誉褒貶もあるようだが、この作品の主人公はゼロ戦を設計した航空技術者という事実は踏まえているものの、堀辰雄の「風立ちぬ」の主人公を堀越二郎に置き換えたような宮崎駿のオリジナル作品の映画化であるから、それを作品批判に持ち出すのはお門違いであろう。
この作品で描かれる堀越二郎はひたすら「より美しく高性能の飛行機を作りたい」という意欲に燃える青年であり、当時それができるのが軍需産業でしかなかったという理由で戦闘機の設計に携わっていくが、ここは宮崎駿の飛行機及び飛行機馬鹿へ寄せる愛着がよく感じられる。
庵野秀明の起用の結果についてはある程度覚悟していたので、それほど違和感はなかった。しかしその声優としての起用はこの作品にどのようなプラス効果があったのか私には不明で、「ヱヴァンゲリオンの監督」の知名度以外に、何を意図してのものなのかはよく理解できない。
私が気になったのは、作中カプローニ氏の言う「創造的人生は10年限り」だ。これも何かの引用だろうか、それとも宮崎駿のオリジナルだろうか。
「人間の能力発揮のピークは短いから、やりたいことがあれば全力で取り組め」というなら納得できるが、なぜ10年という枠を設定する必要があるのか?10年を超えて創造的活動を行っている人は大勢いる(宮崎氏もその一人)と思うのだが。
『風立ちぬ』〜恐るべき少年の志〜
百人百色に実に色々な観かたや味わい方の出来る、世間的なイメージでのアニメの範疇を超えちゃったある意味途轍もない映画だと思うんですが、
まぁそんな初歩的な事はこのサイトをご覧になる様な方は百も承知でしょうから、百色だったらどうで三色ならどうなのだ?的な抽象的な話は省略しますし、自分の感じた一色だけ書いておきます。
自分はこの作品二度観ました。1回目は自分がいったい何処であんなに涙腺にジーンと来たのだか、帰ってから思い起こしても何だか良く判らなくなったので、
(本ではなく映画でリピートするのは個人的には異例なのですが)その辺のもやもや感をどうしても解消したくてもう1度行くことにしました。
それで結果的に自分としてはだいぶんと腑に落ちたのですが、恐らくは泣いた!感動した!と自分を含めた世間の皆さまが、まるで星飛雄馬と伴宙太の如くダダ泣きしてしまう部分というのは、主としてヒロイン菜穂子の心情にピィィィィィィンと観た方の琴線が触れまくった時のパートにかなり局限されるのではないか?と今ではそう思っています。
これ程にも誠実で純粋で真っ直ぐで、そして儚く美しい菜穂子の二郎に対する想い、なんだかままごとのようでもあり夢うつつの様だけども、絵空事だと一蹴出来ない、こんな想いで結びついた二人の関係への率直な羨望。
ここだけ抜き出しても何度でもゴハンお代わりが出来る、じゃなかった、何度でも泣けるくらいに菜穂子さんの心情から溢れるモノの涙腺破壊力はかなりスゴイなと感じます。
で、確かにスゴいんですが、でもこれはやっぱりこの作品のミソではないな、とも感じました。
あれこれ思い起こして、作中で今も一番くっきりと印象に残っているのは、やはりカプローニ伯爵が「日本の少年よ、まだ風は吹いているかね?力を尽くしているかね?」と繰り返し繰り返し呼びかけている夢のパートでしょうか。
「夢見る少年の視たその夢が、世界を造り世界を滅ぼす」「だから少年を主人公にするのは困難だ」とこれまで語っていた監督。
そのためか、映画版の『風の谷のナウシカ』以降は常に物語に健気なヒロインを被せるという、ある種カモフラージュ的な甘いオブラートに包みこむことによって、結果として『ラピュタ』に代表されるようなジブリがイッパイな柔らかなイメージを長らく提供し続ける事になった監督。
その同じ監督がまさにその少年〜青年を、こうもストレートに正面に据えて、いつもなら大文字でかかげる「ヒロイン」を、完全に脇に置いた物語を描き始めたことに、そして人生の晩年になってなおこの様な呼びかけを為し得る事に、自分は後から素直な感動を覚えているのでした。
『創造的人生のリミットは10年だ、君の力を尽くして生きなさい」・・
そこには賢しらな倫理や善悪や正しさとの相対など関係なく、他者との比較やこすからい優劣でも勝ち負けでもなく、他人からどう評価されるのかでもなく、ただ自分という実存が、どれだけ力を尽くし、抱いた夢に向かってその生を生き切る事が出来るのか?
それこそが人を美しく人たらしめるものであり、人はひとたび生まれたらなべてその夢を追うべきなのだ、と言うある種のエゴイズム肯定。
それを恐らくは表現者としてのハイリスクを承知の上で、正面突破でやっちゃったことは大きな驚きです。
といっても、複数の方が指摘されていますが、これは既に漫画版『風の谷のナウシカ』で到達していたことなのだそうですが。
ともかくも、少年の夢を去勢してしまえば、もうそこから先は生暖かい日常の中に閉じ込められて、何とはなくの幸福感で半ば満足しつつ、経済的な環境が良いものであれば尚更に、それでいて自分でもよく判らない何かに常にいらつきながら、壮年に至るまで悶々とあがいていく人生になってしまう。。
「だから少年よ、夢に向かって力を尽くしなさい、そうして君は生きねばならないのだ」
と、大人の経験のみが持つ残酷さと優しさで語りかける宮崎監督。すげぇなアニメでこれやるか!クラーク博士も真っ青、全くグレートなじじいだ!って言葉しか浮かびません。
・・でもなぁ、今時の、自分自身にはとってもユルユルな、そのくせ他者にはとっても不寛容な、あるいはビッチーなばかりの人たちには、これってどれくらい通じるのだろうか?
これがちゃんと通じる人には若者だろうが大人だろうが、そもそも語りかける必要が無いのでは?というアイロニーもまた成り立つわけで・・ヽ(´д`;
確かに、ただ萌えるばかりが大好きなアニメファンは言うに及ばず、「ブンガク」なんてお呼びじゃないし、表現におけるメタファーもアイロニーもクソも全く理解できん(したくない)という人たちが、はぁそれで??とか言ってバッサリ切り捨ててますしねぇ。
その辺がとても心許ないので、観客への訴求力に対して★半分マイナスにさせていただきました。
おしい。。。のかな
初めに。最近の宮崎監督の映画には若干批判的です。
主題がぶれてませんか?と、問いたい。
恋愛か?堀越さんの人柄か?
どちらに主題を置きたかったのだろうか?と悩んでしまいました。
確かに、場面場面では「つらい」「きつい」「幸せ」と感じることができる作品です。
でも、恋愛シーンがあったと思えば、次の場面ではあっさり感情が断ち切られて飛行機作って「仕事だから」みたいな感情が流れてきたり。
自分的には飛行機2、恋愛8くらいの割合でやってくれたほうが萌えられたのに、と思いますw
世間の賛否の激しい、「病床の奥さんの横で設計をする」あのシーンをずっとふくらまして作品にしていてくれたらよかったのになあ。
あ。喫煙シーンは別に何とも思いませんでした。そういう時代だなあってくらいですかね。
あとひとつ。そろそろ宮崎監督は声優さん使ってくれませんかね。耳たこでしょうけども。
DO MY BEST
戦闘機が大好きで、空中戦シーンが大得意で
戦争を徹底的に否定している宮崎駿そんな矛盾の総括を
鈴木敏夫Pが煽って出来た映画。
結果的に、宮崎駿の遺言第一章といった趣の映画になりました。
零戦の生みの親、堀越二郎と『風立ちぬ』の作家の堀辰雄を
この二人を合成したキャラクター二郎。
運命的な恋に落ちるヒロイン奈緒子との恋。
盟友本庄との技術開発の日々。
そして、二郎の夢現の中で登場するイタリアの飛行機製作者
カプローニとの邂逅。
冒頭が関東大震災、以降昭和恐慌、第二次大戦
なんとも生きにく世の中にいながらも
純粋に飛行機を作り続ける二郎と
戦争という事実の劇中の存在感のアンバランスさが
結果的に映画全体の不思議な空気感につながりました。
主人公の声を弟子筋の庵野秀明が当てているのもびっくりですが、
意外にも唯我独尊でモノを作り続けることだけに生きる二郎と
キャラクターの属性がマッチしていました。
宮崎駿が初めて心底創りたいもの創ったのかなという思いです。
映画評論でなく、素直な感想
ジブリブランドの先入観で、見た人(私も)からすると消化不良になるんでしょうね。
はっきり言って何が言いたいのかわからないです。
宮崎監督が、客受け関係なしに自分の世界観で作った感じがします。
普通の人には理解できない領域です。
この作品の深さを理解すべく何回か見直す発言がありますが、一回で感じ取れない時点で
この作品は万人向けでは無い事がわかります。多分何度見ても深さはわからない。少なくとも私は。
ま、ジブリ評論家の方達はこれの良さがわからぬか、君らはと言うのでしょうが。
私にはわかりませーん。
期待しないほうがいい映画でした
いくつか映画のレビューを見て、あと簡単な映画宣伝文句をみて、この映画を見にいきました。元々の直感とレビューからあまり期待はしてませんでしたが、それでも何らかのインスピレーションをもらえるのではないかという期待で見に行くことになりました。
それと、レビューの中には「時代を先取りしすぎた映画」だとか「恋愛があるとおもったらあまりなくてひたすら戦闘機作りばかりだった」とかいう感想があり、そういう部分にも期待していました。
さて、見た後の私の意見ですが、レビューは嘘が多かったということ(笑)。時代を先取りしすぎてわけがわからないような部分もなければ、恋愛がすくないというのも間違い。半分くらいは恋愛もので、私的には目的とちがって期待はずれでした。
ひとことでまとめると、「特にとりたてる部分はない普通の映画」です。
今回、とにかく、レビューをみて先入観をもつのが一番危険だと痛感させられました。
宮崎監督の信念と良心を垣間見ることが出来た。
映画の内容について、ほとんど予備知識のないままに見に行った
が、素晴らしい映画であると感じた。
宮崎監督の信念と、今の日本に伝えたいメッセージはしっかりと
受け止めることは出来たのではないかと思う。日本の一番暗く重
い時代を、腐りもせず、自傷にも批判にも走らず、自らの仕事を
全うする青年の姿に、監督が本作に込めた、今の日本へのメッセ
ージを感じない訳にはいかない。
その時代を断罪することができるのは、同時代に生きた者にのみ
許された特権である。監督もそのあたりのことは重々承知のはず
。
本作の中で非難らしい非難を受けたのはナチス党であり、作中人
物を通して、ならず者の集まり、とまで言わせている。それ以外
は日本の軍部、会社組織、上流階級、来日中の枢軸国人、そのい
ずれに対しても監督の描写はあくまで中立を貫いている。その辺
りに監督の配慮、そして良心を感じた。
堀越氏の生い立ちにしろ、零戦の設計者としての知識ぐらいしか
もっておらず、堀辰雄の「風立ちぬ」もだいぶ前に読んで以来、
ほぼ内容を忘れかけていた。
なので、本作が史実に合致しているか、については私自身それほ
ど重要視していない。むしろ、日本が一生懸命に輝こうと悪戦苦
闘していた時代の美しさを、監督が愛好する、紅の豚の世界にも
似た飛行機乗りのロマンに絡めた着眼に拍手を送りたい。
どうすれば、今の日本はかつてのように輝けるのか、どうすれば
少子化を克服できるのか。そして、人は何ゆえに生き抜くのか。
ラスト近くで菜穂子が語りかける言葉に、全てが集約されている。
2013/8/24 イオン・シネマつきみ野
本作への批判、堀辰雄との類似性に関して
--本作への批判、堀辰雄との類似性に関して--
この映画を一緒に観た友人は、非常に怒っていた。彼女いわく
「軟弱な世界観。当時あったはずの悲惨さを全く描いていない。まるで夢物語だ」と。
私はその言葉を聞きながら、ある種の既視感を覚えていた。
この映画への批判は、堀辰雄が文学史の中で受けてきた批判と同質だったからである。
「素寒貧」「堀の小説にでてくるような生活はどこにもない」
三島由紀夫、大岡昇平らが堀を評しての言葉である。
本作への批判を、堀文学と比較しながら考えていきたい。
...
本作は、堀文学へのオマージュが散りばめられている。
二郎が軽井沢のホテルで菜穂子の部屋を仰ぎ見るシーンは『聖家族』からの、菜穂子がサナトリウムを抜け出して二郎のもとへ赴くエピソードや喫煙シーンなどは『菜穂子』からの引用であろう。(余談であるが『甘栗』における喫煙シーンは文学史上屈指の美しさであり、堀辰雄は煙草を大変上手に扱う作家でもあった。)
エピソードのみならず、本作と堀辰雄作品は、その表現方法も酷似している。
堀辰雄はアクテュアリティー…現実性を徹底して排除した作家であった。
「私は一度も私の経験したとほりに小説を書いたことはない。」と、自ら語っているように、
結核を患っていた己の療養生活をそのまま描くのではなく、美しい虚構に再構築して小説に仕立てた。
私小説として現実の悲惨さを描くのではなく、ラディゲのような純粋な虚構を書く事、「現実よりもつと現実なもの」を描く事が堀辰雄の目指すところだったのである。
それは、この映画における、戦争や死に触れながらも悲惨さを排除し、美しさ純粋さを際立たせた演出法でもある。
このような表現方法は熱狂的なファンも獲得するが、前述のような批判を生む。
堀辰雄に対して
大岡昇平は
「きれいなことだけ書く」
「堀の小説にでてくるような生活はどこにもない」
「変にセンチメンタルなことを書いてるのは、人の憧れをそそろうという策略」と断じ、
三島由紀夫は
「文体を犠牲にしてアクテュアリティーを追究するか、アクテュアリティーを犠牲にして文体を追究するかのどちらかに行くほかはない」という、表現者にとっては切実な問題を充分理解しつつも、
掘文学を「青年子女にとって詩の代用をなすもの」(大人向けではない)と評するのである。
小説の発表当時だけではなく、むしろ戦後あけすけな堀批判がなされたという事は、大戦を経た社会では、堀辰雄的表現の限界を感じていたのかもしれぬ。それとは別に、あまりにも自己完結された堀文学への羨望にも似た揶揄だったのかもしれぬ。
大岡らの評と、我が友人の本作への否定的な論は、非常によく似ている。
現実をあえて描かない事を、甘えとみるか、作品世界の完成度を上げるための手法と認めるかの、瀬戸際の論なのである。
本作への否定は、宮崎駿やジブリという特異性に対してのものと勘違いされがちだが、堀辰雄的な表現法への批判であり、それはもう何十年も前から行われてきたことなのである。なんら目新しいものではない。
当然、宮崎駿自身も「美しいものを描く」表現法が賛否を呼ぶ事は承知の上だったのであろう。
アクテュアリティーが無いという批判は、宮崎が目指したもの…堀辰雄的世界により近づいているという賞賛でもあるのだ。
堀辰雄を最大のエクスキューズにし、徹底的なアクテュアリティーの放棄をやってのけたとも言えるのである。
===============================
--堀辰雄との相違性に関して--
では、本作と堀文学が全く一緒かというと、そういう訳ではない。それぞれの作家性が当然のごとくある。
その相違を考えていきたい。
...
宮崎駿は堀越二郎という一人の天才を描いたが、
堀辰雄も一人の天才をモデルに用いた。堀の師でもあった芥川龍之介である。芥川をモデルとした人物が『聖家族』『菜穂子』などには出てくる。
天才をモデルにし、作者本人との類似性を提示したという点では一緒なのだが、そのスタート地点が決定的に違う。
映画では、二郎の夢を追う道程を描いた後に、愛する人の死と敗戦という深い喪失が提示される。
堀の小説は逆である。
最初に芥川の死という喪失を提示するのである。
映画のラストから、堀の小説はスタートするのである。
芥川の自死。芥川を理想としていた堀にとっては、どれだけの絶望であったであろうか。その上で、
「(芥川の死は)僕を根こそぎにしました。で、その苛烈なるものをはつきりさせ、それに新しい価値を与へること、それが僕にとつて最も重大な事となります」とし、物語を紡ぎ始めるのである。
喪失そのものと対峙し新しい価値を与えることが小説の第一義なのだ。
であるがこその「いざ生きめやも」なのである。
宮崎駿は美しき夢を描き、堀辰雄は夢の果てた後の無惨さを美しく転化して描いたのである。
...
ここから先は個人的な所感である。
映画を見た際に、若干ひっかかりを覚えたシーンがあった。
軍部との会議のシーンと、特高警察の登場シーンである。
(これらのシーンに対して史実と違うという批判は無効だ。なぜなら本作がアクチュアリーの排除を前提とした作品だからである。)
他のシーンが圧倒的な美しさに溢れていたのに対し、あまりにも戯画化され過ぎていて、ありきたりな印象しか残さない手垢の付いたシーンであった。宮崎駿の観客をリードしようとするその方向性が、容易に見透かされるのである。
これらのシーンは、個人と全体の対立という非常に重いテーマをはらんでいるのだが、その表現法はあまりに安易だ。
観終わった後しばらく気になっていたのだが、宮崎駿本人がこう述べていた。
「(会議のシーンなどは描きたくないが)やむを得ない時はおもいきってマンガにして」カリカチュア化して描くと。
戯画化され過ぎているのも、宮崎の計算のうちだった訳である。
映画全体のバランスを考えれば、それが正解なのかもしれない。
そう判りつつ、堀辰雄だったらこれらの場面をどう描くのかを、考えてしまう。
堀辰雄だったら
作品全体のバランスが悪くなったとしても、判りやすいカリカチュア化ではない方法をとったのではないか。
もし描ききることが出来ないのであれば、その場面をカットしストーリーそのものを変えてしまったのではないか。
その堀辰雄の潔癖性こそが、純化された作品群を生み出す源であった。
三島由紀夫が「素寒貧」と酷しながらも、「小説を大切に書くこと」を堀から学んだと表する所以は、そこにある。
そして堀から表現に対する実直さをとったら何も残らないのである。
宮崎駿は、堀辰雄よりも遥かに老練な表現者なのかもしれぬ。その手管の豊富さは批判されるべきものではないのであるが、
堀辰雄への共感と同等のものは持ち得ない。
カリカチュアを良しとする老練さは、純化された作品には向かないからである。
宮崎駿がその老練さを捨てた時、真に純化された作品を作った時、
本当の傑作が生まれるのではないか。
もう少し
映画館は比較的に満員になっていて親子ずれなどもちらほら見えたが、内容は明らかに成人男向け作品に思う、戦争性なども噛んでいるから夏にしたのかわかりませんが、ジブリさんにしてはちょと時を逸した作品に思います、親子連れのお子さんや女の子などに引かれるキャラクター性など夏休みなんだしファンタジー性を強調してもよかったのでは、親子連れのお子さんは一時間もしないうちに退屈していました。
内容はいいんですが、夏にしてはポイントがずれた作品に思います。
圧倒的じゃないか、我が否定派は!
賢明なる公国の市民らよ、敢えて言おう パヤオは最早「カス」であると!
あれら軟弱の信者どもが讃える『風』など、かの『天空の城』を抜くことは出来ないと私は断言する。
連邦のステマどもが何と言おうとも、たとえ菜穂子にだけは不覚にも少し萌えてしまおうとも、
Yahoo!映画レビューにおけるあの圧倒的な★1つへの賛同数こそが紛れもない真実の声なのである。
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但しネットの中だけだがな、、_| ̄|○
我が戦友たちが、Yahoo!映画でステハンで★1つの一点レビューをどんだけ量産しようが
ステマに成りすまして、一部の右翼団体のようにほめ殺し作戦に打って出ようが
家族連れに成りすまして退屈した子供が走り回り出したと、館内の様子を嘘八百並べ立てようが
友人も同僚も全員つまらないと言っていたとか、マジョリティー・オピニオンのフリをしようが
そんなもんは公開から1ヶ月を過ぎてもなお、ブッチ切りの動員数V5という過酷な現実の前には
まるっきり蟷螂の斧だ、ごまめの歯軋りだ!
コンクリートの壁に生タマゴをぶつけるほどの意味すらもない陳腐なデマゴーグだ。
おまえら揃いも揃って福島○穂か辻○清美かよ!簡単にバレる駄ボラこいてどうすんだよ!
かくの如きいわゆるこすき輩は、行為としても為人としても戦友としても全くもって頼むに足らぬのだが、
もし映画として掛け値無しホンマもんの駄作と言うのであれば、とうに動員ペースなどは落ちているはずなのだ。
5週間変わらぬペースで動員が続いている現実を、本気で敵方のプロパガンダだけに起因出来るのか?
我が軍は圧倒的なはずなのに戦況は日増しに不利になり敵が本土に近づいているのは何故だ⁉
心強くも頼もしかった、精強なる酷評レビューの質もどんどん低下して来た。
曰く、私の金を返せ、内容が薄っぺらい、眠い、中途半端、全く心に響かない、戦争に対する葛藤が無い
煙草、初夜、結核キスシーンは非常に不快、庵野の棒読みマジあり得ない、、まるでクローン培養のような
駄レビューの連続は、ステマの絶対礼賛駄レビューとコインの表裏の如き対称性で、全く没個性の極みだ。
『腹たちぬ』なんてタイトルなんぞは、本人は気が利いてるつもりかなんか知らんが、俺は少なくとも
15回は見かけた。我が戦友たちながら足先まで萎える思いがした。
2ちゃんねるの最底辺ラインの野グソ級コメでも『アレ勃ちぬ』くらいは書いているというのにだ!
全くなんという度し難いモンキー野郎どもなのだ!
もはや我が軍の技倆優秀だったパイロット達は皆ガダルカナルの空に散ってしまったのだ、
撃ちてし止まんと、★1つレビューに一所懸命《役に立ったボタン》を押し続けるのも疲れたしもう飽きた。
ヴェネチアに続いてオスカー賞の前哨戦と言われるトロント映画祭にも
主催者側からの懇請でスペシャル・プレゼンテーション部門に出品決定だと?
これでアカデミーまでノミネートされた日にゃポツダム宣言受諾も同然の惨禍だ。
なぁ歴戦の戦友たちよ、
もういいんだよ。さぁ、ジブリアンチスレの懐かしい仲間たちが24時間待っている、ヤフコメ並みに
あの生暖かくDQNな2ちゃんねるアニメ映画板へと帰還しよう。
ステマなんて、リアルの人間が知りもしない用語使ってる失態にすら気づかなくなった時点で
俺たちは既に敗北の坂を転げ落ちていたのだ。
今はアニメ板に帰って、動員は仮面ライダーにも及ばないのに、レビューだけは常に満点全開の
『劇場版銀魂』でもカルトに称えてマッタリしようや。
俺は六本木ヒルズの7番スクリーンで、土曜日の13時5分の回で観て来た。
9割くらいの入りだった、ガキ連れなんてザッとみても3組くらいだった
午後のいい時間なのにな
圧倒的に高校生以上の奴らしかいなかった、それでもこの大入りぶりだ
途中で席立つヤツなんて一人もいなかった
終わったあとも、沈黙とビミョ~感だけが館内を覆い尽くす沈鬱な空気なんてのはなかった
俺は俺の意見をもっともらしくするために、こんなことで駄ボラを吐くことは出来ん。
俺にとって最強に面白くなかったのは間違いない、ゲドの次くらいに確実につまらん、
何故なら俺の魂は常に「バルスッ!」と叫びたいからだ!
漠とした『風』なんて吹き散らす程に熱い、そんなお前らの熱い「バルス!」の
シュプレヒコールを俺の魂は共にしてると信じていたからだ。
ジブリにおけるインテリジェンスや文藝などは理解し得ても、なお俺には別に全然お呼びじゃないからだ!
しかし、我が否定派が圧倒的だなんてのは、ネット内だけの肥だめのような妄想に過ぎなかったのだ・・
試写会の直後はあれだけ強盛を誇った否定派も、今やパヤオの繰り出してるメタファーも解らないくせに
俺の最も憎む、夜郎自大な賢しらさで罵ってるだけの厨二病ばかりだ、、要するに「知らぬを知る」ことすら
こいつらは理解出来ておらぬのだ
実に無残だ。
感動
初めて映画館で泣いた映画です!
まだ私は若僧ですがこの映画をみてもっとひたむきに真っ直ぐなにかに取り組みたいと心から思いました!
まさに人生についての考え方を変えてもらった映画です!
二郎の真っ直ぐでかっこいい姿に渋い声がだんだん歳を重ねるごとに馴染んでいしびれました!
やる気のない私をやる気にさしてくれた映画です!ぜひいろんな人にみてもらいたいです!
腹立ちぬ
駄作。
しかも、何ゆえにこんな子供向けではない内容を夏休みに、しかもジブリを語ってやる必要があるのでしょうか。
何が言いたかったのでしょうか。
あの中途半端にイタリア語で出てくるセリフは何だったのでしょうか。
夢と現実の描き分け、登場人物がそれぞれに登場する意味、場所、時間の移り変わりの描き分け、すべてごちゃごちゃです。
そういう理解しにくいストーリーも、刃のように飛び出たセリフの配置も大勢の子供が見るであろうということを想定に入れていればもっと違った作品になっていたはずです。
自分の周囲の人たち、同僚、またweb上のいろんなレビューを見ていても同じ意見です。
完全に宣伝負けだと。
内容に自信があるなら、あんな取って付けたようにユーミンの曲を使わなくてもオリジナルで勝負できたはずです。
ユーミンの曲のメジャー性を利用しただけじゃないですか。
こんなに内容が薄い映画なのにステマがあちこちのサイトに歯の浮くような高評価、それも同じ内容を投稿しまくるわ、
他人の評価に監視するように張り付いては低評価レビューには上から目線の、『あんたが悪い』と言わんばかりのコメントを書きまくるわ、恥ずかし。。。
こういうの見てるだけで恥ずかしいし、みっともないと思う。
商業消費映画の舞台裏ってこういうことなんだな、って納得。
何より、あそこまで実際の二郎と違った二郎を描いてしまうと、本人に失礼でしょう。
よく『堀越二郎の生涯』などと宣伝文句に入れましたね。
ジブリと言えばもはや社会的立場もありますよ。
子供を連れていった親の責任ですか?
今までのジブリとは異うもの、だけではあまりに言葉足らずすぎて詐欺まがいですよ。
タバコや初夜のシーンや売春婦のシーンなど、注意喚起をもっと広告に織り交ぜるべきだったと思います。
フィクションなのかノンフィクションなのかも、どういう姿勢で作ったのかをきちんと世間に伝えるべきだと思いますね。
実在の人物を扱うのなら。
そのあたりの製作者やプロデューサー側の誠意や配慮がまったく伝わってこず、ただの金儲けに走っただけの非常に残念な映画でした。
お金払ってまで見る価値なし。
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