「主役の堀越二郎が庵野秀明でなければならなかった理由」風立ちぬ Paddyfieldさんの映画レビュー(感想・評価)
主役の堀越二郎が庵野秀明でなければならなかった理由
この映画を観た人の90%以上が、主人公の声に違和感を覚えながらご覧になったことと思う。無理からぬことだ。庵野英明は声優ではない。また「役作りはしていない」と自身でも言っている。しかしながら、この違和感のマイナス効果を考慮してもなお、この役が庵野でなければならなかった理由がある。そして、その理由は、この映画が持つ正体不明の重たいメッセージを解く鍵にもなっていると思う。
庵野秀明はアニメ監督である。
最も知られている作品は、新世紀エヴァンゲリオン。
宮崎作品との関わりとしては『風の谷のナウシカ』で巨神兵シーンの原画を担当したことが有名で、その後も宮崎を師と仰ぎ、監督としての仕事の進め方等を学んだと言われている。宮崎は、庵野英明を堀越二郎役として採用した理由を、こう語っている。
「庵野が現代で一番傷つきながら生きてる感じを持っていて、それが声に出ていると思ったから」
芸達者な声優・俳優が演技で作り上げる二郎ではなく、素の庵野の声がほしかったということだろう。
庵野自身、アニメ製作のプロであり、自作における声優への要求は異様に厳しい。監督としての目で自分の声を評価できる人間だからこそだろう、鈴木敏夫から電話でオファーを受けた時も「"まぁ無理だろう”と思いましたが、無理とはいえ宮さんから是非にということでしたし」と語っている。実際にやって見せたら諦めるだろうと思って参加したオーディションの後、満面の笑みの宮崎駿の要求を断れずに「できるかどうかは別にして、やれることはやりますけれど、そこまでです、ということで引き受け」たのだという。
庵野の「現代で一番傷つきながら生きてる」面とは、やはりエヴァのことだろうと思う。
(アニメファンが知りえる以外の部分で、何があるかはわからないけれど。)
『新世紀エヴァンゲリオン』は、TVシリーズが1995年に放映された後、劇場版で2度リメイクされている。旧劇場版(1997年)、新劇場版(2007年~)、共に後日談や外伝ではなく、TVシリーズと同じ話を作り直しているのだ。新劇場版は4部作で2013年現在3作目までが公開されており、完結編の公開時期は未だ明らかになっていない。
庵野英明とこの作品をめぐる世間の動きは、確かに宮崎が「現代で一番傷つきながら生きている」と言うに足るものだ。
TVシリーズの爆発的人気と終盤のストーリー劣化への批判、同じ話をリメイクし続けることへの批判、膨大な費用と時間をかけながら難解なストーリーで観客を翻弄することへの批判、製作者の意図とは無関係に煽られる人気と話題性、派生するパロディや関連図書の経済効果、それに絡む各社の思惑等々。
しかも、この動きは現在も進行中で、庵野はまさに完結編に向けて闘っている最中だ。『風立ちぬ』の劇中で例えるならば、零戦を形作る一歩手前、軍関係者をうまくあしらいながら、技術者たちと自主勉強会をしているあたりだろうか。エヴァは、世間的には失敗や挫折だとされている過程を経て、おそらくあと数年かけて、庵野の頭の中から現実へと引っ張りだされようとしている。
宮崎駿が堀越二郎役に欲したのは、この経験の痛みを持つ声だった。
そして、その痛みを前面に出すのではなく、技術者らしい淡々とした口調の中で、それでも何かを思わせる声。そんな声を出せる表現者が見当たらなかったので、実際にそういう経験をしてきた人間の素の声を使ってみようと思った。これが、今回の経緯なのではないかなと思う。
結果的に、それが宮崎の愛弟子、つまりアニメ製作者であった点は面白い。鈴木敏夫の思いつきだと言うが、案外、良作の宿命とはこういうものなのかもしれない。
宮崎自身が意図したことかどうかはわからない。
だが、主役の声を庵野英明があてたことで、この作品は宮崎駿のセルフポートレートとなったのではないだろうか。
>作品内で説明されていない情報を前提に作品を作る事は芸能として下の下でしょう。
「下の下」って何ですか?
そういう作品もあってもいいし、そういう楽しみ方もあってもいい。
自分の芸術論だけで、勝手に作品に上下をつけるのは不愉快です。