「「日傘の女」をコードに風立ちぬを読む」風立ちぬ imymayさんの映画レビュー(感想・評価)
「日傘の女」をコードに風立ちぬを読む
菜穂子が、丘の上にパラソルを立てて、スカートを揺らめかせて、絵を描いている場面をみて、モネの「日傘の女たち」を思い起こした。モネの妻のカミーユが若くして病気で死んだように、菜穂子も死んでしまうということが暗示されているように思う。
二郎は美しいものが好きで、その最たるものが飛行機である。きっと二郎は飛行機の次に菜穂子が、美しいから、好き。二郎は美しいものにしか興味がない。たとえば、美しくない妹との約束はいつも忘れる(美しくないから興味がない)だからこそ、妹にも「にいにいは薄情者です」と言われてしまう。
モネも妻のカミーユが死んだ時、「深く愛した彼女を記憶しようとする前に、彼女の変化する顔の色彩に強く反応していたのだ」という言葉を遺し、彼女の死顔を「死の床のカミーユ・モネ」という絵に残した。妻への愛情より、色彩のうつろいゆく変化の方に惹かれてしまうのである。
二郎とモネという天才に共通する、薄情さ、というか、天才すぎるゆえに人間らしさが抜け落ちてしまっている部分が伺えるように思う。
二郎が美しいものにしか興味がないことは、菜穂子はわかっている。だからこそ、菜穂子は一人で山に帰って、一人で死ぬ。そうすることで、二郎の記憶には美しいままの菜穂子の姿だけが残る。菜穂子は、黒川の奥さんが「きれいなところだけを好きな人に見てもらったのね」と言うように、美しい部分だけを見せる。
二郎も菜穂子も、互いに歪んだ愛情を持っているように思う。
菜穂子は絵を描く画家であり、カミーユは、画家に描かれるモデルである。描く/描かれるという差異は、死顔を見せず美しいまま死ぬ菜穂子と、美しいとは言えない青ざめていく死顔すら描かれてしまうカミーユ、という対照的な死に方にも表れる。
菜穂子は美しいまま死ぬことによって、「永遠の女」になる。菜穂子が闘病でぼろぼろな姿になったり、病気なく老いていったとすれば、きっと、美しいものにしか興味を持たない二郎は菜穂子を愛せなくなるだろう。
最後の場面でカプローニが菜穂子を「美しい風のような人だ」と言う。モネはかつて「人物を風景のように描きたい」と言い、「日傘の女」の姿を風と同化させて描いている。
つまり、この物語においては、結局、菜穂子は風景にしかすぎず、二郎が前景化されていく「二郎と零戦の物語」だ、と解釈することができるだろう。
この物語は、非常に美しく見えるが、読み解いていくと、その美しさと同じくらい残酷な物語であるといえるのである。
メモ
・永遠の女にはダンテ「神曲」のベアトリーチェも重ねられている。