<映画のことば>
「言ってくれれば、最初から作ったのに。どうせ残り物だ。」
「僕のじゃないから。」
「お前の叔父さんのだろ。」
「でも、家族じゃない。」
挿入歌の歌詞にもあったとおり「良くも悪くも、これが自分の家」ということなのでしょう。
生徒のお弁当に集(たか)る「トンでも教師」はいうまでもなく、毎日のように教室で顔を合わせ、お弁当を分け合う間柄の級友にさえ、両親の他界を打ち明けることができなかったのは、たぶん、スタンリーにとっては「級友」は飽くまでも「級友」なのであって、「家族」ではないという受け止めだったからではないでしょうか。
そう思うと彼の心情(寂しさ?虚無感?)には、胸を締めつけられるような思いがして、彼の(本当の)家族に対する思慕の深さ、厚さに思いが至ると、胸がいっぱいになるような思いを禁じ得ません。評論子は。
佳作であったと思います、評論子は。
(追記)
他のレビューの皆さんも指摘しているとおり、本作には、インド映画に、いわば「付き物」だったとも言える「歌って踊るシーン」というのは、ありません。
歌や踊りで間をもたせると言ったら言葉が過ぎるのかも知れませんけれども。
インド映画も、こういう素材重視、ストーリー重視の路線に転換してきたということなのであれば、評論子として個人的には、歓迎だと思います。
(追々記)
決してその問題の分野に明るい訳ではないのですけれども、本作はインドにおける児童労働の問題が背景ということなのだと思います。
何にせよ、社会のこれからを担う子供たちに負担のない社会が実現すると幸いと思うのは、独り評論子だけではないと思います。
(追々々記)
不慮の事故だったようですけれども。
さぞかし心残りだったことでしょう。スタンリーの両親としては。彼を独り遺してこの世を去らなければならなかったことは。
一人で二人の子供を育ててきた評論子ですけれども。
いま思い返してみれば、その二人が成人し、それぞれの伴侶を得て家庭を築いた現在まで評論子が大病をすることもなく、存命だったことの僥倖を思わずにはいられませんでした。
(追々々々記)
作品の本筋とはまったく関係のないレビユーで恐縮なのですけれども。
インドのお弁当タイムは、こんなふうなポットラック(持ち寄り)スタイルが普通なのでしょうか。
もし、そうだとしたら、インドのお弁当箱は四段重ねとか、日本ではあまりお目にかからない大きさなのにも合点がいきます。
それだけ、インドでは「人の輪(和?)」が大切なのかなぁ、とも思いました。