コックファイター : 映画評論・批評
2013年1月15日更新
2013年1月19日よりシアター・イメージフォーラムにてロードショー
闘鶏に人生を賭けた男の姿をひたすら見つめるモンテ・ヘルマン幻の傑作
私事で恐縮だが鳥類が苦手だ。苦手というより怖い。駅への道に小鳥を餌付けしている家があり塀沿いの樹にちゅんちゅん群れていたりするので、人目も構わず両肘を張り出すように頭に手をあて(こうすると自分より大きい鳥がいると勘違いして襲ってこないと聞いたのだ)全力で逃走する。特に弱いのが鶏だ。食べるほうは問題ない。が、生きてるうちはどうにも気味が悪くて正視できない。だから「断絶」にも「果てなき路」にもしびれたモンテ・ヘルマン幻の傑作「コックファイター」ニュープリントで日本初公開との報に狂喜しながら不安だった。輸入版DVDで見た時にはそれでもなんとか持ち堪えた鶏の顔のアップに銀幕で耐えられるのかと恐怖した。
何しろ闘鶏の映画だ。リングに集うアメリカ南部深奥の男たちの生々しい熱気をすくってドキュメンタリーの感触も射抜く映画は、最高の戦士となる1羽を選び、調教(?)し、嘴(くちばし)を削ったり鉄の爪をつけたりと、競技の細部や裏側をも活写していく。不安になって当然だろう。が、意外にも銀幕で見たヘルマンの闘鶏映画の鶏たちは自宅の小さな画面では感知し得なかった凄絶な美をつきつけてきた。スローモーションに舞う2羽の、生を賭けた容赦のない闘いを前に、なんとしても最後まで見届けたいと思った。そんな奇妙な使命の感覚。それは男と女の闘いを見つめるヘルマンの映画の眼差しとも響きあう。
喋りすぎてしくじった男。沈黙の誓いを立てた彼がもう若くはない許嫁に胸の底から絞り出すような言葉で手紙を書く。自分の闘いを見てほしいと。応えて姿を見せる女。手渡される鶏の頭。その先は――映画史上に残る名台詞と共に白黒で片づけられない生の滋味が迫りくる。不粋な深刻さの対極で軽やかに純愛の深淵を見つめるヘルマン。その眼の怖さ、厳しさに引き込まれた。
(川口敦子)