「最後にそれはないだろう」セデック・バレ 第二部 虹の橋 よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
最後にそれはないだろう
日本の統治に対して蜂起し、霧社から日本人を消し去ったセデック族。しかし、近代武装した日本軍が本格的に掃討戦を始めれば、地の利を活かしたゲリラ戦で相手を苦しめることはできても、最終的には山中に追い詰められていく。戦いの中で命を落とすだけでなく、自決をはかる者たちも出てくる。
そんななか、日本の高等教育を受けて文明の価値も理解し、天皇の赤子として近代国家の建設に力を注ぐことに喜びを感じていた兄弟は悩む。出身部族は今や滅亡の運命が明らかである。彼らには自らの努力でつかんだ日本社会での地位がある。しかし、この出自を背負ったままでは、同じ天皇の赤子であるはずの日本人から侮蔑を受け続ける。生き続けるにしても、死ぬにしても、一体自分たちは何を誇りにすればよいのか。逡巡しながらも、そうした一切の呪縛から自由になることを願って命を絶つ彼らこそ、この事件での最大の被害者であり、恩讐を乗り越えた場所に最初に到達した人間なのではなかろうか。この長い作品の中で、最も切なく、近代化の悲劇を象徴している。
セデック族の戦士が残すところわずかに数名というところで、頭目のモーナが、「戦いたい者戦え。投降したければ投稿しろ。自分は日本軍に捕まるわけにはいかないから山奥に消える。」というようなことを言う。
ここにきて、この英雄がどうしてこのように落とされなければならないのか。一部族のほとんどが死に絶えたことへの責任の取り方がこれでよいのだろうか。最後まで戦って、誇りと掟を守り抜くことが蜂起の目的だったはずではなかったのか。私が、頭目の共にこの瞬間まで生き残った者ならそのように思っただろう。この頭目は最後の最後で、ここまで自分についてきた者たちを、先ほどの兄弟と同じ苦しみの境地に叩き落とすのである。
観客を圧倒するカメラワークと、頭目モーナの人物としての魅力につき従ってきたこの長い物語の果ての、この彼の言動への理解が出来なかった。