「何回観ても心が抉られる作品」ゼロ・ダーク・サーティ たけやんさんの映画レビュー(感想・評価)
何回観ても心が抉られる作品
この作品は、何度観ても心を深く抉られる。
ストーリー、演出、演技──すべてが一級品であることは言うまでもないが、最も強く胸を打つのは、「これは映画だ」という感覚を忘れさせるほどの、圧倒的なリアリティである。
とりわけ、主人公マヤの存在が、そのリアリティを根底から支えている。
彼女は激情に駆られるわけでもなく、明確なヒロイズムに彩られているわけでもない。ただ冷静に、淡々と、任務を遂行していく。
だがその内側には、孤独と執念、そして言葉にはされない怒りが、静かに、しかし確実に燃えている。
彼女の眼差しを通して描かれる「正義の追求」は、観る者に明快なカタルシスを与えるものではない。むしろ、「本当にこれでよかったのか?」という問いを、観る者の胸元に突きつけてくる。特に、あの静謐なラストシーンにおいては尚更だ。
実のところ、作中に描かれる実在のテロ事件を、私は現地で体験している。
あの日、パートナーが急な発熱で、予定していた移動を取りやめた。私は薬を求めて、近くの薬局へと足を運んだ。
その瞬間、目と鼻の先で爆破事件が発生した。街は一変し、警察や消防が一斉に駆けつけ、空気は張り詰め、騒然となった。
もし予定通り動いていたら、間違いなく巻き込まれていた。今、こうしてこの文章を綴っている私は、おそらく存在していなかっただろう。
けれども、あの瞬間、自分が何を見ていたのか、本当に理解していたとは言えない。
ただ、日常の空気が突然異質なものにすり替わる、あの感覚だけが、今も記憶に焼き付いている。
『ゼロ・ダーク・サーティ』は、その「異質さ」を、実に淡々と描き出している。
派手な演出や説明的な台詞に頼ることなく、積み重ねられた情景の連なりだけで、じわじわと恐怖と緊張を立ち上げていく。
リアリティと演出という、本来なら拮抗しうる要素が、この作品では見事に共存しているのだ。
テロリズムを「ニュースの中の出来事」としてではなく、「自分のすぐ隣で起きてもおかしくない現実」として描く──その視点が本作には貫かれている。
ロンドンのバス爆破事件の再現、マリオットの食事シーンから突如として爆発へ転じる瞬間。そのどれもが、“あり得ること”として心に迫る。
そして、その現実を最も鋭利に体現しているのが、マヤというキャラクターだ。
彼女は感情を表に出さず、あくまでも職務に徹する。だが、その在り方こそが、テロリズムという理不尽な暴力が支配する世界での、ひとつの「生き残り方」なのだと思う。
希望や安堵ではなく、執念と疑念が彼女を突き動かす。その姿は、観る者の心に静かに、しかし深く突き刺さる。
テロを「他人事」ではなく、「身近な現実」として体感したことのある者にとって、この作品は、もはや単なる戦争映画やスパイ映画ではない。
それは、語られなかった現場の空気を呼び起こす“記録”であり、“証言”そのものなのだ