さよなら渓谷のレビュー・感想・評価
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二人にしかわからない関係
「憎しみか、贖罪か。それとも愛か。」というコピーは秀逸に思える。不可解な行動に言い様のない不穏さを感じながら、俊介とかな子、言葉少ない二人の内に隠された思いを感じる、絶妙なバランス。
ラストシーン、俊介は記者・渡辺との会話に真っ直ぐ顔をあげて答える。「必ず彼女を探し出す」と。
「さよなら」とだけ残して去ったかな子、いや夏美と、今までとは違う形で一緒に生きるために。
それは、長い年月を共に過ごすことで生まれた、少し歪だけれど確かな愛の答えだ。
一緒にいると決めたときから、二人の事を決めるのはかな子の権利であり、かな子の人生を歪めた俊介が望んだ事だ。
「私が決めることなのよね」と呟いたかな子は、「かな子」という仮の人生と「夏美」という悲劇の女性を終わりにすることで俊介の本当の気持ちを確かめたかったのだと思う。
この関係が、憎しみをぶつける為のものなのか、罪の意識を癒す為のものなのか、それとも確かに沸き上がった安らぎの為のものなのか。
隣に住んでいた哀れな少年を思う俊介の言葉、「あの子に何かしてあげられたのかな」という言葉は、俊介の優しさを感じさせると同時に、俊介がかな子といる理由は彼女の感じていたものとかけ離れているのでは?という疑問をかな子に抱かせた。
確かに初めは「一緒に不幸になる」事を望んでいたかもしれない。あの日凌辱された「夏美」ではなく、「かな子」になることでしか生きていけないと思っていたから。
あの日あったことを「なかったこと」に出来なかった苦しみは、夏美を幸せにすることを拒んだ。隠しても、さらけ出しても、常につきまとい怯え苦しむ人生を強要した。
あの日の自分を、あの日の出来事を隠す意味も必要もない、安心して愛せる男。それが俊介だ。
あなたは、あの日の事を「なかったこと」に出来るの?あの事がなかったら、私と一緒にいてくれないの?
愛を確かめるために、いなくなることを選択してしまうかな子は不器用だと思う。
しかし俊介の気持ちを確かめるためには、もう一度「幸せ」を取り戻すためには、それしかなかったのも納得できる。
人生を捧げると決めた彼女を「必ず探し出す」と答えた俊介は、もう「彼女が決める」人生を歩んでいるわけではない。
ほとんど喋らなかった俊介は、全てを知った渡辺に自分の感じたことを素直に語っている。
涼みに来たお気に入りの場所、新しいテーブルのこと、小さな幸せはほんの少しのお金で手に入れられるという思い。
彼女に捧げる人生の、その意味が変化していた事を彼女はまだ知らない。
でもきっと知ることになる。
何をしても怒らなかった俊介は、彼女を探し出したとき「心配したんだぞ」と怒るだろう。そして二人は同じ家に帰る。新しいテーブルがきっと二人を待っている。
不思議な渓谷
隣の女立花里美が逮捕され、取材陣が大勢外にいるというのにセックスに明け暮れる尾崎夫妻。
尾崎俊介の周辺を取材するよう命ぜられたウィークリープレスの渡辺(大森南朋)。さっそく彼が大学で過ごした野球部を取材し、退学後に就職した証券会社を当たる。その退学の理由を探ると集団レイプ事件が浮かび上がってくる。その被害者女性水谷夏美のその後の悲劇も同僚の小林(鈴木)から聞かされる渡辺。尾崎に対して過去の汚点を諭すように伝えるのであった・・・
尾崎はまた警察からの事情聴取を受ける。これはかなこからの情報で、立花による殺害の殺人教唆で立件しようと警察は動く。そして、無理やり自供・・・
やがて尾崎の妻かなこはレイプ被害者水谷夏美と同一人物じゃないかと気づいた渡辺と小林。そして尾崎とかなこの意外な関係を知るのであった。
レイプ事件の加害者の一人と被害者。一緒に暮らすようになるものだろうかと思いつつも、回想シーンによって自然な流れになっていることがわかる。立花とも一切関係のなかった尾崎はすぐに釈放され、かなこの元に帰る。幸せになろうという意思のない二人。最後に渡辺は尾崎に問う・・・もしあの頃に戻れるなら、事件を起こさなかった人生とかなこに出会った人生のどちらを選びますか?と。答えようとする寸前でタイトルバックが描かれエンディング。
生意気で申し訳ないけれど、私ならこう作らない
女の痛いほどの人生。決して癒えない傷。溢れるほど迸る若さゆえ抑えきれなかった欲で その傷を付け、自分の人生をも棒に振った男。
二人は、お互いの不幸を 確かめ合うため だけに 一緒に暮らした。
その二人の過去を追うジャーナリスト。
彼だけが二人の幸せを願ったのに。
渓谷に架かる橋の上。女は透き通るような白い足から、片方のサンダルを落とした。自分の身の代わりというように。
私は原作をこう解釈した。
この映画は 何かが違った。
いくらなんでも
ちょっと男性の妄想の度がすぎる様な作品でした。原作未読なので映画だけの評価になりますが、レイプ犯の事はいくらなんでも好きにはなりませんし、女性は男性の自己愛を満たす為に生きているのではありません。邦画の女性の描き方は割とどんな変な男性をも許す聖母的なものが多いと思うのですが、私からすると女性の描写が惨めに感じました。
しっとりしてるのに乾いてる
映画【さよなら渓谷】感想
ブルーバード映画祭にて視聴
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【真木よう子特集】
にて「焼肉ドラゴン」との二本立てで観た映画なので、もともとはそんなに詳しく知らない作品でしたが全体を包むなんとも言えない「ネガティブ感」が「ユリゴコロ」っぽくて好きでしたが・・
「ユリゴコロ」ほどの切れ味もなく
鈍くじわじわと効いてくる「曇天」のような雰囲気でした。
とりあえず・・そこらじゅうが「うつうつ」としてて
はっきりしない、しゃきっとしない・・じめじめしてるとこで・・へたくそなセックスを見せられながら・・
なぜ、へたくそなのかが・・これまた、後半につれてジャブのように効いてくる。
エロスを描いてるようなんだけど・・どうしても「渇き」がそこらじゅうに漂ってるから、「湿り気」のないなかでのエロスはどうしても「渇き」を伴うために・・それが作品全体と作品を覆ってるテーマに拍車がかかってきて、後半の謎になってる部分がうきぼりになってくる
そのうえでのクライマックスの彼の一言がずしりと効いてくる。
幸せの形は人それぞれだとは思うけど
実際に、僕の付き合いの中でも「不幸を欲してる」人がいるので、なんというか・・凄くタイムリー!
不幸であり続ける快感のようなもの?
そういうのを、めんどくさい説明セリフなしで画だけで見せていく・・いや、魅せていく手法が秀逸でした。
一言で言うなら、刺さらない
レイプする人間も理解できないし、それと住む女も意味がわからないし、
そもそも贖罪のために人生を捧げる男の感覚もわからない。
レイプするような場当たり的な自己中なことをできるなら、その事に何故悩むのだろうか。その事に悩む人はそもそもレイプをしないというのが私の考えであるから、よく分からない。
酒で酔って失敗したことに対しての後悔なのだろうか。しかし、自分はいくら酔ってもレイプする事は無いので、やはり共感できそうに無い。
あらゆる表現が共感の網をすり抜けて行った。
最後に仲が冷えていた記者の夫とその妻が抱き合っていたシーンは良かった。こういう分かりやすいのが好きだ。
そして、濡れ場を入れたのは正解である、これは勃起神経にダイレクトに響いた。
私の中ではかなりよかった
大森南朋さんの兄ということもあり、期待大の大森立嗣監督作品。真木よう子が体を張ってレイプ被害者を演じているということで、できれば劇場で見たかった作品。「悪人」の吉田修一原作ということで、テイストはわりと似ているが、事件のあった15年前から物語における現在まで続いている加害者と被害者の葛藤が主要テーマという点で「悪人」とは少々異なってくる。長い時間だ。罪を償うということはどういうことなのかというひとつの答えが提示されている。加害者側、被害者側両方の側面をわりと丁寧に描いており、劇場で見たかった作品。大森南朋ほか役者がいい。
共感や想像が追いつかない。
レイプをされたことがないので、共感や想像が追いつかない。
真木ようこはなぜ、一緒に暮らすことを選んだのか。
選んだ、というのではないかもしれないが。
怒りに打ち震えるほどの憎悪をぶつける相手なはずだったのに、橋の上で何度も男が戻ってこないか確認する彼女。
何度も何度も振り払っても、また差し出される手。
どん底のとき、自分が感情を抑制せずぶつけられる唯一の矛先が、生きていることを実感する人間関係が、その男しかいないという皮肉。
心を許す、という簡単な言葉では言い表せないのかもしれないが、確実に、変化していく彼女の心。
なぜ、出ていったのか。
男は、「幸せになりそうだったから」というが、、自分には理解の範疇を超え、「そういう生き方もあるのか…」という納得の仕方をするしかなかった。
感覚で捉えること
女とは不思議な生き物だと客観的に気づかされる映画かも。
理論で見るのではなく感情と察して鑑賞しないと
この映画は楽しめないと思います。
尾崎の妻=真木よう子
主人公の妻=鶴田真由
どちらの妻としての機微を細く察しないと楽しめない。
これは本で読んだ方が男性は楽しめるのかも…
役者さんが素晴らしいから映画でも伝わるかな?!
にしても真木よう子さんはスタイル抜群ですね。
尾崎役の人はイケメンなのに余り見かけないなー
幸せになるのが怖いって気持ちは私にもわかるけどな…
一緒に不幸になるという、幸せ。心がざわつく映画。
心の傷は、他人との境界線を生む。
まるでチョークで白い線が引かれてるみたいに、そこを境に「あっち側」と「こっち側」とで違う世界が存在する。
夏美(真木よう子)は自分を理解してくれるこっち側の人間を、ずっと探していた。探しあてたと思った男に殻の裂け目を見せれば、そこに唾を吐かれる。当然、境界線は太く濃くなる。
そして、やっと巡り会えたこっち側の人間は、自分に傷を負わせた男:尾崎(大西信満)だったという皮肉。
一緒に不幸になるという、幸せ。
許せない。憎い。セックスしたい。愛している。
こんな感情が一度に溢れたら、もう逃げるしかない。
激しく混乱する。心がざわつく。
けれど、尾崎が自分の罪と向き合い、償おうとする、その神がかった抱擁力に感動する。ような錯覚に陥る。
けど、こんな男と一緒にいちゃいけないよ。
あり得ない世界の終わりみたいなふたり。でも彼(加害者)は、すべてを...
あり得ない世界の終わりみたいなふたり。でも彼(加害者)は、すべてを捨てて彼女に償う人生を選んだわけで、レイプも集団の中での抗えない辛さも感じて、つらい話だった。
けど、未来を感じさせる匂いがあり、気持ちは整理ができた素敵な映画でした。
「幸せ」?「不幸せ」?
まだ胃の中に留まってる。レイプという「罪」を共有してはいるけど男女でその保存フォルダが間逆。罪のせいで苦しみ続けた女と罪を抱える苦しみを持つ男。奇しくも再び出会った2人。女は男を許さない為に常にレイプの過去を持ったまま暮らし、男は罪滅ぼしの為に女に従い暮らす。全ては互いの「不幸」のために。
あくまで男の立場からしか物申すことは出来ないが、男は弱い。すぐに情が移る。だから、男は最後女と「幸せ」になることを夢見てしまう。おそらく女はそれを察してしまい「幸せ」を受け入れることが出来ずに「さよなら」を告げたのであろう。
あと、ラスト直前に大森南朋の夫婦が、それまで喧嘩ばかりしていたのに、2人の夫婦の愛を確かめるシーンが入る。素晴らしい対比だなと。お互いの「幸せ」を望んで結ばれたからこそのシーン。
この辺がすごく良かったのかなと。
『さよなら渓谷』を観て“呪い”とどう向き合うかについて考えた話
決して愉快な話じゃなく、泣けるでなく、生きるチカラが湧いてくるお話でもないですよ。
それは間違いないんですけども、なんだか観終わった後に、いっぱい宿題を出されたような気分になりました。それを自分なりに答え合わせするために、これから何度か観返さなきゃいけないんだろうなと思います。もうちょっと仕事のヤマ場を越えてアタマに余裕ができたら、ちゃんと考えて、改めて感想書きたいなぁと思うんですけども。
僕はこの映画、“呪い”とどう向き合うかのお話だと思いました。
“呪い”っていうと、オカルトが思い浮かんじゃいますけど、そういう怨念とか恨みとかが、超常現象的に誰かに降りかかるというものじゃあないんです。
この映画での“呪い”とは、「レイプという事実」のことですね。
「レイプという事件」は、法的な処罰とか補償で決着はつけられるものなんですけど、「レイプという事実」は被害者でも、加害者でも、法律でも、誰かの死をもってしても、どうしようもなく消えずにつきまといます。被害者が許す・許さない、加害者が償う・償わないにとどまらず、当事者が関わる人たちにも降りかかるものとして、苦悩や偏見や、時には暴力に姿を変えながら拡散していきます。その“どうしようもなさ”と戦うのか、受け入れるのか、放り出すのか。そういうことを考えさせられた映画でした。
レイプをしたこともない、されたこともない僕には、「あぁ、被害者はかわいそうだね。加害者はヒドいね。」以外の立場を許されないような気もしますし、もっと言えば「被害者をかわいそうって思うのは、レイプ被害者を見下しているんじゃないか」って思っちゃう側面もあって、思考停止しちゃいそうなんですけど、そんなんだったらこの映画を観る意味がないし、この映画が作られる意義もなくなっちゃいますよね。
だからもっと普遍的な意味で“呪い”が自分に振りかかったとき、どう向き合うか。それを考えるキッカケになる「良薬は口に苦し系」の映画だったと思います。
僕にとって秀逸だったのは、ラストシーン。
大森南朋が大西信満に、ある質問をします。その回答が観客に委ねられるようなカタチで映画は終わるんですけど、「A or B ?」で考えたら負けだと思いました。
「はぁ?てめぇ、わかったような顔して全然わかってねぇな!」
と、僕が大西信満だったら答えるような気がします。
「A or B ?」って質問すること自体、質問されることそのものが、“呪い”なんだなぁとゾッとしましたよ。
不幸の共有
レイプされたことから始まった不幸。加害者にとって何をすることが不幸以下なのか?被害者であるかなこは一緒に生活し身体を重ねることを選択する。加害者の俊介にとっても思い出したくない過去となっているだけに、それが不幸の共有に。
始めは上着をかけられることさえ拒んでいたかなこが時間が経過すると受け入れていた姿や、ビールを注いでもらっていた姿がとても印象的だった。
結果的に、俊介を警察に突き出してしまうのだけど、ここの解釈の正解はひとつではないと思う。
また別の事件から二人に関わることになったマスコミの渡辺も私生活では妻とうまくいっておらず、レイプの被害者と加害者がうまく生活している姿に自分を重ねてしまう状況が比較の対象として斬新だった。
最後のシーンで、俊介が「さよなら」の一言だけの手紙でかなこが出て行ったと話す。
これは、一歩違えば出て行ったのは渡辺の妻だったのだろう。
とても難しい内容だったので、自分勝手なレビューに。ごめんなさい。
もっと語って欲しかった
いきなり真木よう子の肢体むき出しのセックスのシーン。いつ終わるのかと思うほどに長い。「女優の体当たり演技」的なキャッチコピーが頭の中をちらつく。
彼女の過去が少しずつ明らかになることよりも、レイプした男とされた女が、なぜ今離れることが出来ずに一緒に暮らしているのか。この点をもっと語って欲しかった。
憎しみの究極のかたち
レイプ被害者と加害者が、一見仲良く、一緒に暮らしている、その心模様を掘り下げた映画。
端的に言うと、不幸を追い求めているんです、彼らは。被害者なのに、そのせいで負のスパイラルに陥ってきた彼女。加害者なのに立派に就職し、彼女もできてうまくいっている彼。その二人が出会ったとき、当然罵る彼女と、何も言えない彼、そして不幸になるために一緒に暮らす、という話。
邦画独特のあの雰囲気、BGMやセリフが少なくて、季節や自然の音をメインに、表情や佇まいで魅せる、そういうのがぴったりな映画でした。
タイトルのさよなら渓谷は、つまりは幸せになりそうだから、のさよならなんです。でもついてこい、と。
死んで楽になるのなら、一生つきまとってでも不幸にしてやる、という彼女の憎悪は激しくて、それでももう彼しかいないというもの悲しい、あれは愛というのか、そういう貪るような無言のSEXも印象的でした。
人間は複雑で、当たり前なんて実はごく一部のパターンなんじゃないかって思います。
憎悪が行き過ぎて愛になるなんて普通あり得ないと思いますけど、心の動きは妙に納得感があり。
それにしても、レイプはやっぱり残酷な犯罪だなあって再認しました。今回の題材は集団レイプですから、よりひどい。
暴力や詐欺なんかより、殺人に次ぐくらいの重たい犯罪だと思うのですが、社会的制裁を受けない男たちに全く憤りを感じます。
きっと、憎悪と愛の微妙な境目みたいなものを表現したかったのだと思うので、派手さはありません。淡々と進みます。ただもっともっと、女性のもつ本質的な憎しみを表に出してもよいかな、と。若干まだ男よりで、その辺り犯罪の重大性が少し薄らいでしまってたかなって思います。
でも自分は、こういう映画結構好きです。また一つ、人生経験が増えた気がします。
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