とても静かな、そして奇妙な映画だ。多くの「震災映画」は、物理的な事実を生々しく描き出そうとした。その一方で本作は、物語のヒロインにとっての事実、心の中で起こった事柄を丁寧にすくい上げ、観る者の記憶に留めようとする。彼女の同僚が、震災後も淡々と日常を続けていることへの違和感を口にする。けれどもスクリーンの前にいる私には、彼女たちさえも日常から遠く見えた。震災の起きた世界、彼女たちのいる世界、私たちがいる世界。それはすべて異次元でパラレルに存在しながらも、ときに重なり合い、すれ違う。
物語の辻褄はきちんと合っている。けれども、現実と虚構の境界はあいまいで、互いに侵食し合う。特に印象的なのは、ヒロインの部屋に貼られた青空のポスターだ。あるものを覆い隠すために貼られているそれは、時に本当の空のように映り、時に書き割りのように薄っぺらく見えた。そして、パーティー中に彼女にだけ散りかかる、桜の花びら。けれん味がありすぎるようにも感じたが、彼女にはそれが必要だったのだ。「あり得ない」あれこれが、不思議に現実みがある。彼女が夢で逢う恋人は、ある意味彼女と本当に出会い、言葉を交わしたのかもしれない。
もしかすると、この物語は、目覚めぬ者の見た幻、願望なのだろうか。恋人は死んでおり、ヒロインも命を落としたか、昏睡しているのかもしれない。そもそも、彼女たちは、誰ひとり実在しないのかもしれない。彼女たちは、どこかフワフワとしている。(私自身、震災をきっかけに、こうして日々を過ごしているのは夢で、本当の自分はどこかに横たわっているのでは、いつか醒める夢なのでは、という思いに時々囚われる。)
現実かそうでないかは、大した意味を持たない。誰かにとっての真実にふれることが大切であり、今の私たちに必要なのだ。不穏さ、引っかかり、違和感。それらを抱え、私たちは生きていく。