「ストーリーに乗り切れず、そんなに涙を流さないで見終えてしまいました。」劇場版 あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
ストーリーに乗り切れず、そんなに涙を流さないで見終えてしまいました。
半分は使い回しのテレビ版の総集編のような構成。“めんま”が死んでしまった事故と“超平和バスターズ”のメンバーとの関連が掴めないなど、現在のシーンから頻繁に切り換えられる、“めんま”が生きていた頃の過去との つながりがわかりづらいのです。そのためか、ストーリーに乗り切れず、そんなに涙を流さないで見終えてしまいました。
但し、テレビ版を見ていた人には、いい補完になっていたようです。テレビ版では辛いシーンも多々ありましたが、終了時から1年後の現在を描く本作では、気分をほっこりさせるエピソードが効いていたのではないでしょうか。
始めて見る人も全編に流れるみずみずしさ、常に自然に囲まれた森やせせらぎの精緻な描写に癒されると思います。また人はいくつになっても、少年時代の楽しかった思い出というのは、忘れがたいものではないでしょうか。多忙な日常を送っているなかで、あとこの作品に触れると、忘れかけていた童心に立ち返って、作品と同じように、昔一緒に遊んだ、あの子達は今どうしているのかなと思い起こされることでしょう。
きっと、この作品がツボにはまるとしたら、映画『ももへの手紙』のように、大切な人と死別してしまった人なんだろうと思います。メールで突然そういう人から、切ない気持ちの相談にのることが多いので余計に感じます。そういう人は、決まって、どうしても伝えておきたかったという後悔は残るものです。それと亡くなった人の生まれ変わりを強く信じています。そういう人の願いに応えるかのように、本作は人の「死」というものをポジティブ捉えていました。何よりも、人の「死」が終わりではなく、生まれ変わって続いていくものだということが、大前提になっているのです。
“めんま”も不成仏霊のように復活し、リーダー役だった仁太に纏わりつくかのように寄り添うのです。ある目的の為に。けれども大好きな仲間たちとまたこの世で出会うことも願っていた“め『マン・オブ・スティール』3Dんま”は、「目的」が達成した瞬間に、“じょうぶつ”(^^ゞし、帰天していくのです。次の人生が待っているから、絶対に生まれ変わってくるから、天国に行ってくるという“めんま”の考え方は、凄く「死」という無常をポジティブに受け流しているのではないでしょうか。
ここまで書くと“めんま”が復活してきた「目的」というのが気になるでしょう。それは、仁太が母親とも死別を経験し、大好きだった“めんま”も失って、すっかり悲しみという感情を封印してしまったこと。母親の依頼で、封印した感情を解放してあげて、思いっきり泣いていいよと、赦しを与えることだったのです。
死んだ人にとって気になるのは、地上に残してきた縁のある人がキチンと生活しているかどうかということです。“めんま”が“じょうぶつ”できなかったのも、仁太のことが心配でならなかったから。逆に言えば、亡くなった人の最高の供養というのは、何もお寺で高額のお布施をし、有り難い法名をつけてもらうのではないのです。自分を供養し、迷ったり、悲しんだりしないで、力強く日々の日常を生抜いている姿を見せて安心させてあげることが供養になるのです。
作中では彼女を型通りの幽霊のように描写することは避けられており、生きた人間と変わらず振る舞う姿には、ちょっと疑問でしたが、それが本作のウリりところなんで大目に見ましょう(^^ゞ
最後に、エンドロール後にタイトルに繋がる“あの花”が描かれます。重要シーンなので、最後までお席を立たないように。