「常識(社会)に対する否定と肯定を快活に内包している映画」中学生円山 坂月 行雲さんの映画レビュー(感想・評価)
常識(社会)に対する否定と肯定を快活に内包している映画
色々と考えさせられるよい映画だった。
下記からは、「常識」という言葉をかなり広義な意味で使用する。曖昧な感想文になってしまうかもしれない。
草薙剛演ずるシングルマザーのキャラクタ(下井)にスポットを当ててみると、この作品は面白くなる。
なぜ人を殺してはいけないのか。
幾度かその問が劇中で出てくるが、それはただ「常識」で規定されているからであるという答えしか出てこない。
しかし下井はそれを飛び越え、「自分で考え、殺してもいいと思っているから人を殺めている」状態である。芯を持ち、ことをなしているのである。
円山と下井が関係を持ちだした時、円山は自分の妄想を嬉々として下井に伝えるのだが、「妄想は妄想だし、どうせ……」という側面も持っていた。
当の下井は本気で円山の妄想に取り組もうとしていた。
「妄想は妄想でしかなく、現実にならない。くだらないもの」というのは、社会からわりふられたただの通俗的な観念でしかないということを踏破しようとしていたのだ。
「妄想が現実を超える」と言っていたのは、自分で勝手に規定しているものと、常識を振り払ってみろ、ということであるという円山へのメッセージである。
「自分で考えて生きる」ということが大切なことであると、かなり抽象的にではあるが、円山にも言っている。そしてその生き様も、散々描写されている(ゴミの分別を始めとする周辺の治安維持がその例)。
円山は下井の生きる姿勢に、今までの誤解を改めるようになるが、そういった描写が具体的にされていないのがみそである。ほとんど抽象的に描かれているのである。
円山が突然人前でパンツを脱いで成し遂げようとしていたセルフフェ○を実行する。ここが下井の思想を円山が受け継いだ瞬間である。つまり自分で考えて行動し、常識を振り払った瞬間である。人前で裸になっちゃいけないって誰が決めた? 今すぐセルフフェ○したいんだ! っていう考えに身を任せたのだ。
劇中ではいくつかの妄想が展開されつつ、最終的に現実の中で「中学生円山」という妄想を現実にしてヤクザと戦う。ここに本作中の一つの到達点がある。つまり実際に「妄想が現実を超えた」のだ。
最後に下井は撃たれて死ぬが、特に哀愁など帯びず、全く悲しむような描写がないのは、「死ぬことが悲しい」なんてことも忘れるくらいに常識から振りほどかれていたからにほかならない。常識を超えて、妄想で現実を超えたのだから。
その上で「チン○に舌が届いた」ってことを報告する。重大なのだ。常識上ではばかみたいなものであっても、彼らにとっては今生の別れとしてふさわしい互いにとっての大切な合言葉であったということだ。
二人の見えない絆を表す素晴らしいシーンだった。
最後のほうで「なぜ人を殺しちゃいけないか、説明できる人間が正義」といったような円山の台詞がある。
この台詞が言っているのは、つまり、「自分で考えて、自分の考えに従って生きることが正義(あるいは最も自分らしく生きる方法)」ということであろう。常識をそのまま許容するべきじゃないってことだ。
笑顔で、バイクの駐車を注意する最後の円山は、今後そういう姿勢を持って生きる……まるで下井の意思を継ぐように、という姿で、とてもよい幕引きだった。
一方で、妄想なんてしなくても、そして常識の中で生きていても、案外この世界は面白いんじゃないか、というのも、団地に住む個性豊かな人間からメッセージとして伝えられてくる(妄想と交互に展開する辺り、そういった意図があったのではないか)。
特に円山の一番身近な存在である家族が、円山の知らない所で、ドラマティックなことを様々となしている。母親は元韓流スターと一悶着あったり、妹は認知症の爺さんと付き合ったり。
多分、この映画は見る人が見ればくだらないギャグっぽい映画にしか見えないが、一方で様々なメッセージを内包していると、私は思った。
前半は笑って見ていたが、後半は真剣に考えながらみていた自分がいた。