菖蒲のレビュー・感想・評価
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撮影監督へ捧げるアンジェイ・ワイダ監督作
アンジェイ・ワイダ監督による「①実際に映画出演する俳優の事情を描いた場面」と「②その俳優を使ってアンジェイ・ワンダが撮影している風景」と「③映画として完成した本編」の3つの側面をパラレルに描いた独創的な映画。
こんな構成の映画は、なかなか無い。
観終わって、私も完全に頭の中が整理できたか?…というと微妙ではあるが、注意しながら観たので、それなりに不思議な感覚を受けた。
また、本作に何度となく「川の水面を映した場面」が出てくるが、これらのシーンは「人生(時の流れ)は、川の流れのように流れて、いつか終わるのだ」という「死のイメージ」をアンジェイ・ワイダ監督が伝えたかった気がした。
本作は、一人の女性を捉えた場面から始まるが、「この映画は去年撮るはずだった。ワイダから言われたが、撮影監督の夫の病状を考えると…」と言っている女性は、ワイダ監督から映画出演のオファーを受けた女優なんだ、と思える不思議な長回しから始まる。
そして、その女性(=女優)とアンジェイ・ワイダ監督が撮影現場でのやりとり場面が映る。
更に、「映画本編シーン」になっていく。とてもスムーズに。
実際の出演女優(クリスティナ・ヤンダ)の夫は病死して、映画本編では医者の夫が診察した妻(クリスティナ・ヤンダ)の命が残り少ないことを知る。医者夫妻の息子達もワルシャワ蜂起で死亡して、クリスティナ・ヤンダと出会った若い青年も川で溺れて……と、全体的に死を意識した物語。
そんな中、クリスティナ・ヤンダが読書しない若者から「何を読んだかいいか分からないので教えて欲しい」というと、女性が差し出した本は「灰とダイヤモンド」www
この映画、エンディングで「エドヴァルド・クウォシンスキに捧げる」という文字が出る。
アンジェイ・ワイダ監督が撮影監督に捧げた映画だったのだ…と分かる。
そうした気持ちが全編に漂っている佳作であった。
人生の終焉に対する決意
『カティンの森』で巨匠健在を見せつけた、アンジェイ・ワイダの最新作。
たった2回だけの特別上映に駆け付ける。
個人的には高い評価を受けた『カティン…』だが、昔からのファンとしては納得のいかない内容だった。
だから不安を抱えての鑑賞でした。
映画は、いきなり物凄く長いワンシーンワンカットによる独白から、スタートする。カメラは一切動かずに、対象となる女優1人が画面を行ったり来たりする。およそ10分に及ぶ長廻しだ。
この時字幕で、「K・ヤンダ…」云々と表示された瞬間…気が付いた。
「クリスティナ・ヤンダだ!」
『大理石の男』と『鉄の男』でポーランドに、言わば革命をもたらした人と言って良いのかも知れない。
実に30年振りに彼女を観た。
当時と比べて体系は変わり。あの当時の人を射抜く様な鋭い目線は、歳を取った事で丸くなったのか、薄れていた。それでも眼を見れば彼女と解るのが懐かしい。
映画は、アンジェイ・ワイダの新作に出演する彼女と。彼女の私生活上に起こった出来事を、どこまでが映画で、どこからかが私生活なのか?が、終盤に至るまで読み切れ無い。極めて刺激的な内容になっていた。
それまで、若いイケメンに夢中になって行く彼女の姿を見たら、幾ら映画だからとは言え「おいおい!」と思ってしまう。
元々は「菖蒲」と言う、どこか死のイメージが付き纏う小説の映画化があり。そこにクリスティナ・ヤンダ本人による私生活での、夫との悲しい日々の回顧が重なり合っているらしい。
冒頭と中盤での彼女の長い独白は、夫に対する鎮魂歌であり。原作と彼女の私生活を綴った内容を伴う映画本編は、アンジェイ・ワイダが今後迎える人生の終盤に向けての、《死》に対して向き合う決意の一環の様な気がしてならない。
ところで映画本編でのクリスティナ・ヤンダとイケメン男子による、やり取りの若々しさは一体全体何だ!
この巨匠まだまだ全く枯れちゃ〜いない。
『カティン…』の時の、映像の覇気の無さは影を薄め、寧ろデビュー作の『世代』から『灰とダイヤモンド』の頃の、映像の若々しさを取り戻し。不思議なデカダンスをも醸し出していた中期の傑作群『すべて売り物』:『戦いのあとの風景』:『約束の土地』:『白樺の林』と言った作品に重なる、《死への誘い》へのアプローチも相変わらず続いている。
おそらく一般公開は難しいかも知れない。娯楽性とは全く無縁だし、※1 『カティン…』の様な歴史的な背景すら無い。
一見すると、どう見ても若いイケメンにとち狂った叔母さんの話にしか見えないのは、明らかに損をしている。
でも声を出して言いたい。これはアンジェイ・ワイダの作品歴の中でも、極めて重要な位置に在るかも知れないし、まだ完全には理解出来ていないのですが、傑作かも知れませんよ…と。
※1 その後岩波ホールで公開される
(2010年6月2日国立近代美術館フィルムセンター大ホール)
虚と実に通底する愛と死
もしも、主演女優の夫の病状悪化という事情がなかったら、原作小説に沿ったオーソドックスな文芸ドラマになったんだろう。
しかし、監督のアンジェイ・ワイダが出演依頼した、そのタイミングでマルタ役クリスティナ・ヤンダの夫のガンの転移が発覚する。
彼女にとって夫の状態は勿論気になるが、女優としてはアンジェイ・ワイダの仕事を断りたくはなかっただろう。
彼女はこの仕事を心が引き裂かれる思いで引き受けたに違いない。
それを身近で見ていた監督はこう考えたのだろう。
これこそ、“愛と死のドラマ”だ、と。
こうして本作は、マルタの物語とクリスティナの物語は彼女自身のモノローグによって、交互に語られるという斬新な構成になっている。
この世界的巨匠の柔軟な試みにも驚かされるが、少し皮肉に感じるのは、マルタの物語をクリスティナの真実の物語が圧倒してしまっているところか。
夫が亡くなったその日にも舞台に立ったという彼女のモノローグは、
「私はなぜあの日舞台に立てたんだろう?」という言葉で終わっているが、それは、愛する人の死までも映画にしてしまったという自身の女優の業に対しての自戒の言葉にも聞こえた。
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