「志の高さを評価したい」クラウド アトラス moviebuffさんの映画レビュー(感想・評価)
志の高さを評価したい
最近の大作SFやアクションは何せ志が低い。トータル・リコールのリメイクにしろ、トロン・レガシーにしろ、「あ、すげー、俺マトリックスみたいな絵が撮れたわ!」という声が監督から聞こえてきそうだ。映画ファンがyoutubeに自主映画をアップするようなノリで、大作映画の監督を恥ずかしげもなくしてしまうのは、プロとしてどうなんだ?と思う今日このごろ。
で、そのマトリックスを作った本人達のウォシャウスキー兄弟とラン・ローラ・ランの監督が久しぶりに撮ったSF。フォロワー達の映画とは対照的に、非常に志の高い映画となっている。
フォロワーが表層的なレベルでマトリックスをコピーしている間も、「マトリックス的表現」にとどまらずに、新しい表現を模索し続けているのがわかる作品になっているからだ。今回の場合、明らかにそれがはっきりしているのは、物語の構成だろう。
映画のストーリーは時代設定が違う6つのエピソードなので、それぞれの時代の世界観の説明にはもちろん時間はかかる。でも、物語が同時並行で進んでもそんなに混乱がない。なぜなら、各メインキャラクターは、共通した葛藤を持っているから。
例えて言うならば、「穴に落ちてしまって追いつめられている、あるいは自分が穴の中にいることを知ってしまう(社会や既存の倫理観、物理的環境等、様々な事情による束縛)」から始まり、そして「どうやればその穴から抜け出るか試行錯誤する(束縛からの解放・自由を求める)」という物語運びになっている点で共通している。
そう考えれば、なぜ、各エピソードのキャラクターの抱えている問題が異なるにもかかわらず、それぞれの危機的状況や感情の流れがシンクロしていて、見ている側が混乱しないかがわかってくる。基本的に全ての物語が同じ方向性を持っているのだ。
「自分が穴にいる事に気づく」→「穴から出ようとする」。考えてみれば、「マトリックス」という映画もこの構成に見事に当てはまる映画だったと言える。そういう点では、ウォシャウスキー兄弟はブレていない。ちゃんと自分たちの語りたいテーマを語れている。「カンフーでスローモーションでアクション映画を撮りたい」とか言って表層的な部分だけで、「マトリックス」という映画が構成されているわけではないのだ。
ちなみに、映画の特色である、多くの登場人物が異なる場所で物語を進めながら、実はつながっているという構成、これ自体は「クラッシュ」や「バベル」等、近年よくある。だが、先に上げたその「クラッシュ」や「バベル」、実は「人と人とがつながっている」必然性が薄くないだろうか?
すごーく大雑把に言うと、それらの映画は「出会った人それぞれに、それぞれの人生の物語がある。みんな違う孤独や痛み・差別・偏見を抱えている。そんな孤独な魂達が人生のある一時だけ交差する。」そういう物語だ。でも、それって結局、「みんなつらいよねー。」しか言ってなくね?そんなとこでつながっても・・。
ひょっとしたら上記の二作はむしろ「魂の孤独」を強調したかったのだろうか?「人って結局周りに人がたくさんいても一人。差別とか悩みなんて人それぞれ立場違うし。寂しいよねー。」みたいな。だったらなおさら、そんな事最初から言われんくても、わかっとるわ、っていう感じだが・・。
いずれにしても、それらの作品と比べるとクラウド・アトラスにはもっと肯定的なメッセージがある。もっと人と人がつながる必然性のある物語になっている。その鍵になるのが、人が表現すること・芸術を生み出す事への希望だ。
映画の中では、クラウドアトラスという楽曲が、ある人の日記や手紙、小説や映画そして言葉が、本人が亡くなっても残り、他の人の心を動かし、人生を変えていく。人々が残していった様々な表現を介して、人と人が時代や場所を超えて繋がっていく。その大きな流れこそ、別の形での輪廻転生であり、「なぜ人は芸術を作るのか」という事への解答になりえている。(逆に言うと、そこで十分に感動的なので、デジャヴュ等、宗教的な意味での輪廻転生を思わせる内容はもう少し抑えても良かったかもしれない。ウォシャウスキー兄弟は禅や仏教にも関心があるようだが、逆にアジア人の自分からすると、いかにも西洋人のニューエイジ的な東洋の神秘性に対する過度の憧れの様なものを感じ取って冷めてしまう。)
この映画の欠点を述べるなら、(アメリカではもっとセンシティブな問題のはずの)人種の描き方だ。輪廻転生の話だから、もちろんさまざまな時代で違う人種に同じ人の魂が移っていくというのはわかる。でも、特殊メイクで白人が黄色人種をやるのはともかく、その描き方・・。黄色人種=全員一重まぶたってどうよ?あれは未来のエピソードだから、もしかして、黄色人種じゃなくてミュータントか何かなのか?黒人の役者は黒人のまま一重だったし・・。まあ、じゃあ仮にそうだとして、19世紀のエピソードの、ペ・ドゥナの白人はどうなのよ?まさかの「鼻を高くして、そばかすメイクしてカラコンつければ白人じゃね?」って、吉本のコントか!骨格の違いとかなんで考慮しないの?意図的なのか意図的じゃないのかはっきりしてほしい・・。今のCGのレベルなら、「ベンジャミンバトン」みたいに特殊メイク+CGとかも出来ると思うんですが・・。顔が気になってストーリーの邪魔になってるレベルなんですけど・・。この点に関してはウォシャウスキー兄弟の意図を知りたいものだ。
というわけで、クラウドアトラスは決して全てが成功している作品ではないかもしれないが、十分に魅力的な作品だ。音楽がキーな作品なので、近年のSFとは違う趣のサントラも好感が持てるし、(最近のSFとかアクションってダブ・ステップが使われているか、「ヴォーン」ていう重低音でノーランの「インセプション」か「バットマン」のまねをするのが多すぎ・・。)ネオ・ソウルの都市や各キャラクターのコスチューム等のデザインの作りこみ、キャラクターを誘惑する悪魔の造形等、ちりばめられたたくさんの要素の一つずつにこだわりを見る事が出来る。先に挙げた、特殊メイクの問題さえ、好意的に捉えれば、チャレンジした試行錯誤の跡だとも受け止められる。
どうせ映画を作るなら、この映画のテーマとも重なるけど、ずっと人々に語り継がれていくような物を作りたい。この映画がそうなれるかはわからないが、少なくともそういう志を感じさせてくれる映画だと思う。