「6つの時代、一貫するもの」クラウド アトラス f(unction)さんの映画レビュー(感想・評価)
6つの時代、一貫するもの
この映画は、6つの時代の6つの物語をバラバラにして流している。1つずつ、物語を順番に語っていくのではない。1つの物語の途中で別の物語に移り、そのまた途中で別の物語へと移る。(クリストファー・ノーランほどカッチリと拘ってはいないが、『インセプション』の後半をイメージすればいいかも知れない。)そうして1-2-3-4-5-6-1-2-3-……というようようなイメージで物語は終盤へ向かっていく。
6つの時代。
1. 1849年
2. 1931年
3. 1973年
4. 2012年
5. 2144年
6. 文明崩壊から数百年後(Wikipediaによれば2321年)
1,2の主役はイギリス人だ。1は大西洋上を航海する船。2はイギリス本土。3の舞台はアメリカに移り、原発事故の危機をめぐるスキャンダルが描かれる。4はイギリスに戻る。
5は飛んで未来のソウル。(何で韓国へ飛ぶのかわからないが。しかもメイクアップ上の危険性までおかして。)
6は、原始的な生活を送るどこかの島ー。
★1と6を比較した時に気がつくのは、「白人と黒人の立場が逆転している」ということ。1における黒人の扱いは、アメリカにおける奴隷解放宣言(1863年。南北戦争中、リンカーンによる)前。白人に対し、黒人は下位に置かれ、白人>黒人という明確な序列が当然視されていた時代のことだ。(イギリスとアメリカにおける奴隷の扱いにかんする違いは定かではないが、観客のメイン層はアメリカ人として意識されているから、アメリカ人に対して「奴隷解放宣言前だな」と気づかせればそれでよい)
一方、文明崩壊後の世界では、白人達が原始的な生活を送り、ネイティブアメリカンを彷彿とさせるような典型的な野蛮族(映画に登場しがちな、ステレオタイプな蛮族)に狩られる弱者となっている一方で、黒人達は旧文明の技術を保持し、高貴で上流の暮らしを送っている。
1→6のあいだに、白人と黒人との立場がすっかり逆転し、黒人>白人(しかも6の黒人は、白人を虐げることなく、洗練されている)という生活レベルにかんしての逆転が生じているのだ。(文明崩壊のさなか、なぜ・どのようにこうした人種のふるいわけが生じたのかは気にしない)
・・・
この映画が語る6つの物語に一貫するのは、「弱者救済」「因果応報」「輪廻転生」「魂の一貫性」とでも言うべきものごとだろうか。
1で虐げられていた黒人が、6では優位に立っている。これは弱者救済と呼ばれるべきだろうか。
他のストーリーを各々見ていくと、2は(いわゆる)同性愛者の主人公の悲劇。彼が明確に救済された描写はないが、とりあえず弱者を主人公に据えたことだけは確認しておく。(そして彼は、後世に残る偉大な作品を残したとされている)
3の主人公は老人。弱者は弱者。うーむ。癒しパートではあるが、ネタがなくて補挿されたようなテーマだ。
4は原発事故をめぐるスキャンダルだが、黒人を主役に据え、巨大企業と権力に立ち向かう弱き個人をテーマにしている。
5の主人公は、クローン人間。『ブレードランナー2049』に登場するようなアンドロイドをイメージすればいい。彼らは人間間の貧富の差を解決するため、「より下位」の存在として作り置かれた。現実に社会的課題となっている人工知能の導入を、クローン人間に置き換えればよい。これは明確に弱者であるし、切に迫った問題と言える。
6の主人公は、その時代における弱者だ。1においては優位な白人であるが、文明崩壊後は最下層に置かれる。
以上のように、各々の時代に「弱者」を配した『クラウド・アトラス』は、その時代において報われなかったものには後の時代に報いを与える。その時代において弱者を虐げている人間には、後の時代において罰を与えている。こういう「因果応報」のルールが(ゆるく)適用された。
それを実現するのに、「転生」というシステムを導入。6つの物語は各々時代が異なるが、異なる人物群を、同じ演者群によって演じさせ、「転生」をイメージさせた。そして、前世で悪行を働いた人物を堕とし、前世における弱者に報いを与えた。
悪しき魂を有する人物は一貫して悪しく、高潔な魂を有する人物は一貫して善い。(手塚治虫『火の鳥』を連想させるシステムだ)
のだが、トム・ハンクス演じる人物だけは、時代を通じて善行と欲望の誘惑とのあいだを彷徨っている。善悪のあいだで揺れる彼の終末がどのように導かれるか、ということが、1つの注目ポイントだ。
また、ハル・ベリー演じる登場人物を見ると、(1931年はさておき)1973年と2321年における勇敢さに「魂の高潔さ」の一貫性を感じる。(またその高潔さゆえに「アセンション」したのだろうか、という考えにも及ぶ)
1849年において奴隷救済の志を抱く高潔なカップル2人が、2144年においても結ばれ、共に奴隷解放のため立ち上がるという点(オチ)も面白い。(ただしメイクアップのわかりにくさは、多くの人々によって批判に晒されているであろうことが想像できる通りに、難点だ。もったいない。舞台設定に関する製作秘話的なものの公開が求められる。)
対してヒューゴ・ヴィーウィングは1849年、1973年、2012年、2144年と一貫して権力側の立場にあって弱いものを虐げる人間として登場する。(ウォシャウスキー姉妹監督『マトリックス』、エージェント・スミスよろしく)(なんで『ロード・オブ・ザ・リング』のエルロンドと、まったく性格の違う配役なんだろうか)
ヒュー・グラント演ずる人物も、一貫して強欲で下衆な俗物だ。