無法松の一生(1958)のレビュー・感想・評価
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身分の違いが綾を成す。純情男の凄絶なまでの片想い。
午前十時の映画祭12にて。
14年を隔てて制作・公開された、稲垣浩監督執念のセルフリメイク。
製作会社が東宝に変わり、三船敏郎と高峯秀子というスターが主演したことが、この映画の完成度を高めたと思う。
撮影時、三船敏郎は30代後半、高峯秀子は30代前半だったはず。二人とも老け役に挑んでいるが、特に年老いた三船敏郎には堪らない哀愁が漂う。
三船敏郎は本作でも秀でた身体能力を発揮していて、人力車を引いて走る姿は軽やかで力強く、太鼓のバチ捌きは見事としか言いようがない。
高峯秀子は変幻自在の役者だから、三船敏郎とは対極の演技スタイルと言える。本作の彼女は清楚な未亡人で、物語の進行に沿って歳をとっていくのに、逆にどんどん可愛く見えてくる。これは、一目惚れ段階から時とともに片想いを募らせて苦悩するに至るまでの、松五郎の心の動きに共鳴した者こその見え方だろうか。
この映画は、始まるやカメラが効果的に移動する。日本家屋の構造を活かして人物を俯瞰で追う構図など、スケールの大きな演出が見られる。
芝居小屋の枡席での大立回りでは、枡を仕切る木枠が張られた不安定な足場で役者たちが入り乱れるアクションの振り付けがダイナミックだ。三船敏郎が、ガードポジションからの三角絞めという総合格闘技の技術を見せているのには驚いた。
やはり、オリジナルの坂東妻三郎主演版でカットされたという、居酒屋で美人画の広告ポスターをもらうエピソード、未亡人への告白、そして雪上での松五郎の最期、これらがあってこそラストシーンが涙を誘うのだった。
しがない俥引きの自分を自宅に招いて酒を酌み交わしてくれた吉岡大尉が急逝し、残された妻子を陰ひなたとなって守ってきた松五郎の原動力は、未亡人への一途な想いだ。
ボンが青年に成長し、自分の存在意義が薄れかけていた松五郎には、未亡人宅に数日滞在するボンの恩師の出現は脅威だったろう。未亡人は生涯未亡人のままで、自分は近くから見守っていられればよかった。が、その関係が崩されるかもしれないと勝手に怯えたのだ。
そして、抑えきれない自分を恥じて、大尉の遺影に詫びる。その思い詰めた松五郎には未亡人も怯むほどだった。
松五郎の想いに未亡人が気づいていないはずはない。だが、彼はその想いに蓋をしたまま献身的に自分達母子に尽くしてくれるものと考えている。そこには身分の違いが当然のように介在するからだ。未亡人に差別意識が強いのではなく、それが当然の時代だった。
自分の恋慕は汚れた想いだと自分を責める松五郎が切ない。
彼の死を知り、彼が残したものを見て涙する未亡人の胸に去来するものは何だろうか。
松五郎に対する感謝だろうか、それとも彼の想いを知りつつ寄り添うことをしなかったことの後悔だろうか…。
伊丹万作が自らメガホンを取れなかった無念も、このリメイクで晴らせたのではないだろうか。
本作の成功を受けてか、大映は伊丹万作の脚本を三隅研次監督で1965年にリメイクしている(未鑑賞)。
せつなかった
ひとり身の末路みたいなお話でつらい。人生の夏の終わりから秋冬まで。
しかも完全な階級社会を描いていて、身分の低い松を奥さんはまるで男として見ない。
自分は結婚なんてすごく嫌だったのだけど、今こうして家族が支えになって楽しい生活を送っており、本当に結婚できてよかった。
最期の場所が。。!
せっかくのリバイバル上映なので見てみました。
松さん、そりゃ切ない気持ちになるよ〜と松さんの気持ちになり辛くなりました。
多分10年くらい、後家の奥さんとその息子に対し、
再婚しないのに男の子の学芸会に奥さんと出席
再婚しないのに庭手入れや鯉のぼりの棒を立てるなど折りに触れ生活をサポートする
再婚しないのに家で一緒に豆まきをする
。。。などなど、公認の恋人や再婚相手がするようなことをさせたままで放置して、いつまでもいつまでも松さんの好意に甘え過ぎじゃない??と後家の奥さんの気持ちがよく分からなくなりました。
何か困ったことがあったらすぐ頼む、すぐ相談するのに将来の夫に願い出るわけでもない。
かといって執事や使用人として正式に雇うわけでもない。勿論食事を出すとか謝礼金とかは
幾つも包んでいたようですが。。
子どもの学校行事に出席するのは一般的に家族しかいません。普通は父母、忙しいとか片親なら祖父母が普通です。親戚のおじさんですら、甥っ子の授業参観、学芸会には普通は行かないと思います。友人達から「おい、親父から声かけられたぞ~」って囃し立てられるのも無理ないです。
夫の死後、家のことが落ち着くまで2〜3か月程度何か助けてもらうくらいなら分かりますが、
小学1年くらいの息子が高校生くらいまでずーーーっと10年くらいは息子の成長も見守り銭湯にも行く喧嘩にも助けに馳せ参じてくれた人に
「これからは息子のこと、ぼんぼんじゃなく○○さんと呼んでください」って。。。
松さんの立ち位置、それじゃ使用人だよ!下男だよ!!何でそんな仕打ちするの?それならもっとずっと早い段階で頼るの止めときなよ奥さん!!!
。。。と、松さんにかなり同情しました。。。
小学校を卒業出来なかった松さんが、いつも小学校に足を運び、最期の時には小学校の敷地で倒れて亡くなるというのがなんとも。。なんとも切ない無法松の一生でした。
彼には大人になってからでも勉強と、そして元の旦那さんの死後せめて4〜5年後くらいには正式に奥さんと結婚してほしかったです。婿であの家はそのままでも彼は受け入れたと思います。
息子の学校行事をはじめ、小学校からずーーーーっと息子の成長を本当に見守っていた彼の父親は松さんだったと思います。
リバイバルのおかげでこういう作品が昔あったことを知ることが出来たことは、良かったです。
葛飾の欠落した『男はつらいよ』
無教養で豪放磊落だが人当たりと心意気の良さは一級品、しかし一方で意中の女性にはめっぽう押しが弱い、という松五郎を見ていて、私は思わず『男はつらいよ』の車寅次郎のことを思い出した。おそらく山田洋次も本作を踏まえたうえで『男はつらいよ』シリーズを制作していたと思う。
しかし松五郎は寅次郎とは違い、己のメンタルを支えるセーフティネットとしての家族や故郷を有していない。悩みや行き詰まりがあったとき「しょうがないんだから」と寄り添ってくれるものが決定的に欠落している。
頼るべきものが何もないが故に松五郎は、寅次郎にはない責任意識のようなものを多分に抱え込むことになる。未亡人に密かな想いを寄せる、というところまでは寅次郎と大差がないが、夭折した彼女の夫への背徳感に精神を食い潰され、「俺の心は汚い!」と懺悔しながら彼女の元から永遠に去ってしまう松五郎の背中には、寅次郎に対しては決して感じたことのない重苦しさがのしかかっていた。思えば松五郎の牽引する人力車というモチーフも、そのまま彼の責任意識の比喩と捉えることができるだろう。
未亡人と永遠の決別を果たした松五郎は、町を飛び出し一人ぼっちで雪道を歩いてゆく。このとき、彼はトレードマークであり責任意識の比喩でもあった人力車を引いておらず、小さなカバンだけを持っていた。
「町を出る」「人力車を置いてくる」という行為によって自己に巣食う責任意識からの脱出を図る松五郎だが、結局どこへも辿り着くことができず、誰にも看取られることなく雪上で絶命する。彼にとって責任意識とはおそらく、逃れるべき仇敵であると同時に、唯一の拠り所でもあったといえるだろう。外部に頼るあてのない人間は、責任意識に基づく自律によって自己存在を保持していくしか生き延びる術がないのだから。
そう考えると『男はつらいよ』はあまりにも救いのない本作に再びハッピーエンドの生を吹き込んでやったものと解釈できるかもしれない。
しかし恐ろしいのは、寅次郎もまた、松五郎と同じ境遇であったならば同様の末路を辿っていたかもしれないということだ。「環境が人の人生を左右する」というありきたりではあるが厳然たるテーゼが、改めて眼前に迫ってくるような息苦しさを覚えた。
純真な愛の物語
第19回ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞作。
DVDで鑑賞。
稲垣浩監督が1943年に製作した同題作品をセルフリメイク。旧作は軍部の検閲により恋愛のシーンを削除させられ、戦後はGHQによって軍国主義を想起させる場面がカットされてしまうと云う憂き目に合いました。その悔しさからリベンジのつもりで製作された背景があるためか、稲垣監督入魂の一作と讃えるに相応しい傑作だと感じました。
松五郎(三船敏郎)の良子(高峰秀子)への想いが切な過ぎて、胸がギュッと掴まれたように痛くなりました。豪放磊落に見えて実は繊細で、人情に厚い人柄に惹かれました。
良子への恋心を自覚し、そんな気持ちを抱いた己を「汚い」と罵り、二度と会おうとしなかった松五郎の心情を思うと、純粋過ぎるが故の男の悲哀に胸が苦しくなりました。
死に様がなんとも物悲しく、良子と敏雄(芥川比呂志)の慟哭に貰い泣きしました。亡くなってから気づく、松五郎の人と成り…。親子への無償の献身に胸が熱くなりました。
※以降の鑑賞記録
2023/03/18:午前十時の映画祭12(4Kデジタルリマスター版)
※修正(2022/12/14)
こんな男を許容する時代の雰囲気
総合:70点 ( ストーリー:70点|キャスト:75点|演出:65点|ビジュアル:70点|音楽:65点 )
おおらかな明治・大正期に、豪快に生きた男の生涯を綴る。自分の思う道を進む彼はもめごとばかり起こす反面、何事にも負けない強さや人の良さを見せて快い男である。こんな男が現在に生きているとうっとおしいかもしれないが、時代のせいか違和感がない。こんな男も許容してしまうという時代の雰囲気がある。
一方で、不幸な家に生まれて教育を受けられずに文字すらも読めないが、子供好きで学校に憧れる姿がだんだんと明かされる。ちゃんとした家で生まれてさえいれば将軍にもなれたかもしれないと言われた大器が、その一生を町のしがない車引きとして伴侶を持つことも無く独り身のままひっそりと生涯を終える。彼の気持ちを斟酌すれば、そのせつない生き方がしんみりと残された。
前半は必ずしも洗練された演技や演出ばかりではなくて、大仰な演出や子役の稚拙な演技もある。でも三船の演じる松五郎の若い前半の豪快さと、歳を経た後半の寂しさが印象に残って、この時代を自分なりに精一杯生きた松五郎の生涯にひきつけられた。
映画の制作も古くて時代背景と大きく離れていないからまだまだ当時の面影を残しているようで、当時の社会における人々の生活が覗けるように思えるのも嬉しい。時々は美術の作り物感が出てしまう場面もあるが、この時代に総天然色で撮影していていい色を出しているのも良い。
物語も映画も、現代とはとても異なる。この時代ならではの日本だしその時代の価値観を反映した作品という感じがする。でもそれだからこの時代のことを垣間見ることが出来て良かったと思える。何度も再映画化されていて、この作品自体も二度目の映画化である。だがもし21世紀の現代で再映画化されても、この作品なみに当時の雰囲気を出すのは難しいのではないかという気がする。
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