ひめゆりの塔(1953)

劇場公開日:1953年1月9日

解説

伊藤武郎の企画でマキノ光雄が製作に当っている。脚本は「おかあさん」の水木洋子が書き監督は「山びこ学校」の今井正、撮影は中尾駿一郎である。出演者の主な人々は、「お茶漬の味」の津島恵子、「モンテンルパの夜は更けて」の香川京子、「生きる」の小田切みき、「芸者ワルツ」の関千恵子、「今日は会社の月給日」の利根はる恵、春日俊二、「泣虫記者」の岡田英次、信欣三その他の助演者たちである。

1953年製作/130分/日本
原題または英題:Monument for the "Lily"Unit,Tragedy of the Okinawa Girl-Students
配給:東映
劇場公開日:1953年1月9日

あらすじ

昭和二十年三月、アメリカ軍の上陸直前の沖縄は、海上からの艦撃と、空からの爆撃と機銃掃射をあびて、死の様相をそなえていた。敗戦への最後のあがきとして、軍は沖縄師範女子部と沖縄県立第一高女の女学生たちまでも、勤労奉仕と称して最前線へかり立てたのだった。胸に白百合と桜の徽章をつけたうら若き乙女たちは、明日の生命もあやぶまれるときに、父母姉妹の肉親たちと別れ、南風原の丘へと行進して行った。そこでは日本軍が、血と泥とにまみれて最後の防戦に奮闘していた。乙女たちは、弾丸運びに、水汲みに、死体運びに、負傷者の手当てに、日夜、かぼそい神経を鞭打って立ち働いた。彼女たちの晴れの卒業式も壕の内部で行われたが、いよいよ激しい敵軍の攻撃に、軍隊はいち早く後退したが、彼女たちには何の保護も与えられず、敵軍の弾丸や機銃にさらされながら大勢の犠牲者を出してからくも後退し軍に追いつくのだった。しかし、狭い沖縄の島は、何処へ行っても今や安全な地点はなく、島から脱出するにしては、最早時期がおくれてしまっていた。敵軍に包囲された島の仲で、難民は右往左往するばかりで、逆上した軍人は、降伏をすすめる敵軍の放送に思わず駆け出す娘を、容赦もなく射ち殺した。かくて、ひめゆり舞台と呼ばれたうら若い乙女の一隊とその教師たちは、次々無惨な死をとげてしまった。

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映画レビュー

4.0 辛い

2025年3月28日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:VOD

泣ける

悲しい

怖い

昭和100年映画祭
YouTubeにて配信(一週間アーカイブ)
東映シアターオンライン

白黒で観づらかったが、カラーだと辛くて観続けられなかったかもしれない。
未来を生きる私は、
米軍に救われた方もいる。だから、自死は選ばないで、
と言いたくなるが、
当時生きていたら、米軍に希望を感じるか?と疑問だろう。

映倫番号 810

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七色姫

5.0 本土決戦とはここにある 本当の反戦映画

2020年9月2日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

さすが今井正監督は実力があります
傑作です

1953年昭和28年1月9日公開
空前の大ヒットを記録し、倒産危機にあった東映を救ったといいます

撮影はその前年の秋から冬頃のはず
敗戦からまだ7年です
撮影されたその1952年の4月28日にサンフランシスコ条約が発効して日本の独立が回復されて、米軍の占領が解かれてまだ半年のこと

沖縄はその中には含まれず、米軍占領下におかれたまま
沖縄が日本に返還されるのは1972年5月
まだ本作から20年もの歳月がかかったのです

今井正監督はご存知の通り日本共産党員で筋金入りの左翼監督で有名です
だから、本作も観るまでは監督の持つイデロギーによるバイアスがかかった左翼的な史観、視線で撮られた作品違いない
反戦を旗印にした、その実は共産主義のプロガパンダであろうという予断を持っていました

間違いでした
本作は1945年3月下旬から6月末にかけて、沖縄に何が起こったのか
沖縄戦とは一体どのようなものであったのか
それを左翼も右翼もなく、客観的に手記などの記録に基づいた事実の映画的な再構成に徹しています
お涙頂戴式の過剰なセンチメンタルな演出もありません
監督の思想信条に基づくバイアスは感じられることは無かったのです

ただあるのは悲惨な沖縄戦の実相
戦闘シーンはありません、米兵も登場しません
しかし恐ろしいほどの迫力とリアリティで彼女達に起こったことを描いています

そして今も昔も、沖縄も本土も変わらない女子高生達の姿
戦闘が始まるまでは、まるで学園もののような普通の女子高生達のキャピキャピとした明るい笑顔です
過酷、悲惨、言葉を尽くしても足らない沖縄戦の現実の中で、それでも彼女達は気を張り詰めて頑張っていながら女子高生なのです
それが監督のメッセージなのでした

本作は何故空前の大ヒットになったのでしょか?

それは本作には、あり得たかも知れない本土決戦の姿が本作の中にあったからだと思います

日本中の観客は、自分達の町、村、自分自身、子供達がこうなっていたかも知れないのだという恐怖を今更ながらに知ったからだと思います
本土決戦になっていれば、映画の登場人物の誰かに確実に自分がなっていたと震え上がったはずです

岡本喜八監督の「日本のいちばん長い日」で、あの青年将校達がやろうとした本土決戦とはこれだったのです

如何に終戦の詔勅が日本の滅亡を救ったのかを、実感したのだと思います
そして平和の有り難み、不戦の誓いを新たにしたのだと思うのです
だからこそ国民が本作に詰め掛け空前の大ヒットとなったのだと思います

撮影は沖縄はまだ米国の時代
現地ロケも出来ず、撮影所と銚子で撮ったとのこと
九十九里浜は実際、米軍が本土上陸作戦を予定していた地点の幾つかの一つです
日本軍もここで上陸戦が行われることは必至と決戦準備をしていた土地でした
玉音放送が無ければ、8月下旬から、9月にかけて上陸戦があったはずの土地でのロケだったのです

本当に本土決戦が本作のように起こらなかったことは幸せです
そしてその本土決戦が唯一行われた沖縄の不幸
私達はそれを知らなけばなりません
本作は本当の反戦教育たりる映画だと思います

ひめゆりの塔とは彼女達の塔と言えないほど本当に驚くほど小さな墓碑のことです
沖縄本島の南端にあります
那覇空港から南に車で30分程
リゾートホテルのある沖縄中部からでも1時間程で行けます
大昔に行ったことがあるのですが、当時はさして関心も興味もなかったので、もうなにも覚えていません
コロナがおさまったならまた訪れて、献花したいと思いました

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あき240

4.0 まだ無邪気な従軍看護婦・・

2016年11月6日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

泣ける

悲しい

図書館で借りたDVD。本土・沖縄戦線で負傷したおびただしい数の日本軍の兵士をまだ学徒の看護婦たちが献身的に看病する。そして自らもアメリカ軍に攻撃され死傷、ひめゆり学徒隊の健気な姿に涙した。実話なので胸が痛い。最期は逃げ込んだ洞窟で・・1953年の邦画。

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亮一君

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