放浪記(1962)のレビュー・感想・評価
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【林芙美子という巨大ななにか】
「僕は林芙美子の作品『放浪記』の中で、世にも卑劣な、世にも女々しい男として肴にされた福地貢です。その『放浪記』に対して僕はなんと言えばいいのか。褒めるかけなすか、要は作品の出来栄えいかんだ。僕達はかつては夫婦でも今は他人、林芙美子が作家ならこの僕も痩せても枯れても作家の一人だ。赤の他人である作家として批判しようじゃないか。おふみ…いつか、白坂が君の作品を嫌ってゴミ箱の中のゴミを棒で突っつき散らしてぶちまけたような作品だと言ったことがある。僕も同感だった。だが僕が今あらためて憎しみをもってあの作品を読んだとき、僕はあの中にゴミ箱の中身のぶちまけられたうそも隠しもない真実の美しさを見いだした。おふみ…『放浪記』はいい作品だよ。ただ少し泣きすぎる。君自身を泣かせたいために僕を悪者にしたようなところもある。お前の言葉じゃないが泣いたってどうにもならないんだよ…。『放浪記』おめでとう。僕は君の才能と努力に敬意を贈る。おめでとう」
『放浪記』出版記念パーティーにふらりと現れた元夫、肺病病みのイケメン作家福地(宝田明)がふみ子に祝意を伝えたスピーチです。自分の小説が売れない苛立ちを妻のふみ子にぶつける癇癪持ちのダメ男として『放浪記』の中に描かれた自分の姿を読んで、彼はどう感じたのでしょうか。妻を殴り、悪態をつき、威張り散らしていたのに、気がついてみれば結局食われたのは自分の方だったんじゃないか、そう気づいていたかも知れません。自分が虐げていた元妻はいまや売れっ子作家の仲間入り、完全に立場が逆転してしまいました。学歴がなかろうがゴミ箱だろうが、売れたが勝ちの世界です。男も女も関係ありません。成功した元妻の前に自分の惨めな姿を晒しにやってきた福地の姿が哀れを誘います。ただ、祝辞の内容は今ひとつでした。福地がふみ子の作品の中に見いだした「真実の美しさ」とはなんのことなのか。小説の中に真実などあるのか、あるとしても果たしてそれは美しいのか。こんな抽象的なことしか言えないところが、彼が売れない原因なのでは。読者が求めているのは「真実の美しさ」などではなく、何が何でも生き抜いてやるというふみ子のバイタリティと曝露話です。パーティー参加者のひそひそ話にそれが表れています。「泣いたってどうにもならないんだよ…」って、ふみ子はもはや泣いてなどいません。泣いているのは自分の方です。夫婦で共に作家というのも、煮詰まったりして色々やりづらそうです。これに懲りたのか、次の夫は画家を選んだふみ子でした。
当初売れない詩や童謡を書いていたふみ子は、食うために小説を書くようになりました。小説家というのは自分のフィクション世界の創造主です。題材は日記を元にした自分の実体験。『放浪記』はフィクションですが、そこに登場する人物は実在の身の回りの人たちです。母も夫も友人も、みんな小説の登場人物にされてしまいました。作品の中に取り込まれた人間は、自分の影を失ってしまうように自分の実存を失ってしまいます。夫は魂を吸われたみたいにやせ細り、母は自分の意志を失ったみたいにふみ子の”着せ替え人形”になってしまいました。
自分が誰かの作った物語の登場人物に過ぎない、という感覚は気持ちの悪いものです。登場人物として作者の内的世界に飲み込まれてしまう、というのは嫌な事です。作家の周囲にいる人達はたまりません。私生活を漫画にして発表し続ける西原理恵子という漫画家も、娘さんとの確執が話題となり、かっちゃんも痩せてしまいました。
”全てを丸呑みしながら肥大してゆく巨大ななにか”、林芙美子という人はそんな大きな存在だったのではないかと想像します。本作の高峰秀子は大熱演ですが、どうしても本来の愛らしい素顔が垣間見えてしまい、”底の知れない怪物感”は出せませんし、小説が売れる前と後で、主人公の人物像にもあまり変化を感じられませんでした。
木賃宿に逃げ込んできた女を庇い、自分も警察に引っ張られてしまうふみ子。「面白い。なんでも経験だ!」彼女はどんな悲惨な現実でもそれを日記に記し、小説に昇華します。誰にも彼女を止めることはできません。彼女自身にも。
林芙美子は売れるために手段を選ばなかったという話もあります。本作にも、親友から託された原稿を締め切り日までに届けなかったエピソードが語られます。文士というのは実に業の深い存在です。
加東大介演じる安岡さんというキャラクターは特殊な人です。邪心を持たず、ただふみ子に尽くすことに歓びを感じる忠犬のような男です。詩人であるふみ子の前で石川啄木の『はたらけど…』の歌を諳んじてみせますが、相手にもされません。彼はその純朴さゆえ、ふみ子に取って食われることを免れました。
『放浪記』を映画化した本作、演技も演出も秀逸ではありますが、結局林芙美子の手の上からはみ出すことはできなかったのではないでしょうか。”南天堂グループ”の面々の様子をもっと盛り込んでいたら、林芙美子を外から見る目線にもなり当時の文壇の状況も分かり、もっと面白くなったかも知れません。
【南天堂グループ】
南天堂書房を中心とした男女文士のグループ。同書房は当時ダダイストやアナーキストの巣窟になっており、反骨の精神に凝り固まった同グループには不倫を戒めるようなモラルなどないに等しく、カップルの組み合わせは変わり放題だった。平林たい子は「芙美子は初恋に破れた痛苦を味わってから、男女関係が行き当たりばったりになった」と述べている。
高峰秀子
原作はもっとアナーキー
林芙美子の自叙伝的映画に取り組んだ成瀬監督と高峰秀子の転び方
流行作家の全盛期に過労により亡くなった林芙美子(1903年~1951年)原作の自叙伝的小説と菊田一夫の戯曲から成瀬巳喜男監督が高峰秀子主演で映画化した、幾つもの男性遍歴を重ねて貧困から這い上がる女流作家を描いた人間ドラマ。しかし、この映画作品より広く世間的に知れ渡っているのは、その戯曲による森光子主演の同名舞台劇である。原作はそれまで戦前戦後(P.C.L.と東映)で2回映画化されていて、その1961年の舞台化で再び脚光を浴びたため東宝で映画化されたのだろう。1951年の「めし」、52年の「稲妻」、53年の「妻」、54年の「晩菊」、55年の「浮雲」と連作した成瀬監督の絶頂期から7年後に、漸く林芙美子の出世作にして代表作を映像化したことになる。但し、前者の5作品が批評家から高く評価されたのに対して、この作品はキネマ旬報のベストテンのリストに載らず、その年の50作品の中に入っていない。成瀬作品が完全に無視されたことは本当に珍しく、これは意外であった。と同時に、映画の出来として素晴らしいと言い難いのも事実である。
それは、多くの人物が入れ代わり立ち代わり登場して主人公ふみ子と関わるストーリーを追う面白さは充分あるのだが、序破急や起承転結のドラマ展開の醍醐味が弱いことにある。別の表現をすれば、舞台のダイジェスト版のような趣の映画とも言えよう。どのシーンも成瀬監督の丁寧で無駄の無いショットの連続で、じっくり鑑賞できるのだが、演出の鋭さが際立つショットも特にない。これは菊田一夫の戯曲から書き下ろした脚本のためと思われる。舞台劇の映画化で成功するには演出の集中度の高さが必要だし、見せ場が強調されないと印象に残り辛いものだ。結果論だが、これは原作重視の3時間掛けるくらいの長編にして、林ふみ子の女の一生を描き切って欲しかったと思う。
主演の高峰秀子の演技力は、素晴らしい。しかし、それが観ていて実感できないのは、やはりミスキャストだからだと思う。林ふみ子は貧しくも詩人であるも、けして美人ではない設定であるためか、のっぺりしたメーキャップで女優高峰秀子本来の美しさを消している。よく言えば竹久夢二の美人画のような大正・昭和初期の女性の雰囲気を出そうとしたのだろうが、ふみ子の内に秘めた粘り強く負けん気が強い女性の芯の太さが削がれている。名監督と名女優でも、上手く行かない時もあるのは仕方ない。これはどちらも結果を承知で取り組んだ挑戦と思いたい。たしか溝口健二監督の言葉だったと記憶するが、転ぶにしても転び方が大切というのがある。
しかし、この昭和37年映画のキャスティングは、個人的に懐かしく非常に面白かった。10代の頃にテレビで知った俳優さんたちの若い頃が観れて、しかも誰もが舞台で鍛えた演技力で映画に出演していることに嬉しくなってしまった。浮気を重ねる駄目男伊達晴彦役の中谷昇(33才)、妻の才能に嫉妬するDV男福池貢役の宝田明(28才)、ふみ子を常に後押しする白坂五郎役の伊藤雄之助(43才)、プロレタリア作家上野山役の加藤武(33才)、ふみ子の良きライバル日夏京子役草笛光子(29才)、貧しい画家の時知り合い、ふみ子の最後の夫になる藤山武士役の小林桂樹(39才)、土建屋の社長で女給時子を月60円で妾にする田村役の多々良淳(45才)、セルロイド玩具工場の女主人役菅井きん(36才)、捜査に逆らうふみ子を連行する刑事役名古屋章(32才)、林家の家政婦役中北千枝子(36才)、最初の家主役飯田蝶子(65才)、カフェーの女主人役賀原夏子(41才)、ふみ子に散文の作品を書かせてチャンスを与える村野やす子役文野朋子(39才)、ふみ子にアンデルセンを読めと強要する編集長役遠藤達夫=太津朗(34才)、そして学生役の岸田森(23才)と橋爪功(21才)の何と若いことか。学生仲間では、一度顔を見たら忘れられない草野大悟(23才)もいた。初めて見て好印象の女給君子役の北川町子は、後に引退し児玉清夫人になったという。顔だけは鮮明に覚えているのにどんな作品だったかは分からない女給初子役の矢吹寿子も懐かしい限り。
母きし役の田中絹代と、男やもめで片想いを貫く善人の安岡信雄役加東大介は、最後にも登場して作品を奇麗にまとめる。
映像メディアが映画からテレビに変化していた時代の、その後テレビドラマでも活躍の場を広げ親しまれた実力俳優たちの成瀬演出に応えた演技が見られます。この豪華キャスト、今から見ればとても贅沢な作品でもあります。
悲惨な人生
とても面白かった
女とは何かと言うことでは、成瀬監督作品に共通するテーマの作品だと思います
成瀬監督作品で林芙美子原作のものは
1951年 めし 原節子
1952年 稲妻 高峰英子
1953年 妻 高峰三枝子
1954年 晩菊 杉村春子
1955年 浮雲 高峰秀子
ときて
1962年の本作となります
しかも林芙美子のデビュー作にして出世作
それを東宝創立30周年記念作品として撮るのだから気合いが入っているのは間違いないでしょう
放浪記は本作公開の前年に森光子主演で芸術座での舞台公演が始まり大ヒットをしています
なんと2009年までの空前絶後のロングランになったのはあまりにも有名です
森光子がでんぐり返りすることで超有名なあれです
そこが最大の見せ場のように言われていますが、本作にはそれはでてきません
本作の製作が決まったのはこの舞台の大成功がきっかけであったのは間違いのないことかと思います
と言うことで、ノンストップの舞台ですから、その舞台俳優を使っては撮影することはできません
音楽の古関裕而だけはスライドしています
では本作の主演女優を誰にするかが問題です
原節子には、このヒロインは逆立ちしてもできはしません
杉村春子は年を取り過ぎです
当然、高峰秀子が主演になるわけです
本作はその高峰秀子の演技の頑張りを楽しむことが目的の映画となっているようなあんばいです
成瀬監督らしさというより、林芙美子の放浪記を忠実に映画化することに力点がおかれてあります
田中絹代もあまり見せ場はないです
成瀬監督には田中絹代へのリスペクトはあってもなんとしても美しく撮りたいという妄執はないので普通におばあさんとしての佇まいで、サンダカン八番娼館の時の姿を予告したものになっています
それでもこの二人をして、女とは何かと言うことを描こうとしていることでは成瀬監督作品に共通するテーマの作品だと思います
演技力が良い
男の苦労も糧とする逞しさ
最初に捨てられた大学生をはじめ、
生活力のないインテリの優男にめっぽう弱いふみ子だが、何くれとなく親身になってくれる安岡の思いに応えるでもなく、それでも繋ぎとめておく強かさも持つ。
書くことに関しては最初から絶対的な自信があったとは思うが、ふみ子という人は女としては、すごく自己評価が低い人なんじゃないかと思った。
だから、心理的、身体的虐待を許してしまう。
ふみ子に文学がなかったら、福地と別れられなかったかもしれないが、書き続けるためには独りになるよりほかなかったのだ。
仲谷昇、宝田明のダメ男ぶりも見事だが、
卑屈さを感じさせるいつも少し猫背なふみ子像を作り上げた高峰秀子もお見事だが、最後までふみ子の友人であり続けた加東大介の演じる安岡の実直さも印象的だった。
高峰秀子
これぞスタンダード名品
シーンの繋がりが実に効果的。
例えば「エヴァ」の翼をくださいのように、また例えば「ゴッドファーザーパートスリー」のオペラのように、また例えば「天国と地獄」の犯人逮捕で流れるラジオのように、
マイナスなイメージの冷酷さを増幅させるための、陽気なBGMのような効果を、シーンのラストカットと次のシーンの最初のカットの落差が、無理なく生んでいる。
……といったように、芸術的作品たる作り手の、その意図が、観客ごときの自分だが、その自分に心地良い。
抑えられてなお強く芯を捉えるといった、作為の見せ方の、ストンと落ち着いて奇をてらわない手触り感が、観ていて実に小気味好い。我々はリアルな質感を観ているのではない、技術の仕草を観ている。
ただただ風景を詠んだ俳句を観ている感じの連結の小気味好さ。
観客は、興奮させるために作られた芝居を観たいのではなく、良いものを作るために作られた芝居を観て、それで各々勝手に沸々と興奮してくるものである。
近頃の作為が蔓延しきった作品にはなかなか無い妙味がある。
また、高峰秀子の身体は水を通った白玉のようで、汚しがいがあるのだ。
・なーんでそんな男にこだわるの?早く見切りつけなよ!ってイライラす...
書くことへの執念
背を丸め、口はへの字、眉はたれ気味。貧乏であることがその内側から滲み出てくる女性を高峰秀子が力演している。他のどの出演作にも増して相手の男性役が彼女の背景に霞んでしか見えない。
彼女の詩を批評する同人の一人が、「ゴミ箱をかき回して、中身を放り出したような」と表現したような女の生活がスクリーンに描かれている。
しかし同時に、彼女がなぜそこまで書くことに執念を燃やすのかについても、映画はしっかりと伝えてくれる。
林扶美子は、貧乏を書きたかったのではない。貧乏な生活を送る自分が、カフェーの女給しかできない人間ではないことを明かすためにものを書くのだ。
そして、彼女自身が言う通り、教育もなく、金もない彼女が書くことのできる内容といえば、貧乏暮らししかないのである。
映画の中では何度も林の文章が映し出され、高峰のナレーションが入る。これが、功成り名遂げた現在の林扶美子が、過去の自分を回想している構図を生み出す。映画表現としては面白みに欠けるが、一人の作家の自叙伝という形には必要だったのだろう。
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