放浪記(1962)のレビュー・感想・評価
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林芙美子の自叙伝的映画に取り組んだ成瀬監督と高峰秀子の転び方
流行作家の全盛期に過労により亡くなった林芙美子(1903年~1951年)原作の自叙伝的小説と菊田一夫の戯曲から成瀬巳喜男監督が高峰秀子主演で映画化した、幾つもの男性遍歴を重ねて貧困から這い上がる女流作家を描いた人間ドラマ。しかし、この映画作品より広く世間的に知れ渡っているのは、その戯曲による森光子主演の同名舞台劇である。原作はそれまで戦前戦後(P.C.L.と東映)で2回映画化されていて、その1961年の舞台化で再び脚光を浴びたため東宝で映画化されたのだろう。1951年の「めし」、52年の「稲妻」、53年の「妻」、54年の「晩菊」、55年の「浮雲」と連作した成瀬監督の絶頂期から7年後に、漸く林芙美子の出世作にして代表作を映像化したことになる。但し、前者の5作品が批評家から高く評価されたのに対して、この作品はキネマ旬報のベストテンのリストに載らず、その年の50作品の中に入っていない。成瀬作品が完全に無視されたことは本当に珍しく、これは意外であった。と同時に、映画の出来として素晴らしいと言い難いのも事実である。
それは、多くの人物が入れ代わり立ち代わり登場して主人公ふみ子と関わるストーリーを追う面白さは充分あるのだが、序破急や起承転結のドラマ展開の醍醐味が弱いことにある。別の表現をすれば、舞台のダイジェスト版のような趣の映画とも言えよう。どのシーンも成瀬監督の丁寧で無駄の無いショットの連続で、じっくり鑑賞できるのだが、演出の鋭さが際立つショットも特にない。これは菊田一夫の戯曲から書き下ろした脚本のためと思われる。舞台劇の映画化で成功するには演出の集中度の高さが必要だし、見せ場が強調されないと印象に残り辛いものだ。結果論だが、これは原作重視の3時間掛けるくらいの長編にして、林ふみ子の女の一生を描き切って欲しかったと思う。
主演の高峰秀子の演技力は、素晴らしい。しかし、それが観ていて実感できないのは、やはりミスキャストだからだと思う。林ふみ子は貧しくも詩人であるも、けして美人ではない設定であるためか、のっぺりしたメーキャップで女優高峰秀子本来の美しさを消している。よく言えば竹久夢二の美人画のような大正・昭和初期の女性の雰囲気を出そうとしたのだろうが、ふみ子の内に秘めた粘り強く負けん気が強い女性の芯の太さが削がれている。名監督と名女優でも、上手く行かない時もあるのは仕方ない。これはどちらも結果を承知で取り組んだ挑戦と思いたい。たしか溝口健二監督の言葉だったと記憶するが、転ぶにしても転び方が大切というのがある。
しかし、この昭和37年映画のキャスティングは、個人的に懐かしく非常に面白かった。10代の頃にテレビで知った俳優さんたちの若い頃が観れて、しかも誰もが舞台で鍛えた演技力で映画に出演していることに嬉しくなってしまった。浮気を重ねる駄目男伊達晴彦役の中谷昇(33才)、妻の才能に嫉妬するDV男福池貢役の宝田明(28才)、ふみ子を常に後押しする白坂五郎役の伊藤雄之助(43才)、プロレタリア作家上野山役の加藤武(33才)、ふみ子の良きライバル日夏京子役草笛光子(29才)、貧しい画家の時知り合い、ふみ子の最後の夫になる藤山武士役の小林桂樹(39才)、土建屋の社長で女給時子を月60円で妾にする田村役の多々良淳(45才)、セルロイド玩具工場の女主人役菅井きん(36才)、捜査に逆らうふみ子を連行する刑事役名古屋章(32才)、林家の家政婦役中北千枝子(36才)、最初の家主役飯田蝶子(65才)、カフェーの女主人役賀原夏子(41才)、ふみ子に散文の作品を書かせてチャンスを与える村野やす子役文野朋子(39才)、ふみ子にアンデルセンを読めと強要する編集長役遠藤達夫=太津朗(34才)、そして学生役の岸田森(23才)と橋爪功(21才)の何と若いことか。学生仲間では、一度顔を見たら忘れられない草野大悟(23才)もいた。初めて見て好印象の女給君子役の北川町子は、後に引退し児玉清夫人になったという。顔だけは鮮明に覚えているのにどんな作品だったかは分からない女給初子役の矢吹寿子も懐かしい限り。
母きし役の田中絹代と、男やもめで片想いを貫く善人の安岡信雄役加東大介は、最後にも登場して作品を奇麗にまとめる。
映像メディアが映画からテレビに変化していた時代の、その後テレビドラマでも活躍の場を広げ親しまれた実力俳優たちの成瀬演出に応えた演技が見られます。この豪華キャスト、今から見ればとても贅沢な作品でもあります。
悲惨な人生
高峰秀子扮する林ふみ子はふたり暮らしの母親から見ても風変わりな娘だった。
昔の映画ながら結構辛らつな表現で綴られていたね。特に際立った出来事もなく、単に中谷昇扮する詩人伊達春彦の浮気相手をしている程度かな。ふしだらにも感じるな。悲惨な人生、他に特に感じるものはなかったね。
とても面白かった
基本どの場面も高峰秀子スゲー、の一言になる。一種のひな形みたいに、いろんな女優さんが今作の演技スタイルを参考にしたりこっそり取り入れたりしていそう。女給さんになって歌い踊りまくるシーンと、ダメ男宝田明に対してついにブチ切れるシーンは大画面でエンドレスリピートで見ていたい。東宝の周年映画とかで出演者も選りすぐり。有名作なのでなんとなく知っている話ではあるが、脇役もキャラが立っているため、飽きさせず面白い。
女とは何かと言うことでは、成瀬監督作品に共通するテーマの作品だと思います
成瀬監督作品で林芙美子原作のものは
1951年 めし 原節子
1952年 稲妻 高峰英子
1953年 妻 高峰三枝子
1954年 晩菊 杉村春子
1955年 浮雲 高峰秀子
ときて
1962年の本作となります
しかも林芙美子のデビュー作にして出世作
それを東宝創立30周年記念作品として撮るのだから気合いが入っているのは間違いないでしょう
放浪記は本作公開の前年に森光子主演で芸術座での舞台公演が始まり大ヒットをしています
なんと2009年までの空前絶後のロングランになったのはあまりにも有名です
森光子がでんぐり返りすることで超有名なあれです
そこが最大の見せ場のように言われていますが、本作にはそれはでてきません
本作の製作が決まったのはこの舞台の大成功がきっかけであったのは間違いのないことかと思います
と言うことで、ノンストップの舞台ですから、その舞台俳優を使っては撮影することはできません
音楽の古関裕而だけはスライドしています
では本作の主演女優を誰にするかが問題です
原節子には、このヒロインは逆立ちしてもできはしません
杉村春子は年を取り過ぎです
当然、高峰秀子が主演になるわけです
本作はその高峰秀子の演技の頑張りを楽しむことが目的の映画となっているようなあんばいです
成瀬監督らしさというより、林芙美子の放浪記を忠実に映画化することに力点がおかれてあります
田中絹代もあまり見せ場はないです
成瀬監督には田中絹代へのリスペクトはあってもなんとしても美しく撮りたいという妄執はないので普通におばあさんとしての佇まいで、サンダカン八番娼館の時の姿を予告したものになっています
それでもこの二人をして、女とは何かと言うことを描こうとしていることでは成瀬監督作品に共通するテーマの作品だと思います
演技力が良い
森光子の舞台の話しか知らず、物語も知らなかったので、たまたま放送していたので観ました。
今なら流せないような、女性の姿が良かった。
幸せに見えそうでも幸せでない感じの演出が良かった。
最後は成功して大きな家に住んでるところまできたけど、やはり幸せそうに見えない感じが醸し出されてました。
モノクロ映像の光と影が貧しさを効果的に映し出している。眉尻の下がっ...
モノクロ映像の光と影が貧しさを効果的に映し出している。眉尻の下がった高峰秀子の憐れな表情が見事だった。
男の苦労も糧とする逞しさ
最初に捨てられた大学生をはじめ、
生活力のないインテリの優男にめっぽう弱いふみ子だが、何くれとなく親身になってくれる安岡の思いに応えるでもなく、それでも繋ぎとめておく強かさも持つ。
書くことに関しては最初から絶対的な自信があったとは思うが、ふみ子という人は女としては、すごく自己評価が低い人なんじゃないかと思った。
だから、心理的、身体的虐待を許してしまう。
ふみ子に文学がなかったら、福地と別れられなかったかもしれないが、書き続けるためには独りになるよりほかなかったのだ。
仲谷昇、宝田明のダメ男ぶりも見事だが、
卑屈さを感じさせるいつも少し猫背なふみ子像を作り上げた高峰秀子もお見事だが、最後までふみ子の友人であり続けた加東大介の演じる安岡の実直さも印象的だった。
高峰秀子
『二十四の瞳』の女子先生は可愛かった。その頃とはまったく違う。貧乏で何とか暮らしていこうとする懸命さが売りだから、生活臭が漂う女性。給料の安い女工時代や飲み屋で働いているときはキラキラ輝いているようにも見えたが、徐々にやつれてくる雰囲気。美形の俳優の顔そのものよりも、働くことで輝いて見せるところが素敵です。
これぞスタンダード名品
シーンの繋がりが実に効果的。
例えば「エヴァ」の翼をくださいのように、また例えば「ゴッドファーザーパートスリー」のオペラのように、また例えば「天国と地獄」の犯人逮捕で流れるラジオのように、
マイナスなイメージの冷酷さを増幅させるための、陽気なBGMのような効果を、シーンのラストカットと次のシーンの最初のカットの落差が、無理なく生んでいる。
……といったように、芸術的作品たる作り手の、その意図が、観客ごときの自分だが、その自分に心地良い。
抑えられてなお強く芯を捉えるといった、作為の見せ方の、ストンと落ち着いて奇をてらわない手触り感が、観ていて実に小気味好い。我々はリアルな質感を観ているのではない、技術の仕草を観ている。
ただただ風景を詠んだ俳句を観ている感じの連結の小気味好さ。
観客は、興奮させるために作られた芝居を観たいのではなく、良いものを作るために作られた芝居を観て、それで各々勝手に沸々と興奮してくるものである。
近頃の作為が蔓延しきった作品にはなかなか無い妙味がある。
また、高峰秀子の身体は水を通った白玉のようで、汚しがいがあるのだ。
・なーんでそんな男にこだわるの?早く見切りつけなよ!ってイライラす...
・なーんでそんな男にこだわるの?早く見切りつけなよ!ってイライラするけど人それぞれだからなぁ…
・女給シーンは観てて楽しい
・登場するたびに安岡の好感度が上がっていく
・お屋敷での母親の着物、来客への返しにニヤニヤした
書くことへの執念
背を丸め、口はへの字、眉はたれ気味。貧乏であることがその内側から滲み出てくる女性を高峰秀子が力演している。他のどの出演作にも増して相手の男性役が彼女の背景に霞んでしか見えない。
彼女の詩を批評する同人の一人が、「ゴミ箱をかき回して、中身を放り出したような」と表現したような女の生活がスクリーンに描かれている。
しかし同時に、彼女がなぜそこまで書くことに執念を燃やすのかについても、映画はしっかりと伝えてくれる。
林扶美子は、貧乏を書きたかったのではない。貧乏な生活を送る自分が、カフェーの女給しかできない人間ではないことを明かすためにものを書くのだ。
そして、彼女自身が言う通り、教育もなく、金もない彼女が書くことのできる内容といえば、貧乏暮らししかないのである。
映画の中では何度も林の文章が映し出され、高峰のナレーションが入る。これが、功成り名遂げた現在の林扶美子が、過去の自分を回想している構図を生み出す。映画表現としては面白みに欠けるが、一人の作家の自叙伝という形には必要だったのだろう。
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