雲右衛門とその妻
劇場公開日:1962年6月24日
解説
谷屋充原作『桃中軒雲右衛門とその妻』から「お兄哥さんとお姐さん」の辻久一が脚色、「雨の九段坂」の安田公義が監督した人情もの。撮影は「のこされた子とのこした母と」の竹村康和。
1962年製作/88分/日本
配給:大映
劇場公開日:1962年6月24日
ストーリー
明治三十年代、自由民権運動が挫折したあとの保守的ムードを敏感にキャッチ、武士道を鼓舞して時代の寵児となった浪曲師桃中軒雲右衛門こと吉川繁吉。その彼にも長い不遇の時代があった--。横浜の寿亭、三河屋梅車は舞台をおりるや相三味線をつとめた妻おはまを、三味線の調子が高かったとバチで撲る。それを弟子の繁吉がかばったことから、おはまは秘かに繁吉に出稽古をつけてやるようになった。しかし、このことは師匠の梅車に知れ、激しい怒りを買った。繁吉はおはまに迷惑のかかるのを恐れ一座を出奔しようとするが、おはまは弟子に稽古をつけられないようでは芸道はヤミだと梅車に反発、繁吉には出奔を思い止まらせた。が、梅車は土地の顔役に頼み、繁吉のもとに出稽古にきていたおはまを拉致させようとした。乱闘の末、おはまと繁吉は逃げ出し、流浪の旅に出た。大阪にきた二人は知人の京山文円を訪ねたが、梅車への義理があるからと素気なくされた。仕方なく大道で門付をしていると、繁吉の兄弟子梅枝に会い、昔のことを口汚くののしられ足蹴にされようとした。そこを壮士風の男・小見山東天に助けられ、彼の紹介で二人は九州の黒洋社総裁神山護を訪ね、後援を約束された。繁吉は桃中軒雲右衛門と改名、日露戦争の勝報に湧く民情に乗って名声をあげた。そんなある日、かつて貧乏暮しに愛想をつかして去った先妻お久が一子稲太郎を連れてきた。繁吉はおはまの胸中を考え、心を鬼にして母子を返すや、東天の誘いを受け沼津、横浜へ行き、ついに歌舞伎座からの出演を求められた。が、おはまは喀血、看病の甲斐もなく死んだ。数日後、歌舞伎座では繁吉の名調子が語られた。