オペラハットのレビュー・感想・評価
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人情喜劇、ロマンティックコメディの傑作。
突然莫大な遺産を相続することになった純朴な男性が、マスコミにさらされ、財産を狙う人々に惑わされる騒動を描いた、人情喜劇の傑作。人間味あふれる描写と、ユーモアを交えたロマンティックコメディでもあり、最後まで飽きずに楽しめる。
とても分かりやすくシンプルな話で、テンポ良く最後まで見れるのだが、クライマックスの裁判のシーンは、少し回りくどく感じた。
農夫たちに農場を買い与えるというのは、当時の不況にあえぐ地方の疲弊を反映したくだりだったのかもしれないね。
理想に過ぎるところがあるかもしれないが、フランク・キャプラ監督の人々に対する優しい眼差しを感じ取ることができるし、世界恐慌を経験した当時のアメリカだからこそ出来た、素晴らしい作品だと思う。
【以下あらすじ】
田舎町で幸せに暮らしていたロングフェロー・ディーズ(ゲイリー・クーパー)は、大富豪だった叔父の死去に伴い、莫大な遺産を相続することになる。
その叔父の財産をめぐり、悪事を重ねてきた叔父の弁護士ジョン・シーダーは、ディーズをメディアから遠ざけるため、コーネリアス・コブ(ライオネル・スタンダー)を起用する。
ディーズは、変わり者だが善良で素朴な男だった。彼は、正体を隠して彼に近づいた女性記者ルイーズ・"ベイブ"・ベネット(ジーン・アーサー)と、恋に落ちる。
また、シーダーが起用したコブも、ディーズに信頼を寄せるようになる。
その一方、シーダーは、ディーズの唯一の親族であるセンプル夫妻と手を組み、ディーズの風変わりな言動に目を付け、訴訟を起こして、財産の管理能力が無い(無能力の)宣告を勝ち取ろうとする、、、。
ゲイリー・クーパーの荒くれイケメンぶりを堪能。逆『ローマの休日』的...
ゲイリー・クーパーの荒くれイケメンぶりを堪能。逆『ローマの休日』的な展開とラストの法廷劇は観るものをワクワクさせる。原題 Mr. Deeds Goes To Town が『スミス都へ行く(Mr. Smith Goes To Washington) 』に似ているので設定も被るが、こちらが先。二人が奏でる『スワニー河』と『ユーモレスク』は印象的。キャプラがアカデミー賞監督賞受賞。
子供心を忘れない純粋さ
『スミス都へ行く』に続き、フランク・キャプラ監督の作品ということで鑑賞。段々この監督の作風が分かってきた。
今作は主人公ディーズの人物描写がよくできていると感じた。ディーズは子供心を忘れない、人一倍純粋な人なのだ。消防団の消化活動に勝手に途中参加したり、気に入らない人間を躊躇なく殴りつけたりするのは、自分の感情に素直だからだろう。毎回階段の手すりに乗って滑り落ちるのも、彼の子供心ゆえの行動だ。その純粋さ故に、新聞記者の女性ベイブに利用されているのに気づいた際には、物凄く傷つき落ち込んだ。そんな彼の傷ついた気持ちを、俳優のゲイリー・クーパーが、悲しそうな表情と佇まいだけで表現できていたのが秀逸だと感じた。
ベイブのドラムに合わせて歌うディーズとのセッションも微笑ましかった。ただ、二人の恋愛関係への発展が、尺の問題もあるだろうが早すぎる印象。欲を言えば、もう少し時間を取って二人の心の変遷を丁寧に描いて欲しかった。
シンデレラマン‼️
人間の善意の素晴らしさを謳い上げる事に長けた名匠フランク・キャプラ監督が、その本領を発揮した名作‼️突然大富豪になったディーズは、貧しい人たちのためにその財産を使おうとして、金目当ての悪党の策略により審問にかけられる。しかし、最後の最後に一発大逆転の鮮やかな弁舌で撃破する・・・‼️大富豪の自動車事故から、歯切れのいいテンポと巧みな技術でドラマの設定を観る者に伝える‼️ディーズが邸宅の手すりを滑って遊んだりするシーンやチューバを吹くシーン‼️ディーずとデートする新聞記者のベネットが夜の公園のベンチで「スワニー河」を歌う情感あふれる名場面‼️ディーズを騙したことを後悔するベネットの前にディーズが来て、自作の詩を詠んでプロポーズするシーン‼️そして小さなカタルシスが連発される大詰めの審問会‼️その緩急自在の軽妙な語り口と、辛辣で温かいユーモア‼️「或る夜の出来事」もそう、「スミス都へ行く」もそう、「素晴らしき哉、人生!」もそう、キャプラ監督ってなんていい監督なんだろう‼️人を信じる心とか、誰かを助けたい、奉仕したいと思う気持ち‼️いわゆる人間の善意‼️キャプラ監督の作品を観てると人生で何が大切なのか教えられます‼️ディーズに扮した若き日のゲイリー・クーパーの爽やかさはもちろん、ベイブに紛したジーン・アーサーも極めて魅力的‼️
キャプラの魔法
まだそこまで何本も観ているわけではないので断言はできないが、フランク・キャプラ監督の作品は、基本的に人情ロマンスコメディだ。
作品が古いこともあるだろうが、その内容はわざとらしくて大袈裟で極端である。
例えば主人公ディーズはどこまでいっても真っ直ぐで正直な男で、腹黒い人物はずっと腹黒い。つまり、キャラクターに二面性や葛藤などがないのだ。だが、これでいい。
近年の作品であれば浅く単調なキャラクターは退屈な物語しか紡がないが、漫画的でオーバーなキャプラ作品のキャラクターは多くの人が考える限界を超えてくる行動をとる。その限界突破が物語を牽引するのだ。
極端であっても単調なキャラクターは単調な物語を生む。現に内容が薄いという意見も聞こえる。
しかし、ある意味で確定しているエンディングへ向かうだけの確定しているストーリーテリングは、観ている者に気持ちよさを届け続ける。
この気持ちよさだけで映画一本仕上げてしまうのがキャプラの魔法。
少なくとも私はキャプラの魔法による陶酔をただ求めている。
一本の作品にあれもこれも求めるのには無理がある。観ることに負荷がかかるような作品は別作品に、社会問題について考えたいなら別作品に、人の葛藤を観たいなら別作品に。なのである。
つまり私は、フランク・キャプラ監督の魔法が大好きなのである。
【”NYの人は人間の生き方を忘れている・・。”巨額な遺産相続をした善良で、真の金の使い方を知る賢人たるシンデレラ男を巡る物語。ラストの法廷シーンは名シーンである事は間違いない作品である。】
■田舎町で工場を営むディーズ(ゲイリー・クーパー)は、母の兄にあたる大富豪センプルが自動車事故で亡くなった事で2千万ドルの遺産を引き継ぐことになる。
一躍時の人となった彼に会おうと新聞社や腹に一物を抱えた人々が押し寄せるが、彼は誰にも会おうとしない。
そんなディーズに新聞記者・ベイブ・ベネット(ジーン・アーサー)は色仕掛けで接近しようとする。
◆感想<Caution!内容に思いっきり触れています。>
・ディーズの”変人”と言われながらも、チューバを愛し、絵ハガキに詩を書く副業を持ちそれを楽しむ姿が良い。
ー 彼は、人の目は気にせずに、自身の信念に基づき生きる男である事が良く分かる。-
・そんなディーズに特ダネを取るために近づく新聞記者、ベイブ・ベネットはメリー・ドーソンと名を偽り、彼の生き様を目にする。
ー そこで、彼女が観たのは善良で、漢気が在り、聡明で、稚気をもある魅力的な男だった。最初は特ダネを取るためだったベイブ・ベネットはそんな彼に惹かれていき、ディーズも彼女に惹かれていくのである。-
■2千万ドルの遺産を引き継ぐことになった彼には、大富豪センプルの親類の愚かしき夫婦やセンプルの弁護士シーダーが同じく近づいてくる。シーダーやセンプルの会社の役員たちは会社の金を横領していた事を隠すために、ディーズを陥れようとする。
一方、ベイブ・ベネットはディーズの姿を見て、自分のしている事が嫌になり、新聞社を辞めるのである。
・ディーズもメリー・ドーソンの本当の姿を知り、人間不信になり故郷へ戻ろうとする。
ー このシーンの哀し気なゲイリー・クーパーの表情は特筆モノである。-
・そんな時に、彼の家に土地を奪われた貧しい農夫が銃を手に乗り込んできて、”世の金持ちたちが如何に貧しき人達から搾取しているか、冷たいかを切々と語るのである。
その言葉を聞いたディーズは故郷に帰る事を辞め、貧しき農民たちの為に遺産を使い農場を大量に購入して、3年後にはその土地を農民たちに渡すことを思いつくのである。
・それを知った愚かしきシーダーやセンプルの会社の役員たちは、ディーズの事を躁うつ病であるとして財産を管理する能力がない事を審問会で訴えるのである。
ー それに対し、ディーズは弁護士も雇わず、証言もせずに沈鬱な表情で黙るのみ。だが、そんな彼の姿を見て、ベイブ・ベネットは制止を振り切り証言台で如何にディーズが善良なる男かを涙ながらに熱弁するのである。-
■その姿を見たディーズは漸く、証言台に立ち自身の行いの変人さを認めつつ、”誰でもなくて七癖がある。”と裁判官や、博士や愚かしき大富豪センプルの親類の愚かしき夫婦の癖を揶揄った後に、シーダーの主張に対し、悉く反駁する。
そして、裁判官は”この法廷で最も正気な男”と宣言するのである。
その言葉を聞いた農民たちは狂喜乱舞し、そんな彼らを扉の外に追い出してディーズとベイブ・ベネットは、キスを交わすのである。
<今作は、人間の善性を心から信じる名匠、フランク・キャプラ監督の善良なる資質が見事に開花した作品なのである。
法廷シーンのラストの高揚感も素晴らしき、見事なる作品であると、私は思います。>
『農業計画を持つ者にお金を出資する』✘インフレ✘
多分、幸福度を財産と見る功利主義そのもの。
しかし、
『農業計画を持つ者にお金を出資する』この考えでは、インフレをまねくだけ。兎に角、アメリカはこの時代は1930年の恐慌後の事で、ニューディール政策もままならず、戦争の影が迫っていた時代。希望をもたせようと、表現するのは良いが、打つ手はひょっとしたら戦争しかなかったのかもしれない。
チューバと言う楽器や恋愛と報道。色々ストーリーは展開するが、話の主要部分は後半の法廷。
さて『戦後』になってゲーリー・クーパーはこの映画の様な場面に遭遇している。ハリウッドの赤狩り旋風裁判だ。勿論、彼は保守派の人物だが、この映画とか、左翼リベラリストの監督の演出に付いた影響で、そう言った場面に無理やり登場させられる。
ハリウッドにおける赤狩りは、この映画の様に、混乱を招いただけだった。と理解すべきだ
あの大量●●兵器と同じだったのではないだろうか。
ばかじゃない
ディーズに人々が群がったのはかれが大金持ちになったからだが、つけこんだのは、無欲で正直だったからだ。ひとは、無欲すぎるひと、正直すぎるひとをばかだと思う。億万長者になってさえ、富者らしい驕慢がみえないなら、ばかに見えてしまう。ばかと見なされたら、財産を狙って審問にさえかけられる。風刺だが、現実もそのとおりだと思う。
しかし、ディーズは無欲で正直だが、ばかではなかった。無欲で正直なのに、とてもかしこいキャラクターだった。そこに超凡の価値がある。
いっぱんにキャラクターは無欲で正直(どちらか一方でも)ときたら、かならずばかに描かれる。ばかはかわいそうにつながり、かわいそうは同情につながり、同情は簡便な客寄せとなる。
人は欠けた者にシンパシーを寄せる。だからキャラクターにエクスキューズを設ける。弱者。貧乏人。圧政下の臣民。暗い過去を持つ者。戦争被害者。DV被害者。障がい者。迫害された人。虐げられた人。・・・。──エクスキューズを設けると、物語に複雑な奇想をほどこす必要がなく、たやすく同情がかせげる。からだ。
だけどアメリカ映画はすでに1936年に無欲で正直なのに、ばかではないキャラクターをつくっていた。ばかではない──ばかりか、ディーズは、理不尽なことを言ってくる奴をブン殴るほどの強者だった。
金持ちで賢くて強者。ディーズには同情する余地がなかった。エクスキューズを用いていなかった。だけどオペラハットは楽しかった。
わたしは人類にひつようなことは、頭を使って危機を回避することだと思う。だから(たとえば)Aneesh Chagantyの映画に感銘をおぼえる。ChagantyのSearchやRunの登場人物は、頭がいい。頭をフル回転させて危機を克服する。登場人物が賢いなら、とうぜんつくったひとも賢い。つくった人が賢いと感じられる映画は、わたしを感動させる。
したがって(たとえば)日本映画で、紋切り型/類型的キャラクターのちんぴらが出てきてばかなことをやって破滅すると、ばかだなあと感じると同時に、つくった人もたいがいにばかなんだろうなあ──とも思う。
(無軌道や破滅をえがくこと自体に罪はないがそれをやるならマイクリーのネイキッドのようにうまくなきゃいけない。ばかがばかを描いてはすくいがない。)
ましてや現代。現実世界にはばかなことや、ばかなやつがあふれている。あふれかえっている。なんで映画でまでばかを見なきゃならないのですか?
日本の「伝統的勘違い」は、だれもばかを見たくないのにばかばっかり描いていることだと思っている。
いまだに(たとえば)哀川翔的ちんぴらな人物像が母性本能をくすぐる──とか思っている時代錯誤のひとびとが映画をつくっている。(たとえであり、哀川翔に罪はありません。)
けっきょく日本映画界はばかがばかをえがいてばかにみせる興行集団に零落して久しいが、なかにはあなたのようにばかに拮抗しうる鑑賞眼を持ったひとがいるにちがいない。ばかなわたしはそんなことを思った。(ばかばか言ってすいません。)
金持ちで長身で強くてハンサムで賢い。安易にエクスキューズしないヒーロー像をアメリカでは既に80年以上むかしに創っていた。──という話。
現実ではあまり無いことかもしれないが、正直や不器用や素朴や無骨や田舎といったエレメントを持った男が、きらびやかな都会女の女心を溶かす。それは魅力的な景趣であり──時代を超える普遍性があった。
安心推奨監督
クラシックではヒッチとワイルダー君の二人は、どの作品も安心しておすすめできますが、キャプラ君の安定感も抜群です。やや理想論過ぎのきらいはあるものの、正義と良心を嫌味なく楽しく表現する腕は水際立ってます。この作品でいつもニヒルで冷たい印象のクーパー君が良心の好演技です。
2023/12/28再見
前半は軽快に、中盤からはイライラが募り、最後はスカッとする終わり方...
前半は軽快に、中盤からはイライラが募り、最後はスカッとする終わり方。二枚目のゲイリー・クーパーが真っ直ぐな青年を好演し、裏切られた時のやるせない表情がなんとも上手い。ユーモアを交えながらもしっかりとしたメッセージが見えてくる見応えある映画だった。
遺産2千万ドル
2002年には『Mr.ディーズ』がリメイクされた。新しい方は視覚効果やアクションで見せていたが、こちらは軽快な会話を楽しむ映画。チューバを吹く姿と何でも詩にしてしまう有名な絵葉書詩人ところがユニークだ。長身でひょうひょうとした態度は当時のスターを予感させる雰囲気。ハリソン・フォードに喩えたら失礼だろうか。
「スワニー河」と「ユーモレスク」が意外とピッタリきていることも驚き。彼のことを記事にしたメアリーはピューリッツァ賞を取っちゃうし・・・求婚されるのとどっちが得なんだろ。それにしても、大恐慌時代を象徴するかのように農民のために1800万ドルを放出ってのも、すごいんだかなんなんだか・・・無精ひげが渋かった。でも裁判は痛快ではあるけれど冗長気味。
ゲイリー・クーパーに具現されるアメリカのユーモアに溢れる理想的善人
分かっているはずなれど、それでも尚、思わず拍手を送りたくなる主人公ゲイリー・クーパーによる法廷での見事な逆転劇。実に良く練られたストーリーと台詞展開。そして、知性とユーモアを合わせ持ち貧困者に仕事を与える米国富豪者の理想像を、演技を意識させず体現するゲイリー・クーパー。これこそがスターということか。
田舎からニューヨークという都会に来た巨額な富の有名遺産相続者に、やり手女性新聞記者ジーン・アーサーが記事欲しさに薄幸な女性を演じて相手の懐に飛び込むのが、1930年の米国映画ながら日本で考えれば今風に感ずるのは興味深い。日本の女性記者の活力が、90年遅れでようやく米国に追いついたということか。
最後、逆転劇にわき立つ中一人だけポツンと取り残された様に見えたジーン・アーサー、しかし、こちらも逆転しロマンスも成就という展開もハッピーエンドはお約束ながら実に上手い。フランクキャプラ監督作を見るのは或る夜の出来事以来だが、改めて素晴らしい名人芸の監督と思えた。是非、他監督作品も見てみたい。
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