マドモアゼル(1966)のレビュー・感想・評価
全1件を表示
60年代のフランス、都会からは遠く離れたある村。 「マドモアゼル(...
60年代のフランス、都会からは遠く離れたある村。
「マドモアゼル(お嬢さん)」と村人から呼ばれる女教師(ジャンヌ・モロー )、村の上流にある小川の水門を開いている。
その日は村の娘の結婚式。
古式に則り、村人の半数を従えての行列の最中だった。
あにはからんや、水門が開かれたために、村は水浸しになってしまう。
水源近くの農家の畜舎では牛や馬が溺れかかっている。
近くの森に住む流れ木こりのイタリア人・マヌー(エットレ・マンニ)は献身的に、家畜の救助に当たっている。
それを遠くで眺めているのは、くだんのマドモアゼルだった。村ではそれまで2度、火事騒ぎがあった。
不幸にして、何人かの死人が出た。
続く不幸に、村人たちは、犯人は流れ者のマヌーとその息子、および友人(ウンベルト・オルシーニ )ではないかと噂するのだが・・・
といったところからはじまる物語で、観客としては、続く不幸はマドモアゼルの仕業とハナからわかっている。
なので、異常な精神を持った女性のサイコドラマかしらん、というのは後年、その手の映画を観てきた者の観方。
製作された60年代半ばには、それほどサイコサスペンスは多くなかった(とはいえ、それなりの数はあったが)ので、マドモアゼルに何らかの復讐心があったのではなかろうか、と推察するわけ。
マドモアゼルが教える教室にマヌーの息子も来て授業を受けているが、彼に対するマドモアゼルの態度はいつでも厳しい。
厳しいというより、何らかの意趣返しのようにもみえる。
するうち、これまで接触のなかったマドモアゼルとマヌーは、ある日、森の入口で出逢う。
マヌーの性的魅力溢れる肉体と顔つき。
あまつさえ、マヌーは森で見つけた大きな蛇を身体に巻き付けている。
アダムとイブ、その関係を破綻に導く蛇と同じく・・・
そして、マドモアゼルは彼を初めて見た日のこと思い出す。
夜の道。
精悍な肉体。
若さも衰えようかというときのマドモアゼルにとってのその性的魅力は抗いがたい。
しかし、なんと言って接触すればいいのか。
困ったマドモアゼルはタバコを口にするも、通り過ぎるマヌーの魅力ゆえ、手元がおろそかになり、タバコを納屋脇に落としてしまう。
結果、それが引火して火事騒動となるのだが、マヌーはそこでも獅子奮迅の活躍をみせる。
残された者の救出。
踊る肉体、発散される性的魅力。
叶うことならば、再び彼の肉体の躍動を観てみたい・・・
と、あれれ、これって「八百屋お七」かも。
ジャン・ジュネ の原案を、マルグリット・デュラスが脚色。
デュラスというと、ちょっと難解ないめーじがあるのだけれど、意外とわかりやすい。
後半はマドモアゼルとマヌーの逢瀬。
それとともに、犯人検挙に躍起になる村人の様子がカットバックされるのだが、最終的にはマヌーはマドモアゼルを犯したと目されて、私刑となってしまう。
結ばれたマドモアゼルの歓喜と、その歓喜を素直に受けいれられない流れ者のマヌー。
「明日、この村を出る」というマヌーの一言が引き金となったのだ。
意外なほどのわかりやすさを持った映画で、そのわかりやすさを映画的テクニックがカモフラージュしている。
デイヴィッド・ワトキンの陰影あるモノクロ撮影はもちろん、マドモアゼルの部屋ではクローゼットの表扉の鏡を利用して、マドモアゼルを多面的に写し取る演出(ほかにも複数の鏡像映像が登場する)。
微妙に不安定感を煽る構図、もしくは、思い切ったロングショット。
劇伴を排して、森の中のシーンでは、キツツキの木を突く音が効果的に使われる、など。
上述しなかったが、マヌーの息子とマドモアゼルの関係も微妙である。
まだ、成人していないマヌーの息子であるが、マドモアゼルに向けるまなざしは、亡き母の代替として向けるまなざしであると同時に、憧れの女性でもある、と。
微妙で、センシティブな三角関係ともいえよう。
マルグリット・デュラス脚本、ジャンヌ・モロー主演、そして英国監督というトリオ作品は他にピーター・ブルック監督『雨のしのび逢い』 がある。
こちらも機会があれば鑑賞してみたいものです。
全1件を表示