道(1954)のレビュー・感想・評価
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男と女にある孤独を神の視点から描き魂の救済に至るネオレアリズモ映画の、男の悔恨の涙
初見は18歳の時に東京のテアトルダイヤという名画座で、「第三の男」と二本立ての入場料が300円だった。前年に感銘を受けた「フェリーニのアマルコルド」に続くフェリーニ作品二本目であり、男と女の根源的なテーマのネオレアリズモ映画の神聖さに感心はしたが、内容を深く理解したとは言い難い。それは、その後何度か見直して観るたびに感動を新たにする経験から振り返っての感慨である。本当に良い映画の中には、観る者の人生経験の積み重ねで漸く辿り着くものがある。特にこの映画は、粗野で暴力的な旅芸人ザンパノが持つ男の、愚かでデリカシーの無い精神が強靭な肉体と共存して描かれて、最後は肉体が衰えて漸く自覚する悔恨の念が物語を閉める。女性の愛を受け止められない男の罪、女性の有難さに気付けない幼さ、そして失って初めて思い知る女性の優しさ。男として駄目なザンパノと純粋無垢で汚れの無いジェルソミーナの、このふたりの人生の道が悲劇に終わる教訓劇として、この映画には考えさせるものが多い。大分昔、映画好きなある作家が数十年振りに学生時代の旧友に再会して、お互いの生涯のベスト映画を紙に書いて照らし合わせたところ、この「道」であったと映画雑誌で知って、何て素晴らしいエピソードだろうと思ったことがある。現代ではザンパノのような酒と女と力自慢だけの男は生きて行けないだろうから、これはあくまで男尊女卑の時代背景におけるフェミニズム映画としての価値を見極めなければならないだろう。
この作品の中で特に印象的なシーンは、イル・マット(キ印)と呼ばれる綱渡り芸人とジェルソミーナの会話場面であり、そこで語られる台詞がシンプルに深い。ジェルソミーナが“私はこの世で何をしたらいいの”と生きて行く希望を見失って呟くと、イル・マットが何かの本で知った言葉、“この世の中にあるものは、何かの役に立つんだ”と語りかけ、“こんな小石でも何か役に立っている”と慰める。イル・マットは態とちょっかいを出してザンパノの怒りを買ういたずらっ子のようなお調子者に見えるが、ザンパノは犬同然で吠える事しか出来ないと見抜いて、ジェルソミーナに惚れているのに伝えられない不器用さを可哀そうと憐れむ。フェリーニ監督は、この映画でジェルソミーナの孤独、ザンパノの孤立、そしてイル・マットの虚無感と、三人三様の独りぼっちを、道を行き交う人間の社会の縮図の中で巧みに描いていく。そして、イル・マットが綱渡りの曲芸を披露する時に着るのが翼を付けた天使の衣装で分かるのは、彼が神の使いであること。ローマ・カトリックの精神的支柱を持つフェリーニ監督自身が抱える、魂の救済と神の愛と恵みが、この映画の本質であるのだろう。異教徒の私でも胸を締め付けられるようなシーンがある。それは、修道院のシークエンスで描かれる、ジェルソミーナとひとりの尼僧とのやり取りだ。優しい言葉を掛けて気使うその尼僧は、ジェルソミーナの境遇も純粋さも見通して接してくれる。ザンパノが教会の銀の装飾を盗んだ罪に打ちひしがれて涙をみせるジェルソミーナとのシーンは、別れを惜しむ心配顔の尼僧との対比が何とも切ない。後に盗まれたことを知った尼僧のこころを想像すると居た堪れなくなる。これこそ映画で表現できる人間の感情、そして人の繋がりを感じさせるシーンではないか。この映画のテーマは、人間の孤独と絆について考察した悲しいリアリズムである。ラストシーン、ザンパノは夜空を仰ぎ見、後悔の涙を流す。そこには愚かな自分に漸く気づく自責の念と、神に対する懺悔の感情が入り混じっていると思えた。
ザンパノを演じたアンソニー・クインと、ジェルソミーナのジュリエッタ・マシーナ。映画史に遺る名演だと思います。クィンは特に最後のうらぶれた男の姿を見事に演じ切っている。撮影当時30代前半だったジュリエッタは、厳密に言えば主人公の少女設定からは大分かけ離れてリアリズムタッチに合わないのに、何の違和感もない。これは凄いことである。舞台の演技を映画の空間で魅せるその表現力の豊かさ。ザンパノとイル・マットの事件から精神に異常をきたすところが白眉であり、それでも可愛らしさを失わない女優としてのチャーミングさは、他に例を見ない彼女だけの個性である。ニーノ・ロータの音楽は、フェリーニ映画を更に神聖な映像の世界にして、ジェルソミーナの無垢さに優しく繊細に共鳴していて、これも映画史に刻まれた名曲である。
フェリーニ監督作品では、この「道」と「甘い生活」、「81/2」、そして「フェリーニのアマルコルド」が素晴らしい。淀川長治氏は晩年の選出で洋画ベストテンに「81/2」と「フェリーニのアマルコルド」の二作品を挙げていたものの、「道」の評価について調べても、あまり評論を残していない。日本公開の1957年の2年前に催されたイタリア映画祭の上映で鑑賞されたとある。また、別の記事では、(「道」は映画にへつらった)とあり、特に絶賛ではなかった。同じ年に公開された「カビリアの夜」の方を高く評価されていた。後に映画伝道師として「道」について多く語るようになり、変わっていったのではないかと想像します。個人的に意外に思ったのが、飯島正氏が85歳の時に選出した洋画ベストテンに、「大いなる幻影」「天井桟敷の人々」「野いちご」「夏の嵐」と並んで、この「道」を挙げていたことだった。フェリーニ映画で最も心に感じた作品と述べていた。
追記
この映画に出会って後に、永六輔氏の新書を読んだ時、何故男の身体に乳首があるのか、の疑問の答えの追跡を読んで、思い出したことがあります。それは、母体で受精した時点で人間の身体は誰もが女性の身体であること。その後に男と女に分かれ、生まれる時は完全に性別を特徴とする内容で、そのため男に必要のない乳首があるという事でした。医療が発達する以前は、男児の死亡率が高く、そのため自然の摂理で男の出生率が高いとは聞いていたが、それは生命体として男の身体は脆弱であることを意味して、それが乳首に象徴されているということ。ザンパノは鋼鉄より強い粗鉄製の鎖を身体に巻くが、何故か最も筋力が張り詰めるトップサイズの胸囲にはもっていかない。それは偏にそこに乳首があるから。男の強さを見せびらかし、肺と胸の筋力を誇示するザンパノの芸には、男の弱さも兼ねた姿が窺えて興味深い。
ストーリーも良いが、それよりも演技!
2012年8月第三回午前十時の映画祭にて
変わらないテーマ
退屈紛れにアマゾンプライム、サーフし何十年ぶりに見ました。
学生時代に新宿の地下で観た時は、感じなかった寂寥感、みたいなものが心に残りました。
モノクロだからかもしれないけど画面から醸し出される荒涼とした風景、…
アメリカンニューシネマのラストショーにも通じるような乾ききった大地…
貧しい人々…、世知辛い人間関係…
映画が上映されて何十年たった現代の今日においても根底では、何も変わっていないんだと思う。
ラスト、ザンパノが(一人でいたいんだよ)って台詞、ホントは、その裏返しで一人ぽっちにしないでくれ!って言ってるみたいで切ないです。
ジュリエッタ・マシーナの泣きながら笑う演技とニーノロータの物悲しいメロディが秀逸です。
旅の哀愁と人間のサガ
まず、昔の旅芸人の旅というだけで趣きがある。そしてそれに人間模様も絡んできて、観終ったときには何とも言えない気持ち。
ジェルソミーナは印象的。この女優の演技は凄い!と思った。子どものようなピュアなかわいい笑顔がすてき。修道院を去るときの涙は、こんなに切なくて美しい涙のシーンって今まで見たことがあったかと思うほど感動した。
ザンパノをあまり責める気にはなれない。彼には生活があったのだ。彼の生い立ちにもいろんなことがあったと思う、彼は彼なりに現実的に一生懸命生きているだけなのだから。
心に余裕のないザンパノを、イル•マットはからかった。障害者を巡ってのこの映画のスタンスは、イル•マットの言動に集約され象徴されていると思った。
最後のシーンでザンパノは、もしかしたら海に入っていくのでは、と思ったが、そうはならなかった。
でも、それでいいのだ、とも。彼のその後の人生が変わっていきさえすればいいのだから。
見ていて少しだけしんどかったのは,話の流れが読めなかったからだろう...
名作鑑賞
フェリーニはゴダールの様に華やかさに欠けていると
感じていて、現代ではなかなか観るのに
積極的になれなかったが、観て良かった。
この映画はカトリックの精神をもって魂の救済を描いているらしいが、そこを気付けるわけもない。
ただ、道端でうずくまる横を
自然に馬が単体で通り過ぎるシーンは
非常にアイロニーに満ちていた。
ストーリーだけをとると
ものすごく単純で
一つの出来事が大きなうねりとしてあるわけだけど
粗野な男と純朴な女性との距離感を
物理的移動とともに見せてくれる分
風景を楽しみながら、飽きずに見れるのが良かった。
このような映画文学のようなモノが
今もヒーロー映画とかとは違った文脈で続いているのが
映画という芸術がまだ生き残れている所以であり
エンタメで良い映画と、芸術でいい映画の2つは
これからも続いてほしい。
日本映画における金がないから、チープな顔面映画は
無くなっても構わない。
ジェルソミーナは天使
切なくなるな
まず何が悲しいって、こんな男に子供を売らなければいけないほど貧しいこと。それで娘を2人も立て続けに失った母親。最初に売られた娘は一体何が原因で亡くなったのだろう?
ジェルソミーナの健気さと純粋さ。やっと自分の居場所を見つけられた気持ちだったのだろう。綱渡りの男イルマットからの助言を素直に受け止め、鎖男ザンパノと再び一緒に旅をする事を選んでしまった。
そこでまさかの事態が起き、ジェルソミーナは2人の自分にとって大切な男の狭間でもがき苦しむ。綱渡りの男イルマットから教えてもらった曲をずっと吹いていて多分彼女なりの恩師への弔いだったのだろうな。
ジェルソミーナは愛している人に何度も捨てられて非常に悲しい映画でした。この状況、精神病むよなぁ・・ザンパノみたいな男に二度も娘を預ける母親の心境が理解出来ない。金持ちの家の住み込み家政婦とかでどうにかならなかったのか。
人生には幾つもの分岐点があるけれど、その選んだ「道」は後戻り出来る場合もあれば、取り返しのつかない場合もある。人との出会いや自分で選んだ道。先が見えないからこそ希望を持ち生きていけるのかもね。
あの時、修道院を選んでいたらジェルソミーナは幸せに過ごせたかな
Essoの看板あるけど、あのEsso?
死んだ姉が手伝いをしていた大道芸人、ザンパノに買われたジェルソミーナ。
各地を回るものの、ザンパノの女癖の悪さや自分への酷い扱いに、ジェルソミーナはなんだかモヤモヤ。
そんなある日、同じ大道芸人のイル・マットに出会い…
人の死や自分とは何かについて、改めて深く考えさせられる作品でした。
子供のように無邪気で純粋無垢なジェルソミーナ、冷たく獣のようなザンパノ、そして嘲笑的なものの良いこと言うイル・マット。
どのキャラクターも個性的で魅力的。
ザンパノやイル・マットが、良い部分も悪い部分もあるキャラクターだったため、ジェルソミーナの純粋さが際立っていました。
石でも何かの役に立っている。
終始、ジェルソミーナのなんとも言えない悲しみや苦悩が伝わってきました。
彼女にはもっと幸せになってもらいたかったと、エンディングの海岸でのザンパノのような気持ちになりました。
今まで観てきたフェリーニ作品の中では、フェリーニらしさ抑えめでしたが、それでもニーノ・ロータの音楽や人々の営みなどにフェリーニらしさが現れていました。
また、ジェルソミーナ役のジュリエッタ・マシーナさんはフェリーニ監督の奥さんだそうで。
ちょっと変わった感じのなんだか独特な雰囲気もありつつ、どこにでもいそうなリアルな仕草の芝居のおかげでとても身近に感じ、感情移入しやすかった。
なんとも悲しそうな表情がリアルでリアルで。
とても良かったです。
難しい部分もありましたが、8 1/2よりは明らかに観やすい。
意外に深い内容で、どの登場人物の気持ちも理解できる。
芸人という人を楽しませる職業からは想像もつかない、悲しい物語でした。
「俺は一人で生きていけるんだ」 この叫びの虚しさ。
この映画の二人はなんて切ないんだろう。
この映画を観た後、なんて人が恋しくなるんだろう。
それは”恋”と”愛”とかの言葉が薄っぺらく見えるほど。
ジェルソミーナの行為は自己犠牲・自己アイデンティティの確認・自己満足ともいえるが、今流行の自己顕示とは対極にあるもの。
一見DV・共依存カップルのようにも見えるが、ジェルソミーナはサンパノを支配しようとはしていない点で、単なるDV・共依存カップルとは袂を分かつ。
親が子を売り飛ばすような環境での物語。ザンパノだって似たような境遇だったのかもしれない。誰かに大切にされた経験がない男。一人で生きてきた男。路上ライブ同様に相手にされない時の世間の冷たさも半端ないだろう。バイトもできないあの頃なら、生きていくだけで精一杯。
愛の表し方どころか、愛そのものさえ認識できない。
そんな二人の関係をシンプルに丹念に描き切っている名作。
単なる善と悪という二元論で語るには勿体ないほど、暗喩に富んだ物語。
途中出てくる馬とか、病床の少年等、何故ここに挟み込まれる?というエピソードが、まだ消化できていないけど、これから何度も見ているうちにイメージが膨らんでくるのかしら。
あの『8 1/2』の監督作品だもの。きっとまだまだ私が気がついていない暗喩が挟み込まれているんだろうな。
語りつくされているけれど、ジェルソミーナの表情が素晴らしい。
初めてザンパノに会った時、大道芸能の時、食事をしている時、置いてけぼりになった時、綱渡りの男との場面…。
ピエロの如くな表情。うれしさに打ち震える表情。人を引き付ける瞳。悲しさとあきらめをたたえる瞳。
確かに、ここでこういう表情をするかという微妙な表情をするので「頭が弱い?」ように見えるけど、チャップリンのパントマイムにも似て、言葉で語られるより、万華鏡のように観るたびに様々な想いを想像してしまう。
特に、ザンパノと別れる時の表情がぞくぞく来る。誰よりも誰よりも深遠なる真理を知っているかのような表情…。
ザンパノも素晴らしい。
少しだけの、不器用な思いやりの見せ方。ジェルソミーナのその後を知った前と後との、持ち芸の見せ方の違い。そして自分の心の奥底にあったものが溢れだしてきた時の表情…。
字幕版だと画面に集中できないから、幻の市川悦子さん達の吹き替え版で観てみたい。声の響きによる解釈が加味されて、もっと多層的になるんだろう。
あらゆる断片をとりあげて絶賛したくなる映画です。
どうしてこんなに泣けるのだろう?
絶品。
"旅芸人" という、通り過ぎて行った時代の風景(今でいうサーカスや大道芸なんですね)
粗暴な旅芸人ザンノパ、彼に買われて助手となる知的障害の娘ジェルソミーナ、サーカスでピエロを演じる口が達者なマットの話。
「僕は、本を読んだよ。この小石だって、何かの役に立つんだ。(だから君だって、何かの役に立つんだ)」
「この小石が、何の役に立つか? わからないよ。もしそれがわかったら、全知全能だよ」
「でもこの小石が役に立たないなら、何だって役に立たないよ」
「僕はしがらみを持たないように生きるんだ」
ああ、大好きなのに、そのことをうまく言えない人たち...
どうしようもない、どうしようもないんだね...
残念だが、これ以上書けない。涙が止まらないから。すばらしい経験だった。
ザンパノみたいな男嫌だー
見終えて道というタイトルが素晴らしい
人生は道であり、心は波であり
フェリーニの代表作と言われるだけのことはあります。
観ながら、決して美しいわけではないジェルソミーナが、どんどん愛おしく感じてくるのに驚きました。
孤独感と後悔が波のように押し寄せるラストは、映画館だと滲みますね。
「生誕100年フェデリコ・フェリーニ映画祭」で、初めてスクリーン鑑賞できましたが、テレビモニターとは比べ物にならないくらい没入できました。
後悔と孤独の極み
アンソニークイン扮する旅芸人ザンパノは、ジュリエッタマリーナ扮する頭の弱いジェルソミーナを奴隷として雇って旅に出た。しかし、ザンパノは置いてきぼりにするなどジェルソミーナにつらく当たった。ジェルソミーナは、ひとり故郷に帰ると言ってザンパノから別れた。それでもジェルソミーナはザンパノの元へ戻った。乱暴者のザンパノは、けんかの末人を殺め逃げ出した。ジェルソミーナは、現場を見て錯乱し泣いていた。ジェルソミーナが眠り込んだうちにザンパノはジェルソミーナを置いたまま出発していった。ある日、ザンパノは町でジェルソミーナが口ずさんでいた歌を聞いて思わず声をかけた。ジェルソミーナは何も語らず亡くなったそうだ。何とも不思議なふたりの旅だったが、テーマ曲の節回しが妙に残ったね。
文句なしの名作である
西條八十作詞、古賀政男作曲の「サーカスの唄」という歌がある。1933年の発表だから本作品を遡ること21年である。
(一番)
旅のつばくろ淋しかないか
俺も淋しいサーカス暮らし
とんぼがえりで今年の暮れて
知らぬ他国の花を見た
(四番)
朝は朝霧夕べは夜霧
泣いちゃいけないクラリオネット
流れ流れる浮藻の花は
今日も咲きましょあの町で
西條八十(さいじょうやそ)は「東京行進曲」などで知られる、センチメンタルな詩人である。市井の人々の物悲しい人生をときに明るくときに暗く謡いあげる。本作品にも西條の詞のセンチメンタリズムと通じるところがある。
冒頭のシーンから心を敲たれた。娘を大道芸人のザンパノに売った母親が得た当の娘に金を見せて、これでしばらく暮らせるしあんたがいなくなれば口減らしにもなると嬉しそうに話すが、いざ娘が行ってしまう段になると行かないでおくれと縋りつこうとする。この母親が身勝手なのではない。貧乏すぎて心が壊れているのだ。
売られたジェルソミーナはドストエフスキーの「白痴」のムイシュキン公爵よろしく、従順で欲がない。おまけに少食で、贅沢よりも歌ったり踊ったりが好きな女だ。昔は欲のない人間は馬鹿だと思われていたようだ。日本でも「欲がないのは駄目なことだ」という教育が罷り通っていた。いまだにそうやって教えている教師もいる。欲は文明を発達させ、生活の向上に寄与した、欲がない人間は努力しない人間になり、文明と人類の発展から取り残されるのだと。しかしそこには文明が発展することが本当にいいことなのかという反省はない。
ザンパノは欲の塊である。しかし他人に指図されるのを嫌うから独立した大道芸人で生きている。行きたいところに行き、やりたいことをやって生きる。ジェルソミーナを買ったのは盛り上げ役のピエロがいたほうが稼げるからだ。ザンパノの頭には今日と明日のことはあるが、それ以降のことはない。将来がどうなるかなんて考えても意味がない。
ジェルソミーナはザンパノと対照的に善意の塊で、欲があるとすれば承認欲求だけである。残忍で粗暴なザンパノにさえも認めてもらいたいと願う。それはストックホルム症候群かもしれないが、ストックホルムの銀行強盗事件が起きたのはこの映画よりも19年も後のことだ。人が喜ぶことをしたいジェルソミーナは、同じ意味で人が嫌がることをしたくない。本質的にはザンパノのことが嫌いだ。
人は時間と空間を移動し、出会い、別れる。ささやかな喜びがあり、少しの寂寥がある。人間は愚かだ。人生はつらい。本作品の結末は物悲しいが、世界中の至る所で同じような人々が同じような結末を迎えているだろう。
死にたかったジェルソミーナは死にたいと思わなくなった。それでも何のために生まれてきたのかという疑問は残る。人類すべてに共通する疑問である。他人の死を悲しむことは自分の死を悲しむことだ。死にたい人も死にたくない人も、いずれ死ぬ。自分の死を肯定するためには他人の死を肯定するしかない。
本作品には生も死も善も悪も、すべてひっくるめて肯定するような力強さがある。ときに人混みと熱気に高揚し、ときに寒さと寂しさに顫える。人はそうやって人生をやり過ごすのだ。意味を求めてはいけない。道があれば歩くだけなのだ。文句なしの名作である。
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