怪物団 フリークス

怪物団 フリークス

解説

トッド・ロビンの原作から「アナベル情事」「狂へる銀翼」のレオン・ゴードン、「赤熱の抱擁」のウィリス・ゴールドベックが共同脚色及び台詞執筆、なおエドガー・アレン・ウルフ、アル・ボースバーグが台詞を付加し「ザンジバルの西」「魔人ドラキュラ」のトッド・ブラウニングが監督した映画で主なる主演者は「蜃気楼の女」のウォーレス・フォード、「脱走兵」「パリの魔人」のリーラ・ハイアムス、「腕はたしかか」のオルガ・バクラノヴァ、「チャンプ(1931)」のロスコー・エイツ、「大海の底」のヘンリー・ヴィクター、「三人」にも出たことのあるハリー・アールス、及びデイジー・アールスその他の奇形児などでカメラ担当は「青空狂騒曲」「運命の兄弟」のメリット・B・ガースタ ッドである。

1932年製作/アメリカ
原題または英題:Freaks

あらすじ

フランスのテトラリニ夫人を団長とする曲馬団に働いている小人のハンスは同じく小人で女曲芸師のフリーダと婚約の仲であるが一座の美人クレオパトラの容色に迷わされて彼女を恋していた。しかし彼女は一座で大力無双を誇るハーキュルスと恋仲であった。クレオパトラはハンスの自分に対する態度に対して冷笑を以て迎えていたが彼が金持ちの叔父の莫大な財産を相続していることを知ってハーキュルスと共謀してハンスと結婚後、彼を毒殺して逃亡することを企てた。失恋のフリーダはフロソとヴィナスに自分の苦衷を訴えた。フロソはヴィナスと相愛の仲で一座の小人等に対し好意を寄せていたのでハンスのクレオパトラとの結婚に忠告を興へたにもかかわらずハンスはクレオパトラと結婚することになった。二人の結婚式後、祝宴が催され席上クレオパトラはハーキュルスと乱痴気騒ぎの挙句、ハンスを口を極めて侮辱した。ハンスは初めて女の真意を知って後悔したが他の連中は大い怒り、逃亡せんとするクレオパトラとはハーキュルスを捕まえて彼らと等しく曲馬団で見せ物にすることにした。この騒動が終わってから二組の結婚式があげられた。これはハンスとフリーダ、フロソとヴィナスの二組である。

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写真:Album/アフロ

映画レビュー

5.0普遍的作品

2025年8月13日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

1932年 アメリカの作品
邦題と原題名は非常に類似している。
この作品はサーカス団の内部を描いている。
そして見て字のごとく、サーカスと見世物小屋が一緒になったその中には、奇形や事故等で手足がなくなった者、病気によって見た目が一般的ではない人々がいる。
差別は、大昔からあると思われるが、この時代における、そしてサーカス団においてさえ、一般的な健常者とこの異形の人々は、セパレートしているのだろう。
そのことを、ハンスとフリーダの恋愛というモチーフを使って表現している。
随分前に地上波で見たことを思い出したが、内容は一切憶えていなかった。
物語そのものは、差別の極致を描きつつ、因果応報の法則とも取れる彼らフリークスの怒りによる復讐劇だが、彼らの見た目の異形と、クレアやヘラクレスの心の異形はまったく同じなのだろう。
見た目が一般的ではない彼らは、一般人を怖がる。
理由は、必ずキイの眼で見られ、なじられ、気持ち悪がられ、口撃され、そして暴行の対象となるからだ。
ハンスとフリーダは小人症の部類だろうか?
婚約しているにもかかわらず、ハンスは見た目が美しいクレアのことが頭から離れず、貢ぎ続ける。
その様子を傍で見ているフリーダは、クレアの本心をしっかり見抜いていた。
結婚パーティ
ハンスが遺産相続したと聞き、いち早く結婚に向けた計画を立てるクレアとヘラクレス
毒で殺して遺産を横取りする計画だ。
パーティはフリークス主催で行われたため、一般人の参加は当人のクレアとその友人ということでヘラクレスの二人。
しかし、クレアの本心が明るみになった。
さて、
ハンスはいったいどの時点で、そして毒を持った犯人をどうしたかったのだろう?
フリークスに対し、この言葉を遣って口撃することは、彼らにとっての最大の侮辱だ。
加えて偽装結婚で遺産を横取りするなどというのは、フリークスにとって許しがたいことだった。
サーカスにはフリークスも必要だが、クレアのように飛び切りの美女もまた必要だ。
物語は丸く収まっているが、サーカス団としては計画されたものは毒の瓶を取り上げ、犯人がクレアだったことを証明するだけだった。
しかし、クレアとヘラクレスの「計画」を聞いたビーナス
ヘラクレスを脅してみたが、彼は彼女を殺しにやってきた。
おそらくこのことが計画のすべてを狂わせたのだろう。
この事実により、フリークスは腹が煮えくり、我慢の限度を超えた。
冒頭 現在のサーカス団の中の見世物小屋の説明をするバーカー
彼の話 いったいなぜ彼女がこうなったのか?
この「事と次第」がこの物語
このオープニングも良かった。
昔日本で流行った「東洋のだるま」を思い出す。
この作品当時は、大っぴらな差別があったが、このような場所で働くことができた。
昨今、企業に求められる「障害者枠」
表面上の制度だけでは生きていけないのが実情
どこかのお笑い芸人は「女としてこんな顔に生まれて来てしまったから、お笑いしか道はなかった」と語ったのを思い出す。
「何でも同じ」が良いとされた2000年以前
「枠」という絶対的概念があった時代
多様性が認められるようになってきた現在だが、「生きやすい」という意味では程遠いように思う。
人間のその心理がアップデートされるには、いったいどうしたらいいのか?
そんなことを表面上出しておきながら、「統一」に走る世界情勢
グローバル化がもたらした間違い。
この作品はそんなことまで考えさせてくれる。

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R41

4.0邦題がすごい

2025年8月9日
PCから投稿

アメリカ国立フィルム登録簿作品です。
前半は正にフリークス全員集合。後半から話が動いてスリラーも十分です。
上映禁止になったり、監督が失職してしまったのは理解できますが、むしろ弱者寄りの視点です。

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越後屋

3.0この映画を封印するのが良い社会なのか、観ることができるのが良い社会なのか

2025年3月18日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

単純

『フリークス』という題名が直接的すぎて、もう少しどうにかならなかったのかと思う。
日本での初公開は昭和7年(1932)。
そのときのタイトルが『怪物團』である。
なお悪い。
原題にしろ邦題にしろ、こんな題名では封印されてしまっても仕方がないとすら思ってしまう。

監督はトッド・ブラウニング。『魔人ドラキュラ』(1931)を監督して、それまで小説や舞台劇のキャラクターだったドラキュラのイメージを広く世界に知らしめた才人である。
『魔人ドラキュラ』は大ヒットしたが、『フリークス』の方は公開当時から物議を醸し、監督トッド・ブラウニングの映画界でのキャリアに終止符を打ったと言われるほどの問題作になってしまった。

なぜ問題作なのか。
それは、本当に障害のある人たちが多数出演していて、そのことが観客にショックを与え問題視されたからである。
ホラー映画に対する規制が厳しいイギリスでは30年間公開が禁止されていたという。

確かに、出演している障害者の人たちの姿は衝撃を受ける部分はある。
また、作品のテーマとして「自分たちを虐げる健常者に対する障害者の怒りと復讐」というのがあり、それも当時の観客にとってはかなりショックが大きかったようである。
ただ、物語自体はオーソドックスだし、ネットが普及して刺激慣れしている現代人の目から観ればそれほどショッキングな内容でもない。

Wikipediaの出典元となっているクラシック映画情報サイトによれば、そもそも出演している障害者の多くは見世物小屋の花形スターたちで、自分の小屋を持っているような人気者だったという。
そう思って観れば、彼らはみな演技が巧みで非常に芸達者で舞台慣れしている。
そのことも、この映画に対する拒絶感を和らげることに役立ってはいる。

しかし。しかし、である。
何をどう綺麗事で言い繕ったとしても、この映画が障害のある人たちを興味本位で見世物扱いし、あまつさえ笑いのネタにしているというのは事実である。

たとえ、当事者たちが納得ずくで出演していて、見世物小屋のスターとして高収入を得ているような成功者だったとしても、やっぱり現代に生きる我々は彼らの姿を直視することにためらいや罪悪感を感じてしまうだろう。

それでも、自分はこの映画を人目に触れないように封印してしまう社会よりは、観ることのできる社会の方が、まだ風通しが良くてマシなのではないかと思っている。

障害者問題というのは非常にセンシティブで、ともすれば「見ざる、聞かざる、言わざる」「触らぬ神に祟りなし」「臭いものには蓋をする」といった感じで健常者の目に触れないように、話題にも上らないように追いやられてしまいがちである。

どんな問題でもそうだけれど、一番厄介なのは「とにかく波風が立たないように隠しておく」という「事なかれ主義」であり、少なくともこの作品は良くも悪くもそういう「事なかれ主義」に風穴を開けるような存在だと思う。

トッド・ブラウニングには障害者の差別問題を世に問うといった高尚な意図はそこまでなかったと思うが、彼自身がサーカス出身であり、障害者の芸人たちはかなり身近な存在だったようである。
映画の中でトッド・ブラウニングは障害者の芸人たちをサーカスという芸能の世界で苦労しながらもたくましく生きる者たちとして描いており、彼が一般的な良識や道徳とは違うところで障害者芸人たちのことを「観客を驚かせ、楽しませる仕事をする同じ仲間」だと意識していたのが察せられる。

現代的な良識や道徳といった視点に立つと、やっぱり障害のある人たちの中にはこの映画に不快感を感じてしまう人も多いんじゃないかと思ってしまう。
でも一方で、障害のある人たちを聖人君子扱いしたりせず、彼らも健常者と同じように欲望も野心もある普通の人間なのだという視点に立てば、自分も映画に出てみたい、観客を楽しませたい、あるいは芸能界で一儲けしたいと思う障害者の人たちがいたって全然おかしくないという見方も成り立つ。
しかし、事なかれ主義の現代の日本において障害のある人たちが一般的なエンターテイメントの世界で映画やテレビに出演する道はほとんど閉ざされているといっていい。

アメリカの映画やテレビでは、低身長症の人や耳の聞こえない聾唖の人が俳優としてけっこう普通に活躍してたりするが、『フリークス』はその先駆けであり、そういう下地を作る存在だったと言ったら言い過ぎだろうか。

手放しで人に薦められるような映画では決してない。
人によっては「かわいそう」「不快だ」「興味本位でけしからん」と拒絶反応だけで終わってしまうかもしれない。

けれど、障害のある人たちと一緒に暮らせる風通しの良い社会とはどういうものなのか、さまざまなことを考えさせられる映画であり、そういう議論のきっかけになるだけでも存在意義がある映画だと思う。
少なくとも自分は観ておいて良かったと思える一本だった。

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盟吉津堂