「虫けらの死」永遠の0 グダールさんの映画レビュー(感想・評価)
虫けらの死
戦争で死んでいった人は、こんな綺麗な死に方はできなかった。
死に方さえ選べなかった。
特攻の直前は「死にたくない」と叫んで心神喪失状態になった。
怖くて失禁した。怖くて失神した。
どこに、手を挙げて完全に自発的に特攻に行った人がいたのか教えて欲しい。
どこに、故障した戦闘機を部下と取り替ることで身代わりとなって特攻に行った人がいたのか教えて欲しい。
「これはフィクションだから」という言い訳は、テーマの性質上許すことはできない。
映画の影響力をなめないで欲しい。プロパガンダ映画が国民を洗脳した時代もあったほどだ。
この映画を見て「戦争とは立派な死に方を可能にするものなんだ」と考えた人は多数いると思う。
違う。
戦争で死んでいった人は虫けらのように死んでいったのだ。
なんの意味もなく死んでいった。
特攻の人なんて特にそうだ。
特攻したからって戦局が変わるわけでもなく、ただ相手に突っ込んで死んだ。
戦争で立派に死ねる人なんていない。
死で自分を表現することさえ許されない。それが戦争だ。
戦争で生み出された死に意味を見出すとすれば「戦争とは意味のない死を生み出すものだ」ということを私たちが、その死から学ぶことしかないと思う。
映画が戦争を生み出しうるということを学べたことが、この映画の唯一の収穫だ。
この映画を記憶から消したいと言った井筒監督の気持ちがよくわかる。
そして、この映画がアカデミー賞を獲っているということが怖い。
あまりにも無知で軽薄な観客も罪だと思った。
色んな人たちの、レビューを見てもう一言付け加えます。
「バーカ」
映画ほかメディアが出すものはその資金を出すスポンサーの意向に影響されるのは否めないから大半はプロパガンダなんだから、こんなに真面目に考える方ならポレポレ東中野などミニシアターが上映するドキュメンタリー系映画で語った方が議論できる人多いと思いますよ。
第二次世界大戦の特攻隊という、非常にデリケートな題材を扱っているのに「この映画は戦争を描いていません」ってそんな理屈が通ると思いますか?
エンドロールに「これはフィクションです」って出してくれるなら百歩譲って、理屈は通ると思いますけど。笑
「人として大切なもの」を守れなかったのが、戦争ですよね。
「人として大切なもの」を自ら壊してしまったのが戦争ですよね。
あなたが戦争を通して「人として大切なもの」を守ることができると考えるのなら、それは間違いだと思いますよ。と指摘することしかできないです。
あなたの言うように、戦争を扱っていながらにして戦争を描いていない映画ってあると思います。
ただ、あるからといってそれが正しいということにはならないです。
間違ってるとは言いませんが、よくないなぁと思います。
映画は教育として作られたものではないという意見には同感です。
それに私は、映画は教育に使われるものだからダメだなんていってませんよね。
教育には使われないけれど、影響力はありますよね。
記憶に映像として残るんですから。
戦中に多くのプロパガンダ映画が作られたことからもそれは明らかです。
影響力がある以上、事実に基づかない「戦争映画」は、戦争を散華する機会だというイメージを植え付けてしまう懸念があると私は言っているだけです。
そんなにめちゃめちゃなこと言ってますかね?
映画というのは大衆に見てもらうものであって、教育として作られたものではないとおもいます。そして、あなたが戦争を体験したお方ならば、私はなにも言えませんが。
山崎監督が作りたかったのは、「戦争でかっこよく死ぬ」ということではなくて、私はこの映画の台詞の中で、「あの人は自分が死ぬことが怖かったんじゃない、家族げ不幸になることが怖かったんだ。」という場面があります。この映画は第二次世界大戦を題材に扱ってますが、本題はちがうとところ〔人として大切なもの〕を描いているのだと思います。
山崎監督の他の作品も見てみてください。寄生獣とかも侵略を主題にしてないですよ。
戦争を扱っているからといって、描きたいものは他にある映画って意外に多いですよ。
こういう死に方って、自分の周りを取り巻く状況の厳しさよっては、生きることよりも魅力的なことに思えてくるものだと思います。
だからこそ、史実に基づかない安易な戦死を描く映画は危険だと思っています。
ここに出てくる主人公は、自分の死をもって自分の家族への気持ち、自分の国への気持ち、仲間への気持ちを表現したという意味では、綺麗な死に方と言ってもいいのではないでしょうか。
ここでの「綺麗な死に方」とは、戦時中空爆で死んでいった方達のような「死に方を選べない惨たらしい理不尽な死」と対句になるものとして定義しています。