「”やっぱり”という状況咀嚼」そして父になる アーモンドの花さんの映画レビュー(感想・評価)
”やっぱり”という状況咀嚼
”やっぱり”(だったと思うあの時のセリフはたしか)というあのセリフの一言で主人公が状況をかみくだいたのだ、(そうなんじゃないかと思ってたんだ)と思うことで自分におきた一種ありえないことをとりあえず”やっぱり”ということにしてしまう。つまり、なんでそんなことが、おきてはいけないことが、自分の身におきてしまったんだという心の動揺をまとっていたシャツみたいなものを脱いだかのような、その一言でぜんぶ片づけてしまいたい、という意思のようなものを勝手に思った。
断片的に残る印象をあげてみると、家族のカテゴライズにかかせない(たまご)、つたないピアノ、いつまでたってもうまくならないピアノ、3年かかっても同じ曲ばかりひく近所のピアノ、弁護士の友達が(好きになっちゃいそう)と言ったあと、(いったい誰から愛されたいのかな)というあのセリフ。これを強調させるため(好きになっちゃいそう)と、ちょっと同性愛っぽいおふざけみたいなセリフが前ふりにあったので愛されたい、というキーワードにきがついた。結末として、取り違えしたけどそのまま家族として暮らす、のなら、結果として主人公の子供からみると、(本当の両親じゃない二人)に育てられることになる。どっちに転がっても繰り返される運命の皮肉。あんな父親になるもんか、あんな母親認めるもんか、と思いながら敬語で壁をつくる。そしてそれを自分の実の子にみとめて動揺する。血のつながった親子のはずなのに、琉晴の中に本当の自分が客観的に浮かび上がってくる。自分の理想の子供は慶多、こういう子供時代でありたかった、しっかりした両親のもとでしっかりした教育をうけていきたかった。しかし血のつながった子供は自分そっくり。そして恐れる。大人になった実の子は、はたして自分が実の父にした(それ)と同じことをするのかと。
まだある、まだなにかこの映画で私もまた気が付かなかったこの自分の感情に出会いたい。これはなんなのか知りたい。言葉で世界にあらわしたい。しかし現時点で知っている言葉のすべて使っても(それ)にたどりつかない。
この映画の空気にもぐりこんでみればわかる。