「”父”とは、”親”とは何なのか?」そして父になる とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)
”父”とは、”親”とは何なのか?
とても大切なことを投げかけた題材(だからカンヌで絶賛される)。
家族とは何なのか、幸せとは何なのか。
父とは何なのか。
上映後の監督のスピーチで聞いた。
監督の娘さんの一言をきっかけにして生まれた作品だそうだ。家から仕事に向かう監督に、娘さんが言った一言「また、来てね」。手塚治虫先生もお子さんに言われたとどこかで読んだ。
偉大な仕事をする男は、そうならざるを得ないのか。けれども、それでいいのか。そんな疑問がよぎる。
監督も「父としてこれでいいのか」と思ったとか。
だからか?
監督が娘さんとやりたかったことが、斎木家に投影されているんじゃないかと思う演出。
「慶多が良多を尊敬して良多みたいになりたいと思っているから、良多だってそれなりの父だった」というコメントをどこかのレビューで拝読したが、一概にそうとは言えない。
このくらいの年の子どもは、自分を虐待する親のことも肯定して、虐待する親のようにふるまえないから、暴力を振るわれると思う。虐待する親を理想化して虐待する自分を価値のないものだと思い込む。だって、”家族”が”法”であり、”世界のすべて”。それ以外の価値観を子どもは知らない。(”家族の価値観”以外の”価値観”を知るために”学校”は大切。)
”父”という役目を誤解していた男の成長譚としてみれば、それなりに見られる映画なんだけれど…。
”家族”の物語として観てしまうと…。
あの流れで、子どもを取り換えるか?と唐突。お試し期間だとしても。「交換しなきゃね」と思わせるような描写がもっと欲しかった。
また、周りの人々とのやり取りの中で野々宮が自分の生き方を振り返るのは良いとして、
カメラのシーンは涙を誘うけれど、『そして父となる』というテーマなら、息子たちとのやり取りの中でももっと葛藤・気づきを得てほしかった。
とってつけたように、一番従順だった息子の反乱が描き出されるけれど、そこも唐突。慶多の描写は、今までにない自由な環境で楽しんでいる描写しかなかったのに。慶多が過剰適応していると匂わせてくれるショットが少しでもあればよかったのに…。
もう一人の息子との心の掛け違えの描写は秀逸。でもあのシーンだけ他で撮ってはめ込んだような違和感…。
そして、この事件の現況の家族。血のつながりについて、良多が思いをはせるきっかけとしては重要なエピソードなのだけれど、ここを削って二つの家族と子どもをもっとじっくり描いてほしかった。
そして、笑っちゃうほどステレオタイプな人物造形。
子ども目線で子どもと心の交流するけれど、躾のできていない斎木家。
子どもの気持ちなんて無視する管理者気質+過干渉的な関りしかしないけれど、躾と教育はしっかりしている野々宮家。
衣装にも意味を持たせてコーディネートしている話を伺うと、そこまで設定するのかすごいなと思うのだけれど。
その対比すらも表面をさらったような描写。
何より、上にも記したけれど、子どもたちの気持ちが表現されていない。当事者の二人の戸惑いはあんなものなのか?兄弟たちは?突然兄がいなくなったらそれなりの反応があるだろう。
ドキュメンタリー手法を得意とされる監督と聞く。
『誰も知らない』では成功した手法だが、この作品に合っていたのか?
ドキュメンタリーなら、かえって実際にこのような被害にあわれた方を取材した方が、もっと迫力のある、真実が描き出されたのではないか。
ー取り換え事件を描きたかったのではないのだろうけれど。
ー”父”としての自覚が芽生えていく過程を描きたかったのなら、『クレイマー、クレイマー』のシチュエーションの方がシンプルだったと思うけれど…。
監督ご自身がまだ”父”としてどうあるべきか迷っていらっしゃるのではないか。
”父”として現役だから、これ以上思索を深められなかったし、客観化が中途半端になってしまったのではないか。
二兎を追う者は一兎をも得ず。頭で考えた感の演出・脚本が、今一つ乗れない。
血か時間か。よくわからない。
狩野先生という精神科医がある講義で「一緒に過ごす時間が家族を家族としてくれる」とおっしゃっていた。
血のつながりはなくとも、人として尊重して愛され育まれている子どもを知っている。
血のつながりがある親から搾取されている子どもを知っている。
血のつながりはあり、同じ家に住む父を「たんなる同居人」という青年~大人は多い。
取り換え事件に巻き込まれた家族を調査した論文では、100%”交換”をして、成功したらしい。
論文を読んでいないから反証はできないが、”成功””適応”をどのように評価したのか。
年齢にもよるが、子どもは大人の決定に従わざるを得ない。自分で変えられない環境なら”適応”するしかない。
子どもは授かりものである。
子どもを”作る””育てる”という感覚が身についてしまったけれど、
子どもとの時間は、子どもが与えてくれるもの。子どもがいなければその時間は存在しない。
子どもがその人の元に来るおかげで、その人は”親”になることができる。
なのに、いつから私たちは、そのすべてを私たちがコントロールできると思い込んでしまったのだろう。
親子の関係。最終的に当事者の子どもにしか評価できないのだと思っている。
カプセル親子、双子親子、友達親子という言葉ができて久しい。毒親という言葉もメジャーになってきた。
甘やかすだけでもダメ。厳しいだけでもダメ。
子は意外に親をちゃんと見ていて判断している。その躾や行為を誰のためにやっているのか。
自分のために生きるのか、誰かのために生きるのか。
血であろうが、時間であろうが、親子になるのは難しい。
(区の企画鑑賞会にて)