「キスまでは許される」カノジョは嘘を愛しすぎてる Takehiroさんの映画レビュー(感想・評価)
キスまでは許される
『カノジョは嘘を愛しすぎている』(2013)
流行りというか当たり前になった漫画が原作らしい。舞台設定も突飛ではある。商業主義に嫌気がさして人気ミュージシャンのグループの表に出ず、作詞作曲などの裏方になっている男(佐藤健)が、恋人がプロデューサーの愛人になっていた事などに対してむしゃくしゃして、適当に歩いていた女子高生(大原櫻子)を好きな気が全くないのにストリートで口説いて、女子高生のほうは本当に彼を気に入った。タイトルの嘘は、人気ミュージシャンという身分を隠しての嘘や、好きな気はさらさらないのに、好きな振りをしている嘘。そういう始まり。古くは日活のスターにしても歌手と俳優を兼ねてきた人は大勢いるのだが、この映画も俳優が歌うし、『キセキ あの日のソビト』もそうだし、それも商業主義との確執が入っていた。しかし、なぜか女性の歌手が映画女優もしてキスシーンもあるような作品は、私的に嫌な気がしていて、『タイヨウのうたの』YUIなんかもそうだったと思うが、この映画と同じ小泉徳宏という監督だった。劇中、プロのミュージシャンが影武者として演奏して本人たちは弾いてないみたいなシーンがあるが、それは実際にあるのだろうか。何が本当で何が商業主義に染まった嘘なのか。プロデューサーが反町隆史だが、この映画ではバンドはそういうのを辛いながらも了承する。だがプロデューサーが帰った後で怒るが、糞みたいな演奏しかできない俺たちが悪いんだと一人が言う。テレビドラマをみてないが、フジテレビ福山雅治主演の『ラブソング』の藤原さくらなんかも似た話かも知れない。大原櫻子も、5000人のオーディションで選ばれたということで、もともと歌が上手だったのも選ばれた理由だったらしく、女優としては佐藤健とキスシーンもあるのだが、大原にとってはスタートの作品であり、ここら辺が、作品内に出てくるプロデューサーのような大人の都合みたいなところで、当時は現役女子高生だったらしく、そうした清純な身持ちのような状態の人間が、女優のような歌手のようになっていくが、大原の場合は、その後歌手のほうを主体にしているのだろうか。そうみると、YUIのほうがミュージシャンが女優をしたという順序だろうし、大原や藤原は女優と歌手の同時みたいなものか。日本という国では、援助交際という演技や、アダルトビデオ女優という演技もあるのだから、どこまでが演技かわからないが、キスシーンは欧米では挨拶程度なのか。大原も5000人規模のオーディションとは選ばれる意味の人であったのだろう。話に戻ると、プロデューサーは、佐藤健もデビューさせたが、演奏は別の人にさせるという嘘から、別の人をメンバーに出してくれとして、佐藤健の恋人も寝取ってしまい、佐藤健が嘘で付き合った女子高生もデビューさせてしまう。プロデューサーがみんなをかき回しているというか、こうした世界に集めてしまっている。さすがはフィクションの偶然性だが、意外に現実にもあり得ることなのかも知れない気もした。佐藤と大原が対面して、佐藤が正体をばらすシーン「クリプレの秋なんだ」というシーンの後で、大原ははしゃぎ合うことはなく、嘘が入っていたことから、複雑に冷静に向き合う。でも大原は佐藤に言う。「嘘つきではないと思います。音楽を聴けばわかるから」最初の出会いの時に、男の鼻歌を聴いて、女は尊敬の念を抱いていた。
「だから私にとってあなたは誰よりも正直な人です」と語った。そもそも女は男がニートだろうが、なんだろうが、関係なく敬っていた。佐藤健の秋にしても、女子高生を愛してもなくキスしてしまうのだが、音楽に関しては純粋だという。ここら辺に、性を軽く奔放にしてしまった時代の嘘がある。その瞬間は本当だったなどという。瞬間が永遠なら、その前後は一体何なのだろう。永遠とは永遠ではないか。瞬間のわけがない。だが、佐藤と大原がセッションをしているときに、「しまったと思った。好きだと思ってしまった」というような佐藤のセリフがある。性の軽い時代の産物で初めから良い作品になるわけがない時代の中ではあるが、このセッションのシーンはかっこよいと思わせるのではないか。だがこうした時代には当事者が純粋に思っていたら本当だと言われる。キスまでしている中なのに、セッションした男の家では女が歌い、男がギターを弾くセッションだけで、肉欲シーンはなかった。女の存在で男の気持ちが柔和になる。そして男は女のための曲の着想が浮かぶ。
そしてやたら出てくるライバル役が窪田正孝だが、これは恋愛としてではなく、大原への音楽プロデューサーとしてのライバルとして出て来る。しかし大原は、窪田のほうでどんどん進められていく大人の事情についていけず逃げ出して佐藤のほうに飛んでくる。そして佐藤は大原に逃げ出した音楽をまた一緒に向き合えるのではないかと語る。何度もキスシーンが出てしまうのだが、実年齢では6歳差だから24、5の男性だが、女子高生との交際というのは、淫行条例になることもあるのだろうが、そこらへんもいい加減である。佐藤は反町との男の競い合いみたいなものもある。確執があるようでわかっているところはわかりあっているという複雑さ。こんな複雑な生業関係なんて私はしたくはないが。そして女のほうも、佐藤の元恋人で反町の愛人の相武紗季がなにか大原に言って立ち去る。しかし大原も可愛さはあるが、佐藤健の性的魅力から外見上、女のほうが男に憧れてしまうような関係性である。そういう男であったなら私はこんな文章は書いていなかったかも知れないが、佐藤と相武の関係を察するような出来事があって、大原は悩む。男とバランスがとれているのかというところか。しかし窪田は男としてのライバルとしてではなく、音楽家としてのほうまでである。そして佐藤と大原のキスが週刊誌のスキャンダルとして出て来る事になる。そして週刊誌の駆け引きで、反町は佐藤と大原のスキャンダルは隠すが、佐藤と相武のスキャンダルで交換しろと言う。さらに、相武は佐藤が大原と別れるのを条件に、佐藤と相武のスキャンダルとして出して良いとの事。これは、実は相武はまだ佐藤を忘れられなかったという意味合いも持っていたのだろう。しかしその頃の佐藤の気持ちは大原にあったし、大原も佐藤と相武との関係にショックを受けていた。ここで相思相愛のトリックは佐藤と大原にあり、観客は佐藤と大原とのハッピーエンドを望むことになる。これもキスとは言え、キスとは言え?婚外交渉をしているような場面が、複雑にしてしまう。アイドルは無垢であるのに。そして佐藤は大原に少しも好きじゃなくて遊びだったんだと吐き捨てて去ろうとするが、理子(大原)は理子の歌を歌えと最後に言い残す。大原はその場でしゃがみ泣くが、佐藤は去った陰で途方に暮れる。しかし音楽家はなぜかそういう時に曲の着想が現れてしまうのだと言う。そんな曲を佐藤が作っているときに、大原は学校を抜け出して走る。
街では大原のバンドが歌っているのが大きなスクリーンに映し出される。それをみる佐藤。なぜか大原は実家の八百屋の仕事もまだしている。佐藤の家を通った際に、荷物が外に出て見つけ、大原はなぜかドアが開いているのか、合い鍵をもっていたのかはわからないが、佐藤の部屋に入る。あったギターを抱える。パソコンにはバンドの友人たちとの思い出の高校時代の佐藤の姿がある。大原は微笑んだあと泣きしゃがみ込んでいる。そして佐藤が帰ってきた。「どこかへ行っちゃうんですか」と聞いた後、佐藤の大事なベースを持って逃げてしまう。探す佐藤。ここら辺の滅茶苦茶な衝動は好きな女性の男性に対する強い振る舞いなのかも知れない。ここで大切なシーンは、大原に対して、佐藤のバンドの友人の一人が、ずっと友人の一人が、大丈夫だからと大原に語るところであろう。友人という緩衝材。佐藤はロンドンまで飛ぼうとしていたらしい。こんな時代でも日本とロンドンは相当遠いだろう。多分。「出発は来週だってさ」それを友人は大原に教えてやる。
私はキスシーン以上だか以下だかわからないシーンがある映画やドラマは全て平均以下に判断するが、この作品にしても時代の感覚と製作者陣の考え方が影響している。この映画ではそこらへんでキスシーンはやるがセックスシーンはしていない。渋い友人(三浦翔平だろうか)が仕組んで、佐藤と大原は外で再開する。盗っていたベースを佐藤に返し、自身はギターを持って、共に演奏し女が歌う。「嘘をつき続ける僕を彼女は正直な人だと言うんだ」。