ザ・マスターのレビュー・感想・評価
全16件を表示
出演者の演技対決
正直話はざっくりまとめると
戦争で狂犬のようになってしまった男が
うさんくさい新興宗教の開祖と知り合い、
何やかやでメンタルの傷がおちついて
独り立ちできるようになる、というもの。
てっきり破滅的な方向へ向かうのかと
身構えていたが、
予想外に落ち着いた。
それにしても鬼気迫るという表現がここまで
あてはまる人物もあまりいないと思う。
ホアキンのファンではあるが、正直
電車で隣に来てほしくない。怖い。
それと対峙して疑似父親のような関係に発展していく
相手、そして妻、の演技も
もはやそういう人なんだというようにしか見えず。
うすら寒い心地さえする。
見どころはその演技対決。
正直内容はそれほど面白いものではない。
久々に出会った心底つまらない映画! 個性派3人のクセがすごい!
第2次世界大戦後のアメリカを舞台に、戦争により心に傷を負った元水兵の男フレディと、とある新興宗教の教祖ランカスターとの交流を描いたサスペンス・ドラマ。
監督/製作/脚本は『マグノリア』『パンチドランク・ラブ』の、世界三代映画祭を制覇した名監督ポール・トーマス・アンダーソン。
主人公フレディを演じたのは『グラディエーター』『ホテル・ルワンダ』の、後のオスカー俳優ホアキン・フェニックス。
新興宗教の教祖ランカスターを演じたのは『マグノリア』『パンチドランク・ラブ』に続きポール・トーマス・アンダーソン作品に3度目の出演となる、オスカー俳優フィリップ・シーモア・ホフマン。
ランカスターの妻ペギーを演じたのは『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』『魔法にかけられて』の、名優エイミー・アダムス。
ランカスターの義理の息子クラークを演じたのは『ナイト ミュージアム』シリーズや『バトルシップ』の、後のオスカー俳優ラミ・マレック。
第69回 ヴェネツィア国際映画祭において、銀獅子賞(最優秀監督賞)とヴォルピ杯(最優秀俳優賞:男優賞)の2冠を達成❗️
第38回 ロサンゼルス映画批評家協会賞において、美術賞を受賞!
天才と称される名匠PTA監督作品を初鑑賞!
素直な感想としては、この人本当に天才なの〜ん?て感じ。
本気で観るのが苦痛な作品に出会ったのは久しぶり。
1時間過ぎたあたりから時計確認しまくりました…😅
映画の出だしは悪くない。むしろ面白いドラマが始まりそうな予感がプンプンする。
戦争により心が壊れた男。これを説明的なセリフではなく、彼が起こしたことを淡々と描写していくことで表現していく様はなかなかスマート。さすが名匠といった風格がある。
落ちぶれたフレディが潜り込んだ先は、新興宗教の教祖がパーティーを開いている客船。
教祖ランカスターが、フレディの持つ密造酒に興味を持ったことで2人の交流がスタートする。
始めは全く興味を持たなかったフレディだが、ランカスターの心理療法を受けたことでだんだん彼にのめり込んでゆく…。
おぉ!なかなか面白くなりそうな展開だ!むしろここからつまらなくなる方が難しいだろ!!
フレディがランカスターの開いた宗教団体「ザ・コーズ」をカルトだと糾弾する人物の家まで出向き、彼になんらかの危害を加えるシーン。
わざわざランカスターの義理の息子クラークを連れて行くという気味の悪さ、暴行の場面を映さないことで逆に際立つ暴力性など、フレディという男の狂気がプンプンと漂っており、映画の緊張感が否が応でも高まります。
他者を支配することでその地位を確立した教祖と、彼を信奉しながらもその支配力から逸脱していくフレディ。
自らの教義の正しさを証明するため、教祖はフレディを治療しようとするが、そんな教祖の態度にフレディは次第にフラストレーションを溜めてゆく…。
このフレディ暴行事件の後、話の筋としては以上のように展開していく。
このようにポイントを抽出すると面白そうなんですが、その出来はまぁ酷い😫
フレディの暴力性が露呈したあたりから、サスペンス的な展開に舵をきればすごく面白くなったと思うのだが、実際には起伏のない展開がだらだらと続くので全く興味が持続しない。
新興宗教の教義ではなく、人と人の付き合いを通して1人の男が回復していく様を描きたかったんだろうが、その描写が淡白かつ腑に落ちないところが多いため、なんの感動も湧いてこない。
ランカスターの家族がフレディに不信感を抱いているという描写があり、また自分の父をインチキだと言い放つ息子をフレディが恫喝するシーンなんかもあったので、もっとランカスターの家族とフレディの対立なんかが描かれてもよさそうなものだが、その辺りはなんかうやむやになる。
実はランカスターを裏で支配していた妻のペギーの描写も中途半端。結局あの人なんだったのかよくわからない。
人間の本質を突いた重厚なドラマを描いているつもりかもしれないが、映画の尺を埋める為、意味ありげな展開をただただダラダラと続けているだけに思えてしまい、カタルシスや心踊る興奮は皆無。
マジで辛かった。
どういう層の観客がこの映画を楽しむんだろう?うーん…🤔
ただ間違いなく良かったのは主人公フレディを演じたホアキン・フェニックスの演技。
相変わらずブチギレている。
ホアキンの代表作『ジョーカー』を先に見ていたので、フレディがジョーカーにしか見えなかった🤣
いつピエロのメイクをして暴れ回るのか期待してたんだけどな〜🤡
ホアキン・フェニックスとフィリップ・シーモア・ホフマン、そしてラミ・マレックというオスカー俳優が3人も出演しているが、この3人はハリウッドを代表するクセ強俳優。
この3人が一つのフレームに収まっているという絵面が面白過ぎて、それだけで爆笑してしまった🤣
俳優の演技を楽しむという意味ではオススメ出来る。特にホアキンに興味がある人なら観ても損はない…かな?
つまんね~ぇ!!!
こういう真面目な話も結構好きなんですが、何だろうなぁ…いらん間を取りすぎというか…どうでも良いシーンに尺を使いすぎな気がしました。
内容としては淡々としているというほどでもないのに、ダラダラと退屈に感じ、20分くらいを過ぎたところで既に「勘弁してくれ!」って感じになってました。何とか最後まで見終えたものの、何も心に残らなかった…最悪です。
あらすじ:
第二次世界大戦を終え、アル中になっていたフレディは仕事を転々としながら、恋人の元へ帰ることもできず、最後の仕事では同僚に毒を飲ませた疑いを掛けられ、新興宗教の教祖ランカスターの船に忍び込む。フレディの造る酒(シンナー等が入ったとても酒とは呼べないもの)を気に入ったランカスターはフレディを傍に置き、フレディもまた、ランカスターの教えに興味を持ち、徐々に2人は依存関係になっていく。
設定だけ見ると面白そうな話なんですが、どうにもこうにも。タイトルが「マスター」なだけあり、テーマは「主従関係」だと思うのですが、非常にアメリカ的思考だなと感じたのが、中盤のランカスターの妻ペギーの台詞「身を守るには攻撃しかない。でないとすべての戦いに負ける。もし攻撃しなければ望むように支配できなくなる」。
自然相手ですらすぐに「支配するんだ!人間様が上に立つんだ!」のアメリカらしいなぁと感じました。
要するに、普通の(少なくとも日本の)人が見ても、「こいつら支配することしか頭にねーなー対等で良いじゃん仲良くやれよ」としか思えない。
パッケージを見ると、フレディを中心に、彼の後ろにランカスターが、ランカスターの後ろにペギーがいます。話の中でもこのまま支配権があり、フレディを支配するのがランカスター、ランカスターを支配するのがペギーです。
この宗教では、「何を言われても反応しないこと」を求めながら、懐疑派から「おかしいのでは」と言われて教祖であるランカスターがマジギレしたり、「自由になること」を教えながら教祖を「マスター(飼い主)」と呼ばせたり、矛盾だらけ。
実際ランカスターの息子も全く信じておらず、「本気で信じているのか?」と言われたフレディはマジギレ。でも、マジギレするということは、内心疑いがあるということなんでしょう。本気で信じてる人って、「何言ってんだこいつ?」って感じで怒るとか不快に感じるとか、そういう反応じゃありませんしね。
上に、少なくとも日本の普通の人が見ても理解しがたいと書きましたが、正直外国人の話を聞いてると、何事も上下、優劣、善悪など、はっきり2つに分けたがるというか、全てにおいて「どちらが支配する側か」みたいな考え方を無意識にしている人が多い気がします。
日本人でももちろんそういう人はいますが、概ね良くも悪くも「どっちでも良い」「どうでも良い」という人が外国より多い。
「皆が良ければ、それで」。この考え方は、外国では「主体性がない」と取られることがほとんどで、グローバル化した近年では日本でも悪く受け取られるようになってきました。が、個人的にはこの考え方で良い時も、少なからずある気がするのです。
日本で宗教が大して根付かない理由も、少し日本のことを知っている外国人は「日本人は不可知論者が多いからだ」と言うのですが(全然知らないと日本の国教が仏教だと思ってたりする)、日本人の考え方が不可知論?と個人的には疑問に感じるわけです。
「いるかもしれないし、いないかもしれない」ではなく、正確には「いてもいなくても、どーでもいい」じゃないか?と。しかも、日本は世界的に見ても最低限の教育は行き届いている。そういう人達に、何かを妄信させろというのが難しい話で、国内で発生した新興宗教はそういう日本人向けに最初から作っているからともかく、少なくとも外国から入ってきた宗教がパッと流行って浸透するということは考えにくい。
こうやって余所の国から入ってくる映画も、宗教的な内容だと日本で流行らないのは、「その宗教の人間じゃないから理解できない」のではなく「宗教の価値を説明されてもその必要性が理解できない」からで、信仰者からすると何故こんなに素晴らしい内容の教えなのに「必要性が理解できない」のかが理解できない。平行線です。
この映画では、信仰者達はランカスターの「教え」に深く共感してはいるが、ランカスター自身を見てはいない。ランカスターという人間の悩みなんて知ろうとも思っていないし、当然共感もしない。あくまで尊敬すべきマスターとして、そこに集っている。
フレディは、ランカスターの「教え」はよく理解できずとも、ランカスター自身の悩みに気付き、共感し、寄り添おうとした。だからランカスターもフレディを悩みから解放するため「教え」をより強く施し、フレディを救おうとした。
でも、2人の間にあるのは友情ではなく、共依存と支配し合う関係でしかなかった。
ランカスターはあくまでフレディを支配しようとし、フレディは支配から一旦は逃れたものの、結局逃れきれず(ランカスターに戻ってきてほしいと言われる夢を見るほど)ランカスターの元へ戻ってくる。最終的に、肉体はランカスターから逃れたものの、フレディの精神はランカスターの支配から逃れられないまま、彼の真似事をして物語は終わる。
結局、人間は「何に支配されているか」が変わるだけで、常に何かに支配されている。「何者にも支配されない」などということはどんな人間にも、決してありえないのだ、という結末でしょうか。
言いたいことはわかっても、やっぱり「重要なこと以外はフワフワしてても一向に気にならない」「どーでもいいから仲良くやろうや」の純日本人気質の自分には、特別思い入れることのない作品でした。
海がめちゃくちゃ綺麗だったことと、下品なシーンが多かったことしか印象に残ってません。とにかく支配支配。そんだけの話です。「対等」っていう言葉が微塵も頭にない人達の話。
誰かに支配されてるかって?
どーでもい~~~!
想像のワルツ
「ザ・マスター」
原題「The Master」
製作国 アメリカ
監督/脚本 ポール・トーマス・アンダーソン
時間 138分
公開日 2012年9月1日
○原点
本作の舞台は1950年、第二次世界大戦後のアメリカ合衆国である。
戦勝国となり経済的に豊かになりはしたが、共産主義への過剰な恐れや核競争時代の到来という不安が世相を覆い、メディアやハリウッドでは赤狩りが起こった。
その中で、アーサー・C・クラークやアイザック・アシモフ、ロバート・A・ハインラインなど、SF小説の大家が活躍したのもこの時期である。
本作にインスピレーションを与えたL・ロン・ハバードも元はSF小説家であり、そのSF的想像力の延長線上にあるフロイトの夢診断などの心理学的知見を応用し、独自の心理療法を解説した著書「ダイアネティックス」を出版しベストセラーとなった。
彼は療法や理論が宗教に関わりがあるものではなく科学的アプローチであると主張していたが、徐々に宗教的要素を取り入れるようになり、53年にサイエントロジー教会を設立する。
その変化は反発や疑問を生んだが、結果として多くの信者を獲得した。
合衆国の50年代、それは既成の教会信者の増加率が人口増加率を上回る宗教の時代であった。
○意匠
・65mm
制作当時、撮影や上映に於いてデジタルへの移行が決定的な流れとなり、フィルムが消えるのではないかという危惧が映画界に蔓延していた。
その中で、ポール・トーマス・アンダーソン監督は、物語の設定である50年代に使用されてた65mmフィルムで撮影(一般的に使われる70mmフィルムという呼称はフィルムの両端に記録された音声トラックを含めた上映時のサイズのことで、カメラでの撮影時は65mmのフィルムが使用される)し、フィルム撮影のみ表現出来る格調を絹のように滑らかな質感により証明した。
・冒頭
ゴダールを思わせる深い青の海面を真上から捉えたショットと、主人公である海兵隊員フレディの顔を捉えるショットを経て、カメラは浜辺でオリジナルカクテルを啜る彼の姿を捉える。
同僚に毛ジラミの殺し方を嬉々として語る彼の佇まいは、50年代アメリカのビーチから凡そ無縁な不穏さを漂わせている。
ジョニー・グリーンウッドが奏でる不協和音が包む中、不気味にハイテンションな彼があからさまに卑猥な行動をとるに至って、本作の基調トーンへと決定付けられていく。
ラジオからは、日本の降伏をもって第二次世界大戦の終結を宣言するマッカーサー元帥の声が聴こえてくる。
この終戦は合衆国に於いて祝賀ムードを生む筈であるにも関わらず、画面は汗塗れで船の酒蔵からアルコールを盗み出す彼の姿が映されるばかりだ。
一海兵隊員にとって終戦がどれ程無意味なものであったかをマッカーサー元帥の勝利宣言との対比にて示し、過酷な戦争が多くの兵士達に齎した心的外傷が国に穿った虚無を物語の起点に据えている。
・プロセッシング
フレディは自分の過去、アル中で死んだ父、精神病院に入った母、性的関係を持った叔母、そして従軍中に手紙をくれたという16歳のドロシーという女の子について語り始める。
突然家に訪れたフレディをドロシーは優しく迎え、彼の頬にキスをし、兵士の帰還を願う歌「Don't Sit Under The Apple Tree」を歌う。
だが、ベンチに腰掛ける二人を捉えるショットは残酷なまでに不揃いな両者の外見を際立たせている。
ドロシーはノルウェーへ行く話を唐突に切り出す。
そこでランカスターは間髪入れず、それは誰が旅立つと言ったのかとフレディに問いただすと、彼は俺が言ったと答える。
ランカスターと我々は眉を顰める。
ドロシーはフレディの妄想の産物か?
しかし、そう疑った次の瞬間、やはりドロシーは実在すると考えるに充分な2人の別れが描かれる。
本作が齎す混沌は、我々の記憶と共に移ろい、確定的なイメージを結ぶことを拒否する。
・旅の終わり
マスターの右腕にまで登り詰めたフレディだが、ランカスターが死と隣合わせのバイクの疾走を楽しんだ後に、お前も乗ってみろとフレディを促す。
フレディはランカスターが走った方角とは逆の方向、フィーニックスの広大な砂漠を猛然と駆け抜け、そのまま蜃気楼の向こうへ消えて行く。
そして流れるジョー・スタッフォードの「No Other Love」(ショパン「別れの曲」)。
スモーキーな歌声はそのままに、画面は忘れられない過去を訪ねるフレディのショットへと切り替わる。
ドリスの母が彼を出迎え、事の顛末を告げる。
あっという間に過ぎ去る時間の残酷さを美しく表現したシーンである。
・別離
自由な男、何ものにも縛られない、海を股にかける、主に仕えない最初の人間。
今ここで君が去るならば私達が会う事は二度と無いだろうと告げるランカスター。
では次の人生で会おうと答えるフレディ。
異体同心である二人の別れに、ランカスターは「Slow Boat to China」を歌う。
ふと気付くと、本当に欲しいものからは見放されている。
そんな人生に於ける絶望を野心に満ちたフィクションの中で立ち上らせる本作に相応しい歌である。
○弁証
彼等が生きる50年代のアメリカ合衆国は詰まる所、組織と個人に集約される。
戦後の経済発展により中流層が膨張すると同時に、企業が全国的に組織化され、社会は家庭の結びつきや地域社会の縁故よりも学歴がものをいう世界へと変化し、組織に順応するホワイトカラーが増大した。
彼等は故郷を捨て、組織に命じられるままに移動していく。
もしフレディがドリスと結ばれていたなら、間違いなく組織人になっていただろう。
その代わりに彼は家族を見出すが、彼が守ろうとしたものは組織に変貌を遂げている。
本作は、激動の時代を漂う孤独な魂を浪々たるロマネスクへと織り上げてみせた。
波に攫われ、いつしか消えて、また新しい女を作り上げる。
ダンスの相手を変えて繰り返し踊り続ける人生。
それは孤独の道、だが悲観する事は無い。
音楽が止まぬ限り、巡り会う事の出来ないワルツは存在しないのだ。
求めても求めても手に入れられないもの
PTAは『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』で一皮剥けたと言われていて、確かに私もおあの作品で監督としての階段をひとつ上がったという印象は持ったのだが、今作を観て思ったのは、PTAはデビュー作から一貫して父親と息子(あるいは親子に代わるような親密な関係)や家族(あるいは疑似家族)について描いてきたということ。それはずっと変わっていないんだなということだった。
今作の主人公は、崩壊した家庭に育ち、第二次大戦に出征、更に過酷な戦場でトラウマを抱えたフレディ。彼には故郷に「必ず戻る」と約束した恋人がいたが、戦時中から酒に溺れ無事帰国しても彼女の元に戻りたいと思いながらも、戻ることが出来ず、職を転々とする。
そんな彼が出会ったのが新興宗教“ザ・コーズ”の教祖であるマスターことランカスターだった。居場所を失っていたフレディは初めて自分とその過去をさら出すことの出来たマスターに信頼を寄せ、疑似家族のような“ザ・コーズ”の中に自分の居場所を見つけたかに思えたが…。
フレディとランカスターとの間に親子にも似た情が通ったことは確か。しかし、フレディはランカスターを始め教団の教義ややり方への違和感を捨て去ることが出来ない。
実の父親をペテン師扱いするランカスターの息子やマスターの新作を酷評する仲間にフレディが食ってかかるのも、彼自身がランカスターを信じきることが出来ないことへの苛立ちからだ。
ラスト近く、イギリスのマスターを訪ねたフレディがやつれているのは、誰も自分を救えない、自分でさえも救えないという諦めの現れだったような気がする。
役と俳優の境目
この映画観た時、あーこれホアキンそのまんまの役じゃないかと思った。
もともと本作に出る前の『容疑者、ホアキン・フェニックス』をめぐる一連の騒動などで(映画自体の出来も含めて)、ホアキン正気か?大丈夫か?と思っていたわけである。
加えて幼少期カルト教団に属していたというホアキンの経歴、有名すぎる兄の死、度々報じられる変人ゴシップなど、この人は何か重いものを背負っているに違いないと、ファンの側が勝手に思ってしまっている。ハリウッドの中で彷徨っている人と感じてしまう。
本作に漂う苦悩は、もちろん役の上でのことなのだろうが、どうにもこうにもホアキン自身の苦悩に思えてくる。役柄の復員兵の彷徨いとホアキン自身の彷徨いとが重なってしまう。
自分の居場所がない、どこにもない。そう感じている男が
『容疑者、ホアキン〜』では、薬まみれになりながら「オレはここにいるよ〜」と情けない歌をうたい、
本作では、酒に溺れてカルト教団の中で足掻いている。
演技というよりホアキンそのまんまに見えてしまう。
役柄の方が、ホアキン自身に近づいてきている、そんな印象すら持った。
--
そして、教祖ランカスター演じたフィリップ・シーモア・ホフマン。
『容疑者、ホアキン〜』騒動後、俳優復帰作を模索していたホアキンをこの映画に薦め救ってくれたのが、フィリップ・シーモア・ホフマンだったというのを何かで読んで、良い人だなあと当時思った。
教祖ランカスターという役については、皆に救いを説いている男が一番救いを必要としている、何かに縋っている、変な酒を呑んでいる姿が悲しいなあと思っていた。
先月初めにフィリップ・シーモア・ホフマンの悲報を知った時に、この映画のことを思い出してしまった。
この映画で描かれたランカスターの苦しみは、まんまホフマンの苦しみだったのかもしれないと、
ランカスターが変な酒に手を出したようにホフマンも薬に手を出したのかもしれないと勝手に思ってしまった。
—
上記のように俳優のバックグランドと役を重ねて観るのは、もの凄く間違っている。
実際のところ、ホアキンやホフマンの本当の姿を、観客は知る由もないからだ。ゴシップニュース等で推測しているに過ぎない。
彼らがキャスティングされたのもバックグラウンドがどうのでは無く、全く別な理由だと思う。
間違っているとは知りつつも、俳優と役を重ねて観てしまうくらい、本作には痛切な何かが流れていた。
映画のストーリー自体は俳優とは無関係のフィクションだ。だがそのフィクションから溢れ出る感情は、どうにもこうにもノンフィクションだと錯覚してしまう映画だった。
—
本作の製作者は「彷徨う人の物語だ」と言っていた。
大戦後、社会になじめず別の世界に自分の居場所を見つけようとする。復員兵、酒、去っていく女…、分相応の女との暮らし。そんな筋立ては『彼奴は顔役だ!(1939)』を下敷きにしたのかなとも思う。彷徨う人が自分の足場として縋るのが、本作ではカルト教団であり、『彼奴〜』ではギャングの世界だった。縋ってもそこに本当の居場所はない。『彼奴〜』が普遍的な話なように、この映画も普遍的な話だと思う。
普遍的な物語だからこそ、誰にでも共通する感情の物語、ホアキンやホフマンの個の感情の物語に見えてくるのかもしれない。
支配と依存。
その宗教団体の名前を聞くと、あの大スターの顔が浮かんで
仕方ないのだけれど、日本でも数ある宗教団体に於いて、
一人間が何を信じてどう生きようがそれはその人の自由である。
但しそれが社会を恐怖に陥れたり、一人間を家族から完全離反
させる力を持っているなんて明らかにおかしい。世間が囃したて、
その団体が窮地に陥りついに反社会活動を起こすというケースも
あったが、どうして人間はこういうシステムに弱いんだろう。
主人公フレディの性格…とても尋常とは思えない行動を起こす
彼の生活には、捉えようのない破壊性が見てとれるが、それを
とある誰かの力で違う方向へ向かわせることができるかという、
いわば実験映画のような感じがした。こういうドラマを続けて
観せられる苦痛の幅で、自分自身の内面が明らかになってくる。
自分を助けた人間との関係は、一生主従関係として成り立つのか。
というより、成り立たせないといけないものなのだろうか。
従う人間と従わせる人間各々の性格にも因るが、従わせる人間も
従う人間も、かなりの不安要素に駆られている気がしてならない。
離れ離れになるのが怖い。お互い依存し合っている関係に見える。
本来の自分がどんな人間か(そんなこと完璧に判りはしないけど)
今まで生きてきた自分とその生き方に理解・納得・反省・前進できる
自分である場合、あまり他人の支配にすがろうとは思わないもの。
この宗教の内情を暴く話なのかと思いきや、暴くのは人間の内面。
終盤でバイクに跨り、マスターの元から疾走する主人公は、やっと
自身の立ち位置を自ら見出そうという意欲に駆られた象徴となり、
追ってきたマスターとのやりとりで、彼の(浅はかながらも)自立が
齎される。どんな運命も受け容れることで道は拓かれていくのだ。
このマスター自身も裏では妻に支配されており、彼に心ない偏見
「催眠術じゃないのか?」をぶつける一般人の中傷に傷つきもする。
時を同じくして依存という意味では、
マスターを演じたPSホフマンが薬物依存で突然この世を去った。
今作では彼の依存する演技が完璧だったこともあって衝撃が強い。
(自分を支配できるのは自分、他人がしてくれるのはアドバイス。)
一目会ったその日から恋の花咲くこともある!
男同士の一目惚れのはなし。
布教行脚中の船に潜り込んだフレディ。教祖は、一目で彼を気に入り教団に迎え入れる。
いや、「気に入った」じゃ弱いかも。「魅せられた」というべきか。
けれど教祖の家族は、フレディのことを好ましく思っていない。なかでも教祖の妻は、やつは疫病神だと直感している。
逆に教祖は、自分がどれほどフレディを渇望しているのかまだ分かってない様子。だから妻の忠告を無視し教祖はフレディを離さない。ありったけのセラピー術でフレディの心を操ろうと試みる。
フレディ、ようやく兵役前に結婚を誓った彼女に会いにいく。バイクをぶっ飛ばして。
つまりフレディ的にはセラピーは成功だった。教祖の意に反して。
フレディが教団から居なくなってから、教祖は手を尽くして探して模様。そしてその時期教団は飛躍的に成長した様子。
ロンドン支部を訪ねてきたフレディ、教祖と妻が執務室で出迎える。このラストは、教祖が声なく「行かないでくれ」と懇願する魂の絶叫シーン。
ぱっと見、教祖は妻の意向に汲み、フレディに教団から去るように説得している風。けれど直接的に出て行けというわけでない。未練タラタラで言外に「行かないって言ってほしい」と願っている。
魂の救済を説きつつ、自身の魂がズタズタに引き裂かれ、もだえ苦しむ教祖。空気を読んで去り行くフレディ。運命的に出会ったふたつの魂、けれど添い遂げることは許されなかった。
ザ・マスター (魂に取り付いて離れない夢のよう)
明らかに「ソウル・メイト」がテーマ。二人の男の絆は、肉親や夫婦や親友、あらゆる関係を超越して結ばれている。単なる親密さでもなければ、まして同性愛でもない。二人の間には妻を初めどんな異性も同性も誰一人、入り込むことはできない。
戦後すぐの1950年代、時代が求めていたカリスマ教祖と、飲んだくれの帰還兵。戦場からの心の傷を引きずる彼がひんぱんに狂暴化していたのは、アルコール依存症のせいではなく、抱えた闇をすくい取ってくれる唯一無比の相手=ソウル・メイトを求めながら見出せなかったからだと考えられる。
そんな「魂の伴侶」に出会うまで、人は心休まることなく、次々と相手を替えては、一生に一度遭えるかどうかわからない真のパートナーを探し続ける。エンディングに流れたChanging Partnersの歌でそれを知らされ、安らぎを得た主人公の顔に涙しながら、良き時代へ一気に引き戻された。
ヒプノセラピーで過去世に行かず、来世を見たら救われたかも知れない?
ファーストシーン、何処までもピュアな輝きを放つ深いブルーの海。
このブルースカイ・ブルーオーシャンは、私達を一体何処へと誘うのだろうか?と思ってスクリーンを見詰めていると、離島に従軍しているホアキンフェニックス演じるフレディ・クエルの登場。フレディは軍人と言うより、密造酒の鉄人・そして女狂い。
この束の間のシーンだけで、フレディがタダ者では無く、彼の異常性が一目で解る。
巧い撮影だ。
そしてこの映画全体に言える事だが、映像が、凄くブライトで、自然は何処までも抜けるように美しく、街並みも、その他のセットもとても、美しい映像で描かれていく。
それに対比する様に、主人公のフレディと彼のマスターとなるフィリップ・シーモア・ホフマン演じるランカスター・ドッドの心の闇の深さと、その大きさ、そしてその恐さが、
この美しい映像の中に、2人を立たせると、そこは一瞬にしてシェイクスピアの悲劇でも観ているような錯覚に陥りそうな、似た者同志の2人の対決の場になる。
基本的には、暴力を見方に付け、総ての解決方法を暴力に頼っているフレディ。
それに対して、心を操り、言葉を武器に物事を進めていくランカスター。
まるで、その生き様は、水と油の如く正反対だ。しかし、その2人の心に共通する闇。
「ザ・コーズ」と言う新興宗教の教義の核心部分、真実の教えについてはランカスター本人以外には、本当に理解している者はいない。
そして彼の家族である、妻も、子供達も、誰も彼を理解しようとはしない。
真実からは、目を反らして生きている。恐れられ、妻に利用される事はあっても、愛されてはいないのだ。その事自体をランカスター自身は知っている。
そしてまた、フレディも帰還兵のPTSDを患っているが故の異常なまでの、突然の怒りなどの感情の波に翻弄され、自己のコントロールを完全に喪失している。その結果誰にも受け入れられない深い孤独が彼の心を完全に支配する。
その完全なる孤独の深い闇を抱え込んでいるこの、フレディとランカスターの2人は磁石の様に互いに引き合う。
心の中は、切り開いて覗く事も出来なければ、見た目にはそう簡単に表に表現する事が出来ない。
しかし、ランカスターは心の専門家である。人の心の中の闇については、プロなのだ。
直ぐに、この深海をも飲み込んでしまう程に暗く留まる処も無い心の闇をフレディの中に観る。そして、彼との共依存ならぬ狂依存関係になる。
ここに、人の哀しさ、孤独が溢れ出される。恐い映画だ。人間の真実を言い当て、観客の前に、大きな口を開けて待ち構えている巨大なサメの様な映画だ。しかし映像は流れる深海の波の様に穏やかで、あくまでも何処までも美しいのだ。
エイミー・アダムスがその実、総てを握っていると言う女性の真実の恐さからも、目が離せないものだ。ラストが、また海だが、何処までもこの恐さが心に残る映画だった。
凄すぎてまだ未消化ですが・・。
ものすごくパワフルな作品だと思う。ゼアウィルビーブラッドで急に展開した新しいポール・トーマス・アンダーソンの方向性が、このマスターでも貫かれている。ホアキン・フェニックスの演技がすさまじい。映画を見ていて、こんなにも人の「孤独」という事を(しかも、単に寂しいというような演技ではなく喜怒哀楽を通して)考えさせられた事はなかった。そして、その人物の実在感。ダニエルデイルイスの「リンカーン」以上に、ホアキン・フェニックスと主人公が一体化した様な実在感があり、ホアキン・フェニックスを他の映画やテレビで見ても、しばらくはこの映画の中のキャラクターにしか見えないような気さえする・・。
また、正直、今までずっとファンであったにも関わらず、ポールトーマスアンダーソンがこんなにも、「孤独」というテーマに直接向き合ったテーマの一貫した作家だという事に、「マスター」を見るまで気づいていなかった。よく考えれば、「ブギー・ナイツ」、「マグノリア」、「パンチ・ドランク・ラブ」の、周りから浮いているダメな登場人物たちもまた、「世間とフィットしない」というマイノリティの孤独をかかえていた。
ただ、以前の作品はそんなダメな主人公達への暖かい眼差しが注がれていたのだけど、ゼアウィルビーブラッドとマスターの主人公は「ダメなやつら」というより「モンスター」なのだ。自分の孤独の深遠や狂気とどこまでも向き合い、それを克服しようともがき、周りを飲み込み、暴れまわる怪物。
「マスター」の主人公は孤独な人間である。純粋に好きな女の子もいて、まともに働こうともした。だが、なぜか遠回りをしたり、自己破滅的な行動にでる。「自分がどこにもフィットしない」という事にもがき苦しんでいる。本当に信じられる何か、孤独を埋めてくれる何かを探そうとしている。そしてマスターに出会う。彼にとって、マスターはそんな救いの答えを持っている人物に見える。マスターもまた主人公の危険な感性に引かれ、主人公を必要とする。だが、段々と映画を通してわかってくる事。それはマスターも結局「孤独な魂」をかかえている薄っぺらい一人の人間でしかないという事だ。主人公はその事に結構早い段階で気づいている。その過程で、自分に嘘をついてでも、マスターを信じようとするが、もがき苦しみ、疲弊していく。
「マスター」を見て、改めて「ゼアウィルビーブラッド」でP.トーマスアンダーソンが試みていた事がわかった気がした。最初に「ゼアウィルビーブラッド」を見たときは、ただ単に「ゴッドファーザーパート2」のヴィトー・コルレオーネのような、メタファーとしてアメリカ近代史をキャラクターになぞらえた映画だ、という解釈を自分の中でしていた。つまり、ダニエル・デイルイスの石油王は、アメリカの拝金主義、資本主義を代表するものとして、そして、ポール・ダノの神父は、アメリカのキリスト原理主義的思想を代表するものとして、その二つの大きなアメリカを支えてきたゆがんだ構造の闇をあぶりだす、そんな映画だと思って見ていた。いや、そういう構図なのに間違いはないと思うのだけど、ダニエルデイルイスのキャラクターの動機が一体何なのか、という事があまり見えていなかったのだ。
今、マスターを見た後でわかるのは、ダニエル・デイ・ルイスのキャラクターのモチベーションも、マスターの主人公と同じような心情なのだ。信じられるものがあるなら信じたい。それが「家族の絆」であれ、「金」であれ「石油」であれ。で、それを人生をかけて見つけようとするが、そのどれもが結局救いにはならず疲弊していく。自分の孤独を克服すべく、主人公がもがくほどに、その狂気は際立ち、結局孤独は深くなっていく。
マスターに話を戻すと、見たばかりなので、正直言ってまだ未消化の部分がたくさんある。(キューブリックのシャイニングや時計仕掛けのオレンジを彷彿とさせるあの裸のシーンであるとか。)だが、今の段階でも言えるのは、最早P.Tアンダーソンはサブカルやカルト的な位置でウエスアンダーソンやソフィアコッポラのようにいる監督ではないという事だ。視覚効果やサンプリング的な要素など一切必要とせず、演技と撮影、音楽だけで、これだけパワフルな作品を作れ、しかもそれがアメリカや現代人の精神を体現している。本当に重要な監督だと思う。
俳優陣の名演が光る☆
全編を通して「人はマスターを頼らずに生きて行けるか」というテーマだったのかな?と思います。「マスターなしで生きて行けるというのなら、君は人類初めての人になる」というセリフには人間の本質とマスターの複雑な気持ちが感じられて、唸りました。静かでしたが、じっくりと登場人物の内面を描いた余韻の残る作品だったのではないかと思います。
メインの役者3名は文句なしの名演で、今回もフィリップ・シーモア・ホフマンが出ているからと観賞を決めたのですが、やはり彼は裏切らない・・・というのが正直な感想です。エイミー・アダムスもよく脚本を選んでいる女優さんだな、と思います。
PTA監督の新たな金字塔
ポール・トーマス・アンダーソンの作品にはいつも驚かされる。その中でも「ザ・マスター」は最も静かでありながら、同時に最も力強い作品でもある。見終わった後は衝撃のあまり、我を忘れた。
ストーリーにおいて動的な展開を迎えることはない。おかしな男が、やはりおかしな別の男と出会い、そして決別に至る話だ。大筋だけを捉えるとこれだけシンプルなのに、それを構成する一つ一つのシーンは忘れがたい。
その第一の要因として考えられるのは、出演者たちの筆舌に尽くしがたいほど素晴らしい演技だ。多くの作品では、登場人物のうち誰か1人だけが突出している。大抵は主人公だが、時には脇役が主人公を食うこともある。それがこの映画には当てはまらない。誰もが隙のない演技を見せ、決して無意味な存在となっていないのだ。(実際、多くの映画祭では俳優が特に評価された)
だがメインの2人、特にホアキン・フェニックスに敵うものはいない。あらゆる俳優たちを考慮したとしても、ここ数年で最高の演技を披露する。
彼が演じるフレディは明らかに精神を病んでいる。全身に怒りをみなぎらせ、瞳の中には希望の色などない。些細なことで暴力を振るうフレディを人が気に入るはずもなく、孤立していくしかない。いわゆる“はみだし者”である。こういったキャラクターはあまりにも突飛すぎて、魅力的にはなり得るが共感を呼ぶ存在ではないことが多い。だがフレディは違う。元々兆候があったとはいえ、絶対に人と馴染むことのできない彼を作り出したそのバックグラウンドは丁寧に描かれ、奇怪な行動からも人間味が感じられる。何より演じたフェニックスがフレディを単調に演じることがない
。彼の行動はすべて、複雑な感情から沸き起こったものであり、その根底には口で説明されることのない哀しみが漂っている。
そして「ザ・コーズ」を率いるランカスター・ドッドに扮するは、アンダーソン作品でおなじみのフィリップ・シーモア・ホフマンである。彼の演技はフェニックスのそれとは正反対だ。溢れ出る感情を抑えようとしない(または抑えられない)フレディと違い、ドッドは自分を嘘で塗り固め本性を出すことはない。というより、彼自身が自分のつく嘘を信じ込んでいるのだ。
多くのカルト宗教の教祖にありがちな性質だが、ホフマンにこの役はぴったりだ。自尊心過大で、自分がしているのは善行だと信じて疑わない。見ている私たちですら、口八丁手八丁で人を丸め込もうとする彼の魅力に取り付かれそうだ。基本的には善人であるからこそ、それにすがる人々を否定する気にもなれない。
正反対の性格である2人が出会って上手く行くはずがない。それなのに2人は惹かれ合い、互いを必要とする。
なぜならフレディは自分に真の情を向けてくれる人間を、ドッドは「ザ・マスター」としてではなく自分と接する人間を求めていたからだ。
多くの回想シーンで、フレディは昔結婚すると誓った女の子に対しある一種のトラウマを抱えている。彼女が自分を必要としなくなったことに気づいてはいるが、頭では理解しようとしない。唯一愛情を向けてくれた彼女を忘れられないのだ。だから代わりに“形骸化した愛情”としてのセックスを求める。その執着心は異常だが(このフレディのヴィジョンも見事に映像化されている)、あまりにも救われないその心は同情すら誘う。
そんな中出会ったのがドッドだったのだ。彼の組織「ザ・コーズ」はフレディにとって家族にも等しいものだ。誰もが優しく、フレディを治療することに献身的にもなる。まさに彼の理想像なのである。
そんなフレディをドッドは初め、信者としては迎え入れない。フレディが密造する酒を手に入れたかったから、仲間に率いれた。ここに教祖と信者という関係とは別のものが出来上がる。奇妙だが、対等な友情だ。さらにドッドはフレディを治療することに自らのアイデンティティを感じ始める。「非科学的でカルトのよう」な自分の理論を証明する最高のきっかけになり得るからだ。
でもそれは間違いなく上手くいかない。フレディは熱心な信者ではなく、ドッドの“友人”だからだ。彼を否定する者が現れるとフレディが怒り狂うのは、教義を侮辱されたからではなく、ドッドを自分なりの方法で助けるためだ。つまり、(「ザ・コーズ」風に言うと)1950年代の姿としての彼らは表面的な部分で決定的な違いがある。絶対に相容れることのない水と油なのだ。
だからこそ、どうでも良いような会話の場面ですらも重要となる。登場人物たちの微妙な感情の変化を見事に捉えているから、一瞬たりとも見逃すことができない。
特に最後の場面でのフレディとドッドの会話は印象的だ。歌を口ずさむドッドと笑いながら涙を流すフレディ。この映画の特徴である「不気味だが、思わず笑い出しそうになる。それでいて心を揺さぶる」シーンそのものだ。
まだまだ言いたいことはたくさんあるが、自分の中でも整理がついていない。だが一つだけはっきり言えることがある。「ザ・マスター」は紛れもない傑作だ。
(13年4月1日鑑賞)
映画に酔える作品
「酔いから覚める」という言葉をアルコール中毒からという事と、宗教の教義への疑念や反発からという2つの意味で用いていたのかなとラストのシーンで感じて、そこで自分の中でこの作品がスッと落ちてきた気がします。
ホアキン・フェニックスとフィリップ・シーモア・ホフマンの演技が素晴らしく、
船に切られて立つ2つの波の映像から始まる廻りめく物語を締めくくる最後の穏やかな2人きりでの会話シーンでの演技には本当に感動しました。
今、別れれば来世でも尚、敵であり続ける関係でありながらも、惹かれあう人と別れ、最後はまた一人で生きていく事になる両者ですが、彼らを表すのもまた、船に切られた2つの波であり、交わる事はないけれど、それぞれがずっと波が立つように強く生きていくのを象徴している様でした。
ジョニー・グリーンウッドの音楽は今作も良かった。そのシーンで流れてる音楽に、そのシーン内で流れてる音楽が合わさってくるみたいな所があって驚いたんですが、ああいう音楽演出って前々からあったんでしょうかね?
観終わって色々考えたり、感じたり出来る映画であり、映画としてのルックも物凄く魅力的なんでとても楽しめましたし、2回目が観たくなる映画でした。
圧倒された
アル中と人格改造セミナーみたいな会合を描いていて、やたらと迫力があって圧倒されるんだけど、結局意図や意味がさっぱり分からなかった。アカデミー賞を取ると好き勝手ができるのかととても自由を感じた。ホアキン・フェニックスがどんどんメル・ギブソンに似てきていた。意味がさっぱり分からないけどやたらと印象に残る映画だった。
全16件を表示