ザ・マスターのレビュー・感想・評価
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凄すぎてまだ未消化ですが・・。
ものすごくパワフルな作品だと思う。ゼアウィルビーブラッドで急に展開した新しいポール・トーマス・アンダーソンの方向性が、このマスターでも貫かれている。ホアキン・フェニックスの演技がすさまじい。映画を見ていて、こんなにも人の「孤独」という事を(しかも、単に寂しいというような演技ではなく喜怒哀楽を通して)考えさせられた事はなかった。そして、その人物の実在感。ダニエルデイルイスの「リンカーン」以上に、ホアキン・フェニックスと主人公が一体化した様な実在感があり、ホアキン・フェニックスを他の映画やテレビで見ても、しばらくはこの映画の中のキャラクターにしか見えないような気さえする・・。
また、正直、今までずっとファンであったにも関わらず、ポールトーマスアンダーソンがこんなにも、「孤独」というテーマに直接向き合ったテーマの一貫した作家だという事に、「マスター」を見るまで気づいていなかった。よく考えれば、「ブギー・ナイツ」、「マグノリア」、「パンチ・ドランク・ラブ」の、周りから浮いているダメな登場人物たちもまた、「世間とフィットしない」というマイノリティの孤独をかかえていた。
ただ、以前の作品はそんなダメな主人公達への暖かい眼差しが注がれていたのだけど、ゼアウィルビーブラッドとマスターの主人公は「ダメなやつら」というより「モンスター」なのだ。自分の孤独の深遠や狂気とどこまでも向き合い、それを克服しようともがき、周りを飲み込み、暴れまわる怪物。
「マスター」の主人公は孤独な人間である。純粋に好きな女の子もいて、まともに働こうともした。だが、なぜか遠回りをしたり、自己破滅的な行動にでる。「自分がどこにもフィットしない」という事にもがき苦しんでいる。本当に信じられる何か、孤独を埋めてくれる何かを探そうとしている。そしてマスターに出会う。彼にとって、マスターはそんな救いの答えを持っている人物に見える。マスターもまた主人公の危険な感性に引かれ、主人公を必要とする。だが、段々と映画を通してわかってくる事。それはマスターも結局「孤独な魂」をかかえている薄っぺらい一人の人間でしかないという事だ。主人公はその事に結構早い段階で気づいている。その過程で、自分に嘘をついてでも、マスターを信じようとするが、もがき苦しみ、疲弊していく。
「マスター」を見て、改めて「ゼアウィルビーブラッド」でP.トーマスアンダーソンが試みていた事がわかった気がした。最初に「ゼアウィルビーブラッド」を見たときは、ただ単に「ゴッドファーザーパート2」のヴィトー・コルレオーネのような、メタファーとしてアメリカ近代史をキャラクターになぞらえた映画だ、という解釈を自分の中でしていた。つまり、ダニエル・デイルイスの石油王は、アメリカの拝金主義、資本主義を代表するものとして、そして、ポール・ダノの神父は、アメリカのキリスト原理主義的思想を代表するものとして、その二つの大きなアメリカを支えてきたゆがんだ構造の闇をあぶりだす、そんな映画だと思って見ていた。いや、そういう構図なのに間違いはないと思うのだけど、ダニエルデイルイスのキャラクターの動機が一体何なのか、という事があまり見えていなかったのだ。
今、マスターを見た後でわかるのは、ダニエル・デイ・ルイスのキャラクターのモチベーションも、マスターの主人公と同じような心情なのだ。信じられるものがあるなら信じたい。それが「家族の絆」であれ、「金」であれ「石油」であれ。で、それを人生をかけて見つけようとするが、そのどれもが結局救いにはならず疲弊していく。自分の孤独を克服すべく、主人公がもがくほどに、その狂気は際立ち、結局孤独は深くなっていく。
マスターに話を戻すと、見たばかりなので、正直言ってまだ未消化の部分がたくさんある。(キューブリックのシャイニングや時計仕掛けのオレンジを彷彿とさせるあの裸のシーンであるとか。)だが、今の段階でも言えるのは、最早P.Tアンダーソンはサブカルやカルト的な位置でウエスアンダーソンやソフィアコッポラのようにいる監督ではないという事だ。視覚効果やサンプリング的な要素など一切必要とせず、演技と撮影、音楽だけで、これだけパワフルな作品を作れ、しかもそれがアメリカや現代人の精神を体現している。本当に重要な監督だと思う。
飼いならそうとした男と飼いならされそうになった男
過去の悲しみを克服する
過去の苦しみを取り去る
そしてその苦しみから解き放たれた体験は
人々を感服させ、男を尊敬の念を込め『マスター』と呼ぶ。
フレディ・クエルの奔放かつ粗暴な心をなんとか人間社会に適合させようと
『マスター』ランカスター・ドッドは様々な方法を用いて
性格を矯正しようとします。
矯正シーンは見ていて辛い。
洗脳に近い方法で、嫌なことを言われても反応しないという教育や
想像力を鍛え自分の目の前にあることだけにこだわらない教育がなされます。
もっともそんな教育に耐え、逃げ出さなかったのも
フレディが『マスター』を信頼していた為でしょうが・・・
見ていてちょっと引くくらいつらそう。
人生の一時期、洗脳的な教育を施されるがそれも過ぎ去って、新しい今を生きる男の話。
残ったのは少し穏やかになった性格と、『マスター』から受けた教育の名残。
『マスター』に残ったのは自分の教育が上手くいかなかったことへの敗北感?か、どうかは知りませんが。
洗脳的教育で性格を矯正したからこそ、
昔の女が自分を待たずに結婚したと聞いても穏やかに居られた。
自分の歪んだ性格を強く持っていても幸せになれない、なら
矯正された性格で穏やかに生きることが幸せ、なのかもしれません。
といっても、フレディは自ら進んで『性格を直してくれ』と選んだ訳ではありません。
そこがこの映画の問題点であります。
『人は他人から押し付けられた幸せでも幸せになれるのか?』
広がる闇
一見かけ離れたような二人の男
お互いの中に、自分が隠し持っている闇を見てしまう
お互いを見つめあう濃厚なシーンの長いこと
愛憎と言うにはあまりにも複雑な、執着のような愛情や憎しみともつかない疎ましさや・・・
その顔のアップだけで表現される、魂の葛藤、火花を散らすようなシーモアホフマンとホアキンフェニックスの演技とも思えないようなすさまじいぶつかり合いが圧倒的
前作もそうだけれど、荒涼とした、ひとかけらのぬくもりも無いようなすさんだ風景が画面から冷気を放ってくる
ラストシーンが印象的
この映画を宗教をテーマにしていると見る人も居るみたいだけど、私にはそうは感じられなかった
俳優陣の名演が光る☆
全編を通して「人はマスターを頼らずに生きて行けるか」というテーマだったのかな?と思います。「マスターなしで生きて行けるというのなら、君は人類初めての人になる」というセリフには人間の本質とマスターの複雑な気持ちが感じられて、唸りました。静かでしたが、じっくりと登場人物の内面を描いた余韻の残る作品だったのではないかと思います。
メインの役者3名は文句なしの名演で、今回もフィリップ・シーモア・ホフマンが出ているからと観賞を決めたのですが、やはり彼は裏切らない・・・というのが正直な感想です。エイミー・アダムスもよく脚本を選んでいる女優さんだな、と思います。
よくわかりませんでした‥
難解でした。
ってか、途中ところどころ睡魔に襲われたから?
この映画の主題はなんですか?
マスターと帰還兵の男同士の絆?新興宗教の話?なんかイマイチピントが理解出来なかった‥すみません。
だから必然的に星少なくなります‥。
PTA監督の新たな金字塔
ポール・トーマス・アンダーソンの作品にはいつも驚かされる。その中でも「ザ・マスター」は最も静かでありながら、同時に最も力強い作品でもある。見終わった後は衝撃のあまり、我を忘れた。
ストーリーにおいて動的な展開を迎えることはない。おかしな男が、やはりおかしな別の男と出会い、そして決別に至る話だ。大筋だけを捉えるとこれだけシンプルなのに、それを構成する一つ一つのシーンは忘れがたい。
その第一の要因として考えられるのは、出演者たちの筆舌に尽くしがたいほど素晴らしい演技だ。多くの作品では、登場人物のうち誰か1人だけが突出している。大抵は主人公だが、時には脇役が主人公を食うこともある。それがこの映画には当てはまらない。誰もが隙のない演技を見せ、決して無意味な存在となっていないのだ。(実際、多くの映画祭では俳優が特に評価された)
だがメインの2人、特にホアキン・フェニックスに敵うものはいない。あらゆる俳優たちを考慮したとしても、ここ数年で最高の演技を披露する。
彼が演じるフレディは明らかに精神を病んでいる。全身に怒りをみなぎらせ、瞳の中には希望の色などない。些細なことで暴力を振るうフレディを人が気に入るはずもなく、孤立していくしかない。いわゆる“はみだし者”である。こういったキャラクターはあまりにも突飛すぎて、魅力的にはなり得るが共感を呼ぶ存在ではないことが多い。だがフレディは違う。元々兆候があったとはいえ、絶対に人と馴染むことのできない彼を作り出したそのバックグラウンドは丁寧に描かれ、奇怪な行動からも人間味が感じられる。何より演じたフェニックスがフレディを単調に演じることがない
。彼の行動はすべて、複雑な感情から沸き起こったものであり、その根底には口で説明されることのない哀しみが漂っている。
そして「ザ・コーズ」を率いるランカスター・ドッドに扮するは、アンダーソン作品でおなじみのフィリップ・シーモア・ホフマンである。彼の演技はフェニックスのそれとは正反対だ。溢れ出る感情を抑えようとしない(または抑えられない)フレディと違い、ドッドは自分を嘘で塗り固め本性を出すことはない。というより、彼自身が自分のつく嘘を信じ込んでいるのだ。
多くのカルト宗教の教祖にありがちな性質だが、ホフマンにこの役はぴったりだ。自尊心過大で、自分がしているのは善行だと信じて疑わない。見ている私たちですら、口八丁手八丁で人を丸め込もうとする彼の魅力に取り付かれそうだ。基本的には善人であるからこそ、それにすがる人々を否定する気にもなれない。
正反対の性格である2人が出会って上手く行くはずがない。それなのに2人は惹かれ合い、互いを必要とする。
なぜならフレディは自分に真の情を向けてくれる人間を、ドッドは「ザ・マスター」としてではなく自分と接する人間を求めていたからだ。
多くの回想シーンで、フレディは昔結婚すると誓った女の子に対しある一種のトラウマを抱えている。彼女が自分を必要としなくなったことに気づいてはいるが、頭では理解しようとしない。唯一愛情を向けてくれた彼女を忘れられないのだ。だから代わりに“形骸化した愛情”としてのセックスを求める。その執着心は異常だが(このフレディのヴィジョンも見事に映像化されている)、あまりにも救われないその心は同情すら誘う。
そんな中出会ったのがドッドだったのだ。彼の組織「ザ・コーズ」はフレディにとって家族にも等しいものだ。誰もが優しく、フレディを治療することに献身的にもなる。まさに彼の理想像なのである。
そんなフレディをドッドは初め、信者としては迎え入れない。フレディが密造する酒を手に入れたかったから、仲間に率いれた。ここに教祖と信者という関係とは別のものが出来上がる。奇妙だが、対等な友情だ。さらにドッドはフレディを治療することに自らのアイデンティティを感じ始める。「非科学的でカルトのよう」な自分の理論を証明する最高のきっかけになり得るからだ。
でもそれは間違いなく上手くいかない。フレディは熱心な信者ではなく、ドッドの“友人”だからだ。彼を否定する者が現れるとフレディが怒り狂うのは、教義を侮辱されたからではなく、ドッドを自分なりの方法で助けるためだ。つまり、(「ザ・コーズ」風に言うと)1950年代の姿としての彼らは表面的な部分で決定的な違いがある。絶対に相容れることのない水と油なのだ。
だからこそ、どうでも良いような会話の場面ですらも重要となる。登場人物たちの微妙な感情の変化を見事に捉えているから、一瞬たりとも見逃すことができない。
特に最後の場面でのフレディとドッドの会話は印象的だ。歌を口ずさむドッドと笑いながら涙を流すフレディ。この映画の特徴である「不気味だが、思わず笑い出しそうになる。それでいて心を揺さぶる」シーンそのものだ。
まだまだ言いたいことはたくさんあるが、自分の中でも整理がついていない。だが一つだけはっきり言えることがある。「ザ・マスター」は紛れもない傑作だ。
(13年4月1日鑑賞)
うーーーーーん
本当は★2を付けたいのですが、それはこの映画に合わない期待のかけかた、展開の予想をしていた自分の過失もあるので。
はっきり言って新興宗教がどうとかそんなのは良くも悪くも関係なくて、二人の男を中心としたヒューマンドラマ。
自分が最近みた映画の中では「世界にひとつのプレイブック」に近いか。チラシと予告や簡単な感想以外事前に確認しない自分が、もっとミステリー的な要素(レッド・ライト的な)を孕んでいると誤認したのがダメだった。
おっぱいたくさんなので、初なデートや親子連れは気まずいぞ!
映画に酔える作品
「酔いから覚める」という言葉をアルコール中毒からという事と、宗教の教義への疑念や反発からという2つの意味で用いていたのかなとラストのシーンで感じて、そこで自分の中でこの作品がスッと落ちてきた気がします。
ホアキン・フェニックスとフィリップ・シーモア・ホフマンの演技が素晴らしく、
船に切られて立つ2つの波の映像から始まる廻りめく物語を締めくくる最後の穏やかな2人きりでの会話シーンでの演技には本当に感動しました。
今、別れれば来世でも尚、敵であり続ける関係でありながらも、惹かれあう人と別れ、最後はまた一人で生きていく事になる両者ですが、彼らを表すのもまた、船に切られた2つの波であり、交わる事はないけれど、それぞれがずっと波が立つように強く生きていくのを象徴している様でした。
ジョニー・グリーンウッドの音楽は今作も良かった。そのシーンで流れてる音楽に、そのシーン内で流れてる音楽が合わさってくるみたいな所があって驚いたんですが、ああいう音楽演出って前々からあったんでしょうかね?
観終わって色々考えたり、感じたり出来る映画であり、映画としてのルックも物凄く魅力的なんでとても楽しめましたし、2回目が観たくなる映画でした。
失望・・・。全てが中途半端。
PTAの作品ということで、かなり、期待していたのですが、大外れ、でした。ホアキン・フェニックスのアル中の描写が中途半端なら、フィリップ・シーモア・ホフマンの主張する教義も曖昧、エンディングも良く判りませんでした。読売新聞などの映画評ではホアキン・フェニックスとフィリップ・シーモア・ホフマンは実際の父と子のようだ、などと、云っていましたが、笑止!私が思うに、PTAはもっと、時間が欲しかったのに、大人の事情かなにかで、見切り発車して、映画製作に取り掛かったのではないのでしょうか。とにかく、脚本が無残なまでに酷いです。科白も信じられないくらい薄っぺらです。もっと、もっと、錬ってほしかったです。
これから、観に行こうと考えている方へ。
過大な期待は禁物です。ま、そこそこの映画、を観に行く、その程度の気持ちでお出かけ下さい。
父と子の物語。そして陰の主役、エイミー・アダムス。
精神論的なディスカッションが苦手な私としては、溶け込めない部分があり睡魔に襲われるが、フレディを戦場から戻ってきた息子に、そして“マスター”を故郷の父に置き換えてみると、二人の関係や互いへの思いがやや理解しやすくなる。
命の遣り取りをする前線を経験し、やり場のない心の逃げ場がアルコールで、その成分は精神の病みに合わせるように危険度をエスカレートさせていく。帰還してもフレディを癒してくれるものは結局アルコールだけ。
フレディにとって、自分を理解してくれる人間かどうか、その判断のバロメータは自身が作ったスペシャルドリンク(何を混合したかわからない危険なアルコール)を喜んでもらえるかどうかだったのではあるまいか。
初めてスペシャルドリンクを心から旨いと言ってくれたのが”マスター”だ。
フレディはやっと故郷に帰って来ることができたと感じたに違いない。
そこから続く二人の蜜月は、無事再会を果たした父子の喜びのようであり、息子が父の事業を手伝いながら元の社会に適合していくかのようだ。
そして二人の間に生じ始める亀裂は、息子の遅咲きの反抗期のようであり、厳格な父と母への反発と独り立ちの兆しでもある。
この作品は、父の生き方に共感し手本として生きた息子が、自分本来の生き方を見つけて旅立つ物語だ。
それにしても、親父を陰で支え、叱咤して操るのは、やっぱり妻なんだな。陰の主役・・・エイミー・アダムス。
そして音楽と色彩が綺麗だ。
もし[印象]に「虚しい」という項目があったならチェックを入れる。
映像美に酔いしれた。スクリーンで観るべき作品
難解なストーリーは無視して
まるで宗教画のような映像を体感できた
映画に“オチ”だの“感動”だのを求める人は観ない方がいい
自分もストーリーの筋は理解できなかったが
見終わってみると
『人は皆孤独なんだな』
とか考えたりしてしまった
この監督の作品は初めて鑑賞したが
他の作品にも興味が湧きました
快作!
ホアキン・フェニックスとフィリップ・シーモア・ホフマン、相対する二人の演技は凄絶。
映画自体のカメラはフィルム65mmで撮られている。
P.T.アンダーソン監督はもともと65mmにすることに決めていたわけではないようだが、これが凄く良いと思う。そんな目利きじゃないから詳しくはわからないけど
ホアキン演じるフレディ・クエルは第二次世界大戦を水兵として終える。終戦後、彼は重度のアルコール依存症と精神異常を抱えた状態に陥っていた。
地元に戻った彼は写真家として職を得るが、顧客とうまくいかずにやめてしまう。放浪した末に乗り合わせた船でMaster,フィリップ・シーモア・ホフマンのランカスター・トッドに出会うのだ。
ここからのストーリーはぜひ自分の目で観てほしい。
僕が気に入ったシーンをいくつか挙げるとすれば
①写真家フレディがつきあったモデルの女性の胸をさらけ出すシーン
②広大な農地をフレディが走るシーン
③フレディとランカスターのプロセシングのシーン
④フレディの存在についての一家の食卓での会話シーン
①は女性が良かったなって。大人な強気なお高くとまったっていうのかな、そういった顔立ちだったのに脱ぐと愛らしい胸だからぴったりのカットになったなと思った。ドレスを着てくるりと回る、脚フェチの傾向がある僕にとっては美味しかった笑
②はフレディの精神的な孤独を誇張するかのように、追っ手を映すことなく、一人で広野を走っているようなポジショニングが気に入った。
③は広角で撮られてたところがまず良かった。容易に引き込まれる場の作り方だなって感心した。ホアキンがどんな演技をしてもいいようにという予防線のために広く撮ってたみたいだけど、これが良い。それにこのホアキンは迫真の演技!!!!痺れた〜
④フレディはなぜこの教団にいるのか、とエミリー・アダムスが追い出そうとするシーンは、覇権の怖さを伝えた。
特徴としては時々奇態な所もあるのにそれが浮かないこと。例えば、一番奇態なシーンは集まった人々の女性全員が全裸であるシーン。(フレディの視点だとわかるが)
フレディはトイレを破壊するほどの凶暴性をも持っていて、マスターに反発するものは暴力によって屈服させるという手段をとっていく。彼のマスターを信じる狂気じみた信仰はゲイであるかと思わせるかほどのもの。マスターはマスターでフレディに特別な感情を持っている。これは不完全な自分の補完的要素をフレディが持っていたからに違いない。二人は相対する人間であったからこそお互いを必要とし、それは静閑なほどに、僕の胸には、人間の関係すべての意味を投げかけてきた。扱ったモティーフの難しさに関わらず、快作。
絶対観るべきとおすすめできます!
意味不明を求める
主人公のホアニン・フェニックスは異常だ。
なんていえばいいのか。眉がやたら濃くて、目はやたら深い。
鼻と口は変な方向に曲がっている。
歩くしぐさは完全に歪んでいる。
その暴力性は刑務所のトイレを蹴り壊した。
マスター(教祖役)のフィリップ・シーモア・ホフマンはまだマシ。
確かに歪んではいるが、まだロジック部分も捨てていない。
それでなくちゃ、集団を束ねることはできないだろう。
論理性と頂上性が危ういバランスをとっているんだが、
ホアニンが出てくるともう一方の破壊力が頭をもたげてくる。
そんなふたりを相手にするのがマスターの妻、エイミー・アダムスだ。
彼女のこれまでの女優業はすごくまともな役が多かった。
クリント・イーストウッドの娘役で出た「人生の特等席」なんか
その典型だし、「ダウト」の清純派シスターなんてのも
普通のひとの感覚だったし、そこに安心感をもたらしていた。
そういえば、「ダウト」では、
厳格なシスター校長役のメリル・ストリーブと、この映画に出てくる
進歩的なホフマン神父の確執に少し似ているかもしれない。
その間を行ったりきたり、迷いながらも正常を保つエイミーがよかった。
でも、この「ザ・マスター」では違っていた。
子どもをもつ母親として、当然、マスターの側につく。
歴然として、果然としてホアニンを叩き潰そうとする。
叩き潰すには策はいらないのだ。
夫は彼に興味はあるのだが、無視するように仕向ければいいのだ。
そんな狡猾な女、母親を演じていたエイミーもよかった。
この映画と同じように、僕のレビューも行き当たりばったりで、
脈絡なく進んでいくのだった。それでいいのだろう。
圧倒された
アル中と人格改造セミナーみたいな会合を描いていて、やたらと迫力があって圧倒されるんだけど、結局意図や意味がさっぱり分からなかった。アカデミー賞を取ると好き勝手ができるのかととても自由を感じた。ホアキン・フェニックスがどんどんメル・ギブソンに似てきていた。意味がさっぱり分からないけどやたらと印象に残る映画だった。
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