ザ・マスターのレビュー・感想・評価
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求めても求めても手に入れられないもの
PTAは『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』で一皮剥けたと言われていて、確かに私もおあの作品で監督としての階段をひとつ上がったという印象は持ったのだが、今作を観て思ったのは、PTAはデビュー作から一貫して父親と息子(あるいは親子に代わるような親密な関係)や家族(あるいは疑似家族)について描いてきたということ。それはずっと変わっていないんだなということだった。
今作の主人公は、崩壊した家庭に育ち、第二次大戦に出征、更に過酷な戦場でトラウマを抱えたフレディ。彼には故郷に「必ず戻る」と約束した恋人がいたが、戦時中から酒に溺れ無事帰国しても彼女の元に戻りたいと思いながらも、戻ることが出来ず、職を転々とする。
そんな彼が出会ったのが新興宗教“ザ・コーズ”の教祖であるマスターことランカスターだった。居場所を失っていたフレディは初めて自分とその過去をさら出すことの出来たマスターに信頼を寄せ、疑似家族のような“ザ・コーズ”の中に自分の居場所を見つけたかに思えたが…。
フレディとランカスターとの間に親子にも似た情が通ったことは確か。しかし、フレディはランカスターを始め教団の教義ややり方への違和感を捨て去ることが出来ない。
実の父親をペテン師扱いするランカスターの息子やマスターの新作を酷評する仲間にフレディが食ってかかるのも、彼自身がランカスターを信じきることが出来ないことへの苛立ちからだ。
ラスト近く、イギリスのマスターを訪ねたフレディがやつれているのは、誰も自分を救えない、自分でさえも救えないという諦めの現れだったような気がする。
フィリップ シーモア ホフマン 残念です
フィリップ シーモア ホフマンはどの映画にでていても安心する俳優さんで、大好きです。
今回も、そんな理由で、見たかった作品をやっとみました。
ホォアキン フェニックスの鬼気迫る演技は、圧巻❗️
ゼア ウィル ビー ブラッドを作った ポール トーマス アンダーソンが監督と知り、納得した感が…
人間のドロドロとした内面を描き出す技にかけては、天才だと思います。
何より フィリップ シーモア ホフマンの演技が見られないのは、本当に残念です-_-b
役と俳優の境目
この映画観た時、あーこれホアキンそのまんまの役じゃないかと思った。
もともと本作に出る前の『容疑者、ホアキン・フェニックス』をめぐる一連の騒動などで(映画自体の出来も含めて)、ホアキン正気か?大丈夫か?と思っていたわけである。
加えて幼少期カルト教団に属していたというホアキンの経歴、有名すぎる兄の死、度々報じられる変人ゴシップなど、この人は何か重いものを背負っているに違いないと、ファンの側が勝手に思ってしまっている。ハリウッドの中で彷徨っている人と感じてしまう。
本作に漂う苦悩は、もちろん役の上でのことなのだろうが、どうにもこうにもホアキン自身の苦悩に思えてくる。役柄の復員兵の彷徨いとホアキン自身の彷徨いとが重なってしまう。
自分の居場所がない、どこにもない。そう感じている男が
『容疑者、ホアキン〜』では、薬まみれになりながら「オレはここにいるよ〜」と情けない歌をうたい、
本作では、酒に溺れてカルト教団の中で足掻いている。
演技というよりホアキンそのまんまに見えてしまう。
役柄の方が、ホアキン自身に近づいてきている、そんな印象すら持った。
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そして、教祖ランカスター演じたフィリップ・シーモア・ホフマン。
『容疑者、ホアキン〜』騒動後、俳優復帰作を模索していたホアキンをこの映画に薦め救ってくれたのが、フィリップ・シーモア・ホフマンだったというのを何かで読んで、良い人だなあと当時思った。
教祖ランカスターという役については、皆に救いを説いている男が一番救いを必要としている、何かに縋っている、変な酒を呑んでいる姿が悲しいなあと思っていた。
先月初めにフィリップ・シーモア・ホフマンの悲報を知った時に、この映画のことを思い出してしまった。
この映画で描かれたランカスターの苦しみは、まんまホフマンの苦しみだったのかもしれないと、
ランカスターが変な酒に手を出したようにホフマンも薬に手を出したのかもしれないと勝手に思ってしまった。
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上記のように俳優のバックグランドと役を重ねて観るのは、もの凄く間違っている。
実際のところ、ホアキンやホフマンの本当の姿を、観客は知る由もないからだ。ゴシップニュース等で推測しているに過ぎない。
彼らがキャスティングされたのもバックグラウンドがどうのでは無く、全く別な理由だと思う。
間違っているとは知りつつも、俳優と役を重ねて観てしまうくらい、本作には痛切な何かが流れていた。
映画のストーリー自体は俳優とは無関係のフィクションだ。だがそのフィクションから溢れ出る感情は、どうにもこうにもノンフィクションだと錯覚してしまう映画だった。
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本作の製作者は「彷徨う人の物語だ」と言っていた。
大戦後、社会になじめず別の世界に自分の居場所を見つけようとする。復員兵、酒、去っていく女…、分相応の女との暮らし。そんな筋立ては『彼奴は顔役だ!(1939)』を下敷きにしたのかなとも思う。彷徨う人が自分の足場として縋るのが、本作ではカルト教団であり、『彼奴〜』ではギャングの世界だった。縋ってもそこに本当の居場所はない。『彼奴〜』が普遍的な話なように、この映画も普遍的な話だと思う。
普遍的な物語だからこそ、誰にでも共通する感情の物語、ホアキンやホフマンの個の感情の物語に見えてくるのかもしれない。
支配と依存。
その宗教団体の名前を聞くと、あの大スターの顔が浮かんで
仕方ないのだけれど、日本でも数ある宗教団体に於いて、
一人間が何を信じてどう生きようがそれはその人の自由である。
但しそれが社会を恐怖に陥れたり、一人間を家族から完全離反
させる力を持っているなんて明らかにおかしい。世間が囃したて、
その団体が窮地に陥りついに反社会活動を起こすというケースも
あったが、どうして人間はこういうシステムに弱いんだろう。
主人公フレディの性格…とても尋常とは思えない行動を起こす
彼の生活には、捉えようのない破壊性が見てとれるが、それを
とある誰かの力で違う方向へ向かわせることができるかという、
いわば実験映画のような感じがした。こういうドラマを続けて
観せられる苦痛の幅で、自分自身の内面が明らかになってくる。
自分を助けた人間との関係は、一生主従関係として成り立つのか。
というより、成り立たせないといけないものなのだろうか。
従う人間と従わせる人間各々の性格にも因るが、従わせる人間も
従う人間も、かなりの不安要素に駆られている気がしてならない。
離れ離れになるのが怖い。お互い依存し合っている関係に見える。
本来の自分がどんな人間か(そんなこと完璧に判りはしないけど)
今まで生きてきた自分とその生き方に理解・納得・反省・前進できる
自分である場合、あまり他人の支配にすがろうとは思わないもの。
この宗教の内情を暴く話なのかと思いきや、暴くのは人間の内面。
終盤でバイクに跨り、マスターの元から疾走する主人公は、やっと
自身の立ち位置を自ら見出そうという意欲に駆られた象徴となり、
追ってきたマスターとのやりとりで、彼の(浅はかながらも)自立が
齎される。どんな運命も受け容れることで道は拓かれていくのだ。
このマスター自身も裏では妻に支配されており、彼に心ない偏見
「催眠術じゃないのか?」をぶつける一般人の中傷に傷つきもする。
時を同じくして依存という意味では、
マスターを演じたPSホフマンが薬物依存で突然この世を去った。
今作では彼の依存する演技が完璧だったこともあって衝撃が強い。
(自分を支配できるのは自分、他人がしてくれるのはアドバイス。)
傑作
人生を損なった男の物語。
破壊や救いはない。
では何故素晴らしいか、自分の人生がこの映画の中にあるからとしか表現できない。
最後のセックスシーンで何かを提示しているが、それを考えることも蛇足だと思える。
人生はこのようにふがいなく愚かで美しくない。
マグノリア以来の傑作。
人が生きるということは。
さよならCOLORという歌があった。
ふと頭の中でくちずさんだ。
人は出会いと別れの中で生きてゆく。
マスターは一体ラストシーンで何を考えたのだろう。
そしてフレディは一体何を考えたのだろう。
それを思うと胸が痛くなる。
これが映像というものの魅力だと思った。
映像でしかできない。
文章にすれば、全部を説明せざるを得ない。
このときの心情はこうで、こうだったとかそういうことを言わざるを得ない。
そういった意味で、この映画は特別に優れている。
全てが役者の演技のために用意された舞台だ。
それぞれのキャラクターがそれぞれに考えた世界をセリフにする。
何もそれを補うセリフなどどこにもない。
それこそ映画でしょ。
あとはこっちで考えろというそここそ映像の醍醐味ではないか。
さよならから始まることがあるんだよ。
本物の俳優の演技
やっとこさ鑑賞。
上映してる時、観に行けなかったので。
内容的には私的には少々難解でした。
一回観ただけでは理解しきれなかった。
なので時間が経ってからまた観ようと思います。
しかし、ホアキン・フェニックスとフィリップ・シーモア・ホフマンの演技が、すごい。
二人の演技でほぼ成り立っている。
エイミー・アダムスも、今回も良い。好きだ。
「容疑者、ホアキン・フェニックス」で
俳優引退・歌手転向のニュースを聞いた時、驚き&拍子抜けしたけれど、
やはりホアキン・フェニックスはすごいです。狂気と孤独を、観てるこちらが痛いほど感じさせる演技は圧巻でした。
どうか一生俳優でいて下さい。
ホフマンはもう言わずもがな。最高。
ほんとに裏切らない演技。大好きです。
もうこの素晴らしい演技をこの先観られないのかと思うと…残念でなりません。
あとホアキンの顔はやはり、
かなり濃いなと思っただけに、
ホフマンの顔の薄さで緩和され。。笑
最後のシーンとプロセシングのシーン。
圧巻だった。
本物の俳優って、すごい。
なんだろうね、
このだるさは。
話に引き込まれることなく、ただ終始傍観者として観てしまった。
絶賛というか数々の受賞の話題もあった作品なので、劇場に足を運ぼうかと思ったが、TSUTAYAれんたるで良かった。
敷居が高いこと高いこと。わたしには全く理解できませんでした。
完敗です・・・チーン。
自分を救うのは人への愛情って事?
先が見えなくて、ダラダラ感が睡魔を誘う。
マスターに一度は惹かれ友情をもつも、疑問をもって離れていく。
依存し過ぎた分、最後に来世は敵になると言ったマスターの心情がわる。
顔!
観る前に賛否両論ってのを聞いていたのとPTA監督っていうのでかなり身構えて臨んだ138分。
ホアキン・フェニックスとフィリップ・シーモア・ホフマンの顔。
大画面で長回し。それだけでグイグイ引き込まれる。
狂気にも似たホアキンに対して、ホフマンのふくよかな顔と声。
妙にざわざわする音楽と長時間無音シーンの緊張感。
しかしわかりやすい起承転結はなく
怪しげ極まりない集団と行動原理のわかりにくい主人公。
『マスター』の意味もよくわからない。
しかし濃厚で凄いモノを観た!という体験は確実に残る。
しかしここまで行くとついていける人は限られると思う。
わかりやすさを排して描きたいものを自分のスタイルで描いた感じ。
でも、やはり二人の顔で成立した映画だな。
美しい作品
美しい映画
最近つまらない映画が多かった中で久々感動した。
特にカメラワーク
冒頭の海の美しさ
畑を走るシーンのカメラの追い方
劇中盤にバイクに乗るシーンは最高美しくて興奮した。
でもソルトレイクみたいなところで撮影する話はなかったのかなぁ。
ウユニ塩湖で撮影してたらまたそれはそれで観てみたかったなぁ。
絵画を切り抜いたようなショット満載の映画
欠点と言えばDVDのジャケットからはこの美しい映画を想像しにくいってことくらいかなぁ。
最近のアメリカ映画はろくなのがないが、こういった美しい作品がたまにあるから好きだ。
難解!でも、一見の価値はある
「ブギーナイツ」「マグノリア」「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」…。
監督作に外れ無しのポール・トーマス・アンダーソン。
前作「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」は圧倒的な作品だったが、今回もまた一筋縄ではいかない。
第二次大戦から帰還後、アルコール依存で自暴自棄な生活を送るフレディ。そんな時、新興宗教団体“ザ・コーズ”のマスター、ランカスターと出会い、彼に傾倒していく…。
トム・クルーズが熱心な信奉者で知られる実在の新興宗教団体“サイエントロジー”をモデルにした事でも物議を起こした。
ハッキリ言って、非常に難解。自分の頭では、映画が訴えるテーマの半分も理解出来なかっただろう。元々、宗教に傾倒する意味すら分からない。別に宗教の全てを非難する気は無いが。
しかし、宗教云々とかではなくとも、二人の男のドラマに焦点を絞って見る事は出来る。
迷える男と救いの手を差し伸べる男。
「君を好きなのは私だけだ」
宗教の教祖の言葉としては、これほど巧みなものは無いだろう。
フレディはただ宗教にすがりたかったという訳ではあるまい。彼が惹かれたのは、全てを受け入れてくれる存在。
それはランカスターも然り。フレディを言葉巧みに宗教に引きずり込もうとしていた訳ではない。彼は彼なりにフレディを救おうとしていた。
愛憎とも絆とも言える関係で結ばれていく。
迷える心を救えるのは、宗教か、絆か。
これが、演技の極地。
ホアキン・フェニックスの、終始緊張感みなぎる演技は凄まじい。皮肉にも本作へ出演前にプライベートで奇行が目立ち、役柄と素顔が被って見えて仕方なかった。
“動”のフェニックスに対し、“静”のフィリップ・シーモア・ホフマン。その巧みな演技は文句のつけようが無い。
この二人が向かい合う“プロセシング”のシーンは本作最大の見所。
エイミー・アダムスもこういう作品でこそ演技が光る。(フレディの視点で女性が全員全裸のあるシーンで、エイミーのおばちゃん体型はある意味衝撃的!)
ジョニー・グリーンウッドの音楽は印象的。
65ミリフィルムによる重厚ながらくっきりとした映像は美しい。
先にも述べた通り、難解な映画である。好き嫌い物の見事に分かれるだろう。
映画の中身について知ったような事は言えない。それでも、演出、演技、映像、音楽…映画の力は感じられる。
見て損は無い映画だと思う。
死の臭いのする刺激に魅入られて
フィリップ・シーモア・ホフマンとホアキン・フェニックスの競演、ずっしりと見応えがありました。
孤独な男達の魂の話でした。
いつの間にか、フィリップ・シーモア・ホフマン演じる新興宗教のマスター、ランカスター・ドッドに気持ちをもっていかれました。
アルコール依存症のフレディが作る、どう見てもアブナいカクテル。弱い者には死をもたらしてしまうほどに危険なもの。それは、まるでフレディのよう。
ランカスターのカリスマ性と人柄で始まった集まりが、彼と解離しゆっくり変容してゆく中、その死の臭いのする危険な刺激を欲し、魅入られたのでしょうか。じりじりと痛いです。
ホアキン・フェニックスの、全く先の読めない狂気の演技が凄まじく呆気にとられてしまい、フレディの内面までは思いを致せなかったというのが正直なところなのかもしれない。
鑑賞する度に違う作品に感じるような気もします、時間をおいてまたぜひ観たいと思います。
一目会ったその日から恋の花咲くこともある!
男同士の一目惚れのはなし。
布教行脚中の船に潜り込んだフレディ。教祖は、一目で彼を気に入り教団に迎え入れる。
いや、「気に入った」じゃ弱いかも。「魅せられた」というべきか。
けれど教祖の家族は、フレディのことを好ましく思っていない。なかでも教祖の妻は、やつは疫病神だと直感している。
逆に教祖は、自分がどれほどフレディを渇望しているのかまだ分かってない様子。だから妻の忠告を無視し教祖はフレディを離さない。ありったけのセラピー術でフレディの心を操ろうと試みる。
フレディ、ようやく兵役前に結婚を誓った彼女に会いにいく。バイクをぶっ飛ばして。
つまりフレディ的にはセラピーは成功だった。教祖の意に反して。
フレディが教団から居なくなってから、教祖は手を尽くして探して模様。そしてその時期教団は飛躍的に成長した様子。
ロンドン支部を訪ねてきたフレディ、教祖と妻が執務室で出迎える。このラストは、教祖が声なく「行かないでくれ」と懇願する魂の絶叫シーン。
ぱっと見、教祖は妻の意向に汲み、フレディに教団から去るように説得している風。けれど直接的に出て行けというわけでない。未練タラタラで言外に「行かないって言ってほしい」と願っている。
魂の救済を説きつつ、自身の魂がズタズタに引き裂かれ、もだえ苦しむ教祖。空気を読んで去り行くフレディ。運命的に出会ったふたつの魂、けれど添い遂げることは許されなかった。
面白い!が、真面目に付き合ってると身が持たない。
流石!流石のPTA映画!ですなぁ。うんうん。今回もひたすら面白かったですわ。
相変わらずというか、揺るぎがないというかね。いつも通りのシチュエーション的ディスカッションなノリで以って映画をひたすら切り開いて進めて行くPTAノリ満載の最新作でした。
自分はあれなんですよ。PTA映画で学んだことがあってね。「マグノリア」観てから以降、教訓に刻んでるのですけども。
彼の映画は兎に角『額面通り眉間に皺寄せて真面目に向き合わない』ことってね。そう決めてるんですよ。ここはもう人に寄りましょうけども。
んまあ疲れるんですよね、真面目に向き合ってると。精神が疲弊しちゃってね。だからもう、自分の場合は真剣路線なそこら辺を放棄して鑑賞するんです。
余りにテンション高くて役者の演技が振り切れちゃってるからギャグ的感覚も滲み出てきてて、そっち方面で観るとめちゃくちゃ面白いんですよ。
もう行き過ぎのテンション振り切れシーンのオンパレードだしホアキン・フェニックスもフィリップ・シーモア・ホフマンの演技もマックス限界値で、それを肩の力抜いて観るとくっそ楽しめるっていう。
おまけにあそこまでのハイボルテージを魅せ付けといて、結局は最後まで何も起こらずに終わるというね。
「オチは?それはオチなの?」ていう。本当に何も無いまま終わるという。
あのテンションで以って何も起こらない。最高ですよ。
て、映画です。ハイ。
ザ・マスター (魂に取り付いて離れない夢のよう)
明らかに「ソウル・メイト」がテーマ。二人の男の絆は、肉親や夫婦や親友、あらゆる関係を超越して結ばれている。単なる親密さでもなければ、まして同性愛でもない。二人の間には妻を初めどんな異性も同性も誰一人、入り込むことはできない。
戦後すぐの1950年代、時代が求めていたカリスマ教祖と、飲んだくれの帰還兵。戦場からの心の傷を引きずる彼がひんぱんに狂暴化していたのは、アルコール依存症のせいではなく、抱えた闇をすくい取ってくれる唯一無比の相手=ソウル・メイトを求めながら見出せなかったからだと考えられる。
そんな「魂の伴侶」に出会うまで、人は心休まることなく、次々と相手を替えては、一生に一度遭えるかどうかわからない真のパートナーを探し続ける。エンディングに流れたChanging Partnersの歌でそれを知らされ、安らぎを得た主人公の顔に涙しながら、良き時代へ一気に引き戻された。
ヒプノセラピーで過去世に行かず、来世を見たら救われたかも知れない?
ファーストシーン、何処までもピュアな輝きを放つ深いブルーの海。
このブルースカイ・ブルーオーシャンは、私達を一体何処へと誘うのだろうか?と思ってスクリーンを見詰めていると、離島に従軍しているホアキンフェニックス演じるフレディ・クエルの登場。フレディは軍人と言うより、密造酒の鉄人・そして女狂い。
この束の間のシーンだけで、フレディがタダ者では無く、彼の異常性が一目で解る。
巧い撮影だ。
そしてこの映画全体に言える事だが、映像が、凄くブライトで、自然は何処までも抜けるように美しく、街並みも、その他のセットもとても、美しい映像で描かれていく。
それに対比する様に、主人公のフレディと彼のマスターとなるフィリップ・シーモア・ホフマン演じるランカスター・ドッドの心の闇の深さと、その大きさ、そしてその恐さが、
この美しい映像の中に、2人を立たせると、そこは一瞬にしてシェイクスピアの悲劇でも観ているような錯覚に陥りそうな、似た者同志の2人の対決の場になる。
基本的には、暴力を見方に付け、総ての解決方法を暴力に頼っているフレディ。
それに対して、心を操り、言葉を武器に物事を進めていくランカスター。
まるで、その生き様は、水と油の如く正反対だ。しかし、その2人の心に共通する闇。
「ザ・コーズ」と言う新興宗教の教義の核心部分、真実の教えについてはランカスター本人以外には、本当に理解している者はいない。
そして彼の家族である、妻も、子供達も、誰も彼を理解しようとはしない。
真実からは、目を反らして生きている。恐れられ、妻に利用される事はあっても、愛されてはいないのだ。その事自体をランカスター自身は知っている。
そしてまた、フレディも帰還兵のPTSDを患っているが故の異常なまでの、突然の怒りなどの感情の波に翻弄され、自己のコントロールを完全に喪失している。その結果誰にも受け入れられない深い孤独が彼の心を完全に支配する。
その完全なる孤独の深い闇を抱え込んでいるこの、フレディとランカスターの2人は磁石の様に互いに引き合う。
心の中は、切り開いて覗く事も出来なければ、見た目にはそう簡単に表に表現する事が出来ない。
しかし、ランカスターは心の専門家である。人の心の中の闇については、プロなのだ。
直ぐに、この深海をも飲み込んでしまう程に暗く留まる処も無い心の闇をフレディの中に観る。そして、彼との共依存ならぬ狂依存関係になる。
ここに、人の哀しさ、孤独が溢れ出される。恐い映画だ。人間の真実を言い当て、観客の前に、大きな口を開けて待ち構えている巨大なサメの様な映画だ。しかし映像は流れる深海の波の様に穏やかで、あくまでも何処までも美しいのだ。
エイミー・アダムスがその実、総てを握っていると言う女性の真実の恐さからも、目が離せないものだ。ラストが、また海だが、何処までもこの恐さが心に残る映画だった。
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