「役と俳優の境目」ザ・マスター 小二郎さんの映画レビュー(感想・評価)
役と俳優の境目
この映画観た時、あーこれホアキンそのまんまの役じゃないかと思った。
もともと本作に出る前の『容疑者、ホアキン・フェニックス』をめぐる一連の騒動などで(映画自体の出来も含めて)、ホアキン正気か?大丈夫か?と思っていたわけである。
加えて幼少期カルト教団に属していたというホアキンの経歴、有名すぎる兄の死、度々報じられる変人ゴシップなど、この人は何か重いものを背負っているに違いないと、ファンの側が勝手に思ってしまっている。ハリウッドの中で彷徨っている人と感じてしまう。
本作に漂う苦悩は、もちろん役の上でのことなのだろうが、どうにもこうにもホアキン自身の苦悩に思えてくる。役柄の復員兵の彷徨いとホアキン自身の彷徨いとが重なってしまう。
自分の居場所がない、どこにもない。そう感じている男が
『容疑者、ホアキン〜』では、薬まみれになりながら「オレはここにいるよ〜」と情けない歌をうたい、
本作では、酒に溺れてカルト教団の中で足掻いている。
演技というよりホアキンそのまんまに見えてしまう。
役柄の方が、ホアキン自身に近づいてきている、そんな印象すら持った。
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そして、教祖ランカスター演じたフィリップ・シーモア・ホフマン。
『容疑者、ホアキン〜』騒動後、俳優復帰作を模索していたホアキンをこの映画に薦め救ってくれたのが、フィリップ・シーモア・ホフマンだったというのを何かで読んで、良い人だなあと当時思った。
教祖ランカスターという役については、皆に救いを説いている男が一番救いを必要としている、何かに縋っている、変な酒を呑んでいる姿が悲しいなあと思っていた。
先月初めにフィリップ・シーモア・ホフマンの悲報を知った時に、この映画のことを思い出してしまった。
この映画で描かれたランカスターの苦しみは、まんまホフマンの苦しみだったのかもしれないと、
ランカスターが変な酒に手を出したようにホフマンも薬に手を出したのかもしれないと勝手に思ってしまった。
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上記のように俳優のバックグランドと役を重ねて観るのは、もの凄く間違っている。
実際のところ、ホアキンやホフマンの本当の姿を、観客は知る由もないからだ。ゴシップニュース等で推測しているに過ぎない。
彼らがキャスティングされたのもバックグラウンドがどうのでは無く、全く別な理由だと思う。
間違っているとは知りつつも、俳優と役を重ねて観てしまうくらい、本作には痛切な何かが流れていた。
映画のストーリー自体は俳優とは無関係のフィクションだ。だがそのフィクションから溢れ出る感情は、どうにもこうにもノンフィクションだと錯覚してしまう映画だった。
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本作の製作者は「彷徨う人の物語だ」と言っていた。
大戦後、社会になじめず別の世界に自分の居場所を見つけようとする。復員兵、酒、去っていく女…、分相応の女との暮らし。そんな筋立ては『彼奴は顔役だ!(1939)』を下敷きにしたのかなとも思う。彷徨う人が自分の足場として縋るのが、本作ではカルト教団であり、『彼奴〜』ではギャングの世界だった。縋ってもそこに本当の居場所はない。『彼奴〜』が普遍的な話なように、この映画も普遍的な話だと思う。
普遍的な物語だからこそ、誰にでも共通する感情の物語、ホアキンやホフマンの個の感情の物語に見えてくるのかもしれない。