「想像のワルツ」ザ・マスター たろっぺさんの映画レビュー(感想・評価)
想像のワルツ
「ザ・マスター」
原題「The Master」
製作国 アメリカ
監督/脚本 ポール・トーマス・アンダーソン
時間 138分
公開日 2012年9月1日
○原点
本作の舞台は1950年、第二次世界大戦後のアメリカ合衆国である。
戦勝国となり経済的に豊かになりはしたが、共産主義への過剰な恐れや核競争時代の到来という不安が世相を覆い、メディアやハリウッドでは赤狩りが起こった。
その中で、アーサー・C・クラークやアイザック・アシモフ、ロバート・A・ハインラインなど、SF小説の大家が活躍したのもこの時期である。
本作にインスピレーションを与えたL・ロン・ハバードも元はSF小説家であり、そのSF的想像力の延長線上にあるフロイトの夢診断などの心理学的知見を応用し、独自の心理療法を解説した著書「ダイアネティックス」を出版しベストセラーとなった。
彼は療法や理論が宗教に関わりがあるものではなく科学的アプローチであると主張していたが、徐々に宗教的要素を取り入れるようになり、53年にサイエントロジー教会を設立する。
その変化は反発や疑問を生んだが、結果として多くの信者を獲得した。
合衆国の50年代、それは既成の教会信者の増加率が人口増加率を上回る宗教の時代であった。
○意匠
・65mm
制作当時、撮影や上映に於いてデジタルへの移行が決定的な流れとなり、フィルムが消えるのではないかという危惧が映画界に蔓延していた。
その中で、ポール・トーマス・アンダーソン監督は、物語の設定である50年代に使用されてた65mmフィルムで撮影(一般的に使われる70mmフィルムという呼称はフィルムの両端に記録された音声トラックを含めた上映時のサイズのことで、カメラでの撮影時は65mmのフィルムが使用される)し、フィルム撮影のみ表現出来る格調を絹のように滑らかな質感により証明した。
・冒頭
ゴダールを思わせる深い青の海面を真上から捉えたショットと、主人公である海兵隊員フレディの顔を捉えるショットを経て、カメラは浜辺でオリジナルカクテルを啜る彼の姿を捉える。
同僚に毛ジラミの殺し方を嬉々として語る彼の佇まいは、50年代アメリカのビーチから凡そ無縁な不穏さを漂わせている。
ジョニー・グリーンウッドが奏でる不協和音が包む中、不気味にハイテンションな彼があからさまに卑猥な行動をとるに至って、本作の基調トーンへと決定付けられていく。
ラジオからは、日本の降伏をもって第二次世界大戦の終結を宣言するマッカーサー元帥の声が聴こえてくる。
この終戦は合衆国に於いて祝賀ムードを生む筈であるにも関わらず、画面は汗塗れで船の酒蔵からアルコールを盗み出す彼の姿が映されるばかりだ。
一海兵隊員にとって終戦がどれ程無意味なものであったかをマッカーサー元帥の勝利宣言との対比にて示し、過酷な戦争が多くの兵士達に齎した心的外傷が国に穿った虚無を物語の起点に据えている。
・プロセッシング
フレディは自分の過去、アル中で死んだ父、精神病院に入った母、性的関係を持った叔母、そして従軍中に手紙をくれたという16歳のドロシーという女の子について語り始める。
突然家に訪れたフレディをドロシーは優しく迎え、彼の頬にキスをし、兵士の帰還を願う歌「Don't Sit Under The Apple Tree」を歌う。
だが、ベンチに腰掛ける二人を捉えるショットは残酷なまでに不揃いな両者の外見を際立たせている。
ドロシーはノルウェーへ行く話を唐突に切り出す。
そこでランカスターは間髪入れず、それは誰が旅立つと言ったのかとフレディに問いただすと、彼は俺が言ったと答える。
ランカスターと我々は眉を顰める。
ドロシーはフレディの妄想の産物か?
しかし、そう疑った次の瞬間、やはりドロシーは実在すると考えるに充分な2人の別れが描かれる。
本作が齎す混沌は、我々の記憶と共に移ろい、確定的なイメージを結ぶことを拒否する。
・旅の終わり
マスターの右腕にまで登り詰めたフレディだが、ランカスターが死と隣合わせのバイクの疾走を楽しんだ後に、お前も乗ってみろとフレディを促す。
フレディはランカスターが走った方角とは逆の方向、フィーニックスの広大な砂漠を猛然と駆け抜け、そのまま蜃気楼の向こうへ消えて行く。
そして流れるジョー・スタッフォードの「No Other Love」(ショパン「別れの曲」)。
スモーキーな歌声はそのままに、画面は忘れられない過去を訪ねるフレディのショットへと切り替わる。
ドリスの母が彼を出迎え、事の顛末を告げる。
あっという間に過ぎ去る時間の残酷さを美しく表現したシーンである。
・別離
自由な男、何ものにも縛られない、海を股にかける、主に仕えない最初の人間。
今ここで君が去るならば私達が会う事は二度と無いだろうと告げるランカスター。
では次の人生で会おうと答えるフレディ。
異体同心である二人の別れに、ランカスターは「Slow Boat to China」を歌う。
ふと気付くと、本当に欲しいものからは見放されている。
そんな人生に於ける絶望を野心に満ちたフィクションの中で立ち上らせる本作に相応しい歌である。
○弁証
彼等が生きる50年代のアメリカ合衆国は詰まる所、組織と個人に集約される。
戦後の経済発展により中流層が膨張すると同時に、企業が全国的に組織化され、社会は家庭の結びつきや地域社会の縁故よりも学歴がものをいう世界へと変化し、組織に順応するホワイトカラーが増大した。
彼等は故郷を捨て、組織に命じられるままに移動していく。
もしフレディがドリスと結ばれていたなら、間違いなく組織人になっていただろう。
その代わりに彼は家族を見出すが、彼が守ろうとしたものは組織に変貌を遂げている。
本作は、激動の時代を漂う孤独な魂を浪々たるロマネスクへと織り上げてみせた。
波に攫われ、いつしか消えて、また新しい女を作り上げる。
ダンスの相手を変えて繰り返し踊り続ける人生。
それは孤独の道、だが悲観する事は無い。
音楽が止まぬ限り、巡り会う事の出来ないワルツは存在しないのだ。